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最近は自殺者の数が交通事故死亡者の数よりも多いのですよね。なんとも嫌な世の中になったものです。
ネット上で自殺者を募って集団自殺を図る人たちもいます。

政府はこれに対して自殺サイトを封鎖するように働きかけていますが、根本の解決には全然なっていません。所詮は偽善のように思えます。

みなさんは自殺についてどう思いますか?私は月曜日のスーパーテレビを見ましたが、幼い子供を残して自殺するのは反対ですが、天涯孤独の人は仕方ないかもと思うのです。自殺の動機にもよりますが、病気や借金などどうにも首が回らなくて生き地獄なのに、自殺を止めて生き地獄に連れ戻すのは本人にとって可哀想かなと思います。

テレビドラマで良くありますよね、ビルの屋上から飛び降り自殺をしようとしている人を警察官が説得しているのを。「生きていればいいことがあるさ」などの常套句が飛び出しますが、そんなはずがないでしょ?と思いません?せめて「いいことあるかもしれないよ?」と言って欲しいものです。

要するに、本人の事情もよく知らずにきれい事を並べて自殺を止めるのはどうかな、と思うのです。借金や病気を肩代わりできるはずないですよね?私は家族や友人が自殺しようとしたら止めますし、できるだけ力になってあげるつもりですけど、赤の他人が自殺しようとしていてもみすみす見逃しはせずに話(自殺の動機)くらいは聞きますが、どうしようもなく本人が苦しんでいたら止めることはできないですね。なんて言ったらいいか分からないし、下手なことを言って本人に恨まれたくないし。

みなさんどう思います?家族や友人が自殺しようとしているのを止めるのは誰もが同じですけど、赤の他人の場合はどうしますか?

A 回答 (21件中1~10件)

>本人の事情もよく知らずにきれい事を並べて自殺を止めるのはどうかな、と思うのです。



これ私も賛成ですね。
自殺は悪いとか迷惑がかかるとか、挙げ句の果てに適切な手段を講じれば自殺の原因を解決できるとかのたまうやからもいますが、死ぬ人の気持ちを想像できてないと思います。

私は自殺したいと思った事はないので、これも想像でしかないのですが、死にたい人は一刻も現実から逃げたいんです。
死ぬのは悪いとか、死ぬ気があるならもう一度、死んだと思ってがんばれとか、まったく本末転倒なこと言うなぁ、と思います。そう言う人に限って、自分は自殺なんて考えた事もなく、幸せに充実した日々を送ってるんですよ。

カネがあれば病院で適切な治療云々言ってる人がいましたが、本気でそう思ってるのでしょうか、全くあきれます。
末期がんや原因不明の病で激痛にのたれまわっている人を見たことがないのか、それさえの想像力もないのかと思うと恐ろしい。

事故などである日、体の自由が奪われてしまったら、絶望して自殺する事も考えるでしょう。

生きろ、自殺は悪だ、他人に迷惑だ何て言う人は、自分が生き地獄にはまっても、それでも命は尊いんだ、生きなければならない、と冷静に思えるのか疑問です。ほとんどが精神的健常者の偽善に聞えます。

ところで、自殺を止めるかどうか、というご質問は無理があるように思えます。
目の前で自殺しようとする人がいる、というシチュエーションがほとんど想像できないからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。その人の自殺の原因の根本を解決しない限りは何の意味もないと思います。

お礼日時:2004/11/14 17:42

 物凄いポカをしました。

#20は#4です。#9の方済みません……!!
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#9です。


 偽善的なことや気休めは言わない方が良いという趣旨を質問者様の言葉から感じたので、私なりに感情論を排した言葉だけを並べたのですがそれはそれでご不快になられた様子でしたので。

 ここまで読んでいて質問者様や其の他の自殺を認める感じの方々は、「一度自殺しようとするまで追い詰められたらあとは幸福になれるはずがない」と思っていらっしゃるようですが、如何でしょう。
 #19の方は私のような考え方の人間は

>そう言う人に限って、自分は自殺なんて考えた事もなく、幸せに充実した日々を送ってるんですよ。

 と仰られていますが私は正直今生きているのが不思議な位「自分が死ぬか」「親を殺すか」と二者択一で悩んだ事もありますよ。
 結局両方しませんでした。でも、今は凄く幸福です。一度追い詰められても、其の先ずっと不幸なままという事の方が珍しいのでは?自殺未遂をしても、生き残って何年もして「生きていて良かった」と思う人だって絶対に居ます。
 自殺しようとしている人には其の先も幸福な事なんかない、と言うのは解決策が自殺の他に考えられないからです。
 また、精神的健常者という言葉もちらほら見かけますが、確かにそうかも知れませんね。
 自殺する人は追い詰められています。まともな判断能力が欠如しているかもしれません。しかし、だからこそ、自殺するべきではありません。
 まともな判断能力がないのですよ?其の