プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

父から昔は甘い物やお酒が貴重だったと話を聞きます。
しかし、家は農家で米は1日5食食べていたとも言っていました。

最近、水飴やアルコールが簡単にできることを習い不思議に思っています。
例えば、甘い物がそれだけ貴重なら、米はたくさんあるわけですから、
米と大根の汁から水飴作ればいくらでも食べられるでしょうし、
失明の恐れのある違法なお酒を飲むよりも水飴からアルコールを作れば
いくらでも安く安全にアルコールが述べると思うのです。

なぜ、当時の人はこういったことをしなかったのでしょうか?

A 回答 (9件)

経済的価値観で考えましょう。



今でも甘い物やお酒は高価ですよ。
おなかが減って、死にそうなとき、
300円の牛丼
300円の飴
300円の酒
どれを選びますか?
サラリーマンが1日のお小遣い300円だったら、どーしますか?
300円の牛丼だけで、甘い物やお酒は高価で手が出ませんね。
昔はもっと厳しい、余裕のない選択です。
食べ物を我慢してまで、甘い物やお酒を買いますか?
米と、米を加工したものではどちらが高いでしょう?
加工品の方が高いです。
甘い物やお酒は製造コストの分、高いです。
農家も高くて売れないものは作らなかったわけです。
売れるならば作ったはずです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
売る場合には高額の税金がかかりますよね?また、足が付く可能性があります。それなら、家で作り自家消費してしまえばばれず税金分が浮くわけです。
例えば先日もインドネシアで密造酒を飲んで死亡例がかなりの人数上がっています。こんな記事です。
それなら、原料は比較的安価で済みますので作った方が経済的合理性からも安いのではないかと思うわけです。特に、原料については言うほど高くはないわけですし・・・
http://www.yomiuri.co.jp/world/20180413-OYT1T500 …

お礼日時:2018/04/13 23:10

①輸送基盤が破壊されていました。


②生産施設が破壊されていました。
③経済が混乱していて効率の良い資源配分ができませんでした。
④しかも経済資源は戦争で使い切っていて、アメリカに頼る状態でした。

いくら原料があっても、運ぶ手段と加工する手段、そして配分する手段がなけば宝の持ち腐れです。
だから食糧生産量が全人口を賄えるはずの現在でも地球上に飢餓があるのです。
中国はレアメタルの減量を輸出することしかできないのです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
戦後でもう少しした段階について想定しています。また、その状態でも農家については1日5食食べていたと祖母が言っていましたので言うほど困っていなかったようです。ただし、都市部は大変だったようですが・・・

また、世界の飢餓については本件とは恐らく関係なく、単純に富の再分配の問題かと思います。食料を作るよりも、バイオエタノールやソーラーパネルの発電所を作った方が高値で売れますからね・・・中国については昔はそうでしたが現在はIT大国となりつつありますしだいぶ異なるようですよ。

お礼日時:2018/04/13 23:13

>しかし、米から水飴は簡単に作れますし、アルコールにしてもそれに酵母を入れておけば(法律はともかく)作ることは可能かと思うわけです



そそそ、ある所では、大多数の場所でそれが出来なかったということです。
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まず終戦の年は米が全く取れませんでした。


http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/inasaku/jit …
また砂糖は日本の領土であった台湾で作っていました。
もちろん終戦後は台湾からの砂糖は入ってこなくなります。
終戦後7年も経った1952年まで砂糖は配給制でした。

私の母も田舎育ちでしたので食べ物には全く困らなかったそうですが、父は大都会で育ったために食べ物がまったくなかったと言います。それくらい都会と田舎とでの食糧事情は違いましたし、闇物資に手を出さなかった判事が餓死したり、言葉巧みに食料を分け与えるなどとして7人もの婦女を殺害した小平事件などもおきました。
それくらい都会では食べ物がなかったということなんです。

砂糖は先程書いたように、戦時中から台湾で作っていたものが入ってこなくなり、また沖縄もさとうきび畑が戦場となり機能しなくなったということです。

 1950年代からサッカリンやチクロなどの人工甘味料も作られましたが、危険性を伴い1960年代後半には使われなくなりました。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
私が想定しているのは田舎での事情になります。家も都会からの疎開した人を養っていたそうです。ただ、祖母は1日5食食べていたと言っていましたし、おかずはあまり無かったようですが、米については全く困っていなかったようです。米と漬け物、大豆加工食品と川魚程度しか無かったそうです。(ただ私の見たことのある映画とは隔世の感がありそうですが。)
ただ、甘い物やお酒は貴重だったと言っていました。それなら、米を発酵させて甘酒(砂糖並みに甘い)にしたり、お酒を造るなりやり方はあったのではないかと思うわけです。しかし、甘いもは貴重だったと言っておりその矛盾が気になっています。

お礼日時:2018/04/13 23:19

再度Yonakikkoです。


 あなたのお父さんは、戦後徐々に復興してから物心がつたのでしょう。私は終戦前から実際の状況を見ています。
 映画の影響などはないし、今の中国のような経済格差もほとんどなかったのです。農家は生産物を強制的に国へ拠出しなければならない米や他の物を隠して持っていたから自分達が生産したものは充分ではないが食べれました。これはほんの一部の農家であって、多くの農民は飢餓状態でした。ほとんどの国民は栄養失調でした。だから今の高齢者は背が低いのです。
 いくら本当のことを書いても実際に経験していない人には信じてもらえないでしょうね。信じられなくても当然です。それほど悲惨だったのです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
失礼しました。経験者さまでしたか。ただ、上の回答にもありますが、田舎と都会とでは別世界のように差があったようです。とりあえず、食べるに困らない農家を想定しています。
また、強制的に拠出と言っても当時、現実としてクロヨンやトーゴーサンと呼ばれていますし、都会で耕作地を持たないサラリーマンとの差はかなり大きかったのではないかと思います。

お礼日時:2018/04/13 23:23

戦後すぐに限定すれば、


米などは、食料統制で、すべて正規ルートに流すのが建前。米だけでは足りずに、校庭を芋畑にしたって話もありました。お酒より、ご飯優先です。
1日5食の話、聞いたことがあります。早朝から日が落ちるまで、ぶっつづけの肉体労働のためです。けっして贅沢で5食たべていたのではありません。

合成酒は、正規ルートではなく、闇市で売買されてたもの。飲む人間の健康など全く考えてない人たちが作って売ってました。儲かればなんでもいいという商道徳が廃れた時代ならではです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
戦後少ししてからくらいを想定して頂ければ幸いです。
米は十分にあるが、甘い物や砂糖が高価な頃。
高価なら作ればいいと思うわけですがなぜそうしなかったのか気になっています。

お礼日時:2018/04/13 23:25

昔はそれこそクックパッドや教えてgooも無かったので、「水飴やアルコールが簡単にできる」


事を知らない人も多かったのではないですかね。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
それでしょうかね・・・
ただ、お酒については稲作伝来、水飴は分かりませんが、甘酒(本物は滅茶苦茶甘い)については江戸時代には一般的な庶民の飲み物であったようですし、製造方法についても認知されていたのではないかと思うのです。ただこれについては確認したわけではないので分かりません。

お礼日時:2018/04/13 23:27

物資が不足し国民は飢えていました。

飢えた時、欲しくなる(体が要求する)のは炭水化物でカロリーの高い物---飴や砂糖です。
 あなたは戦後の悲惨さがわからないからこのような内容の質問をするのです。あなただけではありません戦後育った人は誰でも、その悲惨さは知りません。
 飴やドブロクを作ることはなどは、今の大人達と違って誰でも知っていました。しかし、その材料すら無かったのです。
 戦争をすると生き残った人達も、あなたには想像もできない悲惨な目にあうのです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

戦後の食糧難は映画などの影響が大きいと思いますが、都会では仰るように食料を育てる場所が無く悲惨だったと聞いています。実際、都会から引き上げてきた人が我が家にも多くおり大所帯だったようです。そのため、その悲惨さというのは、今の中国ではありませんが、都会と田舎ではあり得ないほどの格差社会であったようですよ?

実際、鬼籍に入った祖母の話では農家だったため、米はいくらでもあり1日5食程度食べていたそうです。
しかし、肉や甘い物、輸入品のバナナは貴重で死ぬ寸前まで食べていました。
また、魚は川が近くにあるため父はそこで釣って帰って食べていたと言っていました。

そのため、材料が多くあったなら、なぜ、砂糖やアルコールがそこまで不足していたのか気になっています。

お礼日時:2018/04/10 16:09

戦後数十年じゃなくて、戦後すぐですか?  戦後数十年だと今ですよ (^_^;



お米は主食ですよ
飴にしたらお腹がふくれないでしょ?
まずは、食べていくことが優先です

畑は燃えちゃったし鉄道や道路もズタズタですから、いくら田舎で米を作ってもそれを都会に運ぶ手段が無い、米も余るほど作れない
戦争終わって、数年経って、やっと毎日ご飯が食べられるようになって米も流通するようになれば、甘い嗜好品も作れるようになったんです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

時代は、父の話なのでそのあたりは何とも・・・^^
ただ、農家であったため祖母も父も米はいくらでも食べられていたと言っていました。寧ろ、引き上げてきた人を養っていたそうです。
甘い物は干し柿程度しか無く、甘い物はとても貴重だったと言っていました。
しかし、米から水飴は簡単に作れますし、アルコールにしてもそれに酵母を入れておけば(法律はともかく)作ることは可能かと思うわけです。
甘柿などそのシーズンだけでしか食べられませんし、水飴でも作れば年中食べられますし不思議に思っているのです。

お礼日時:2018/04/10 16:14

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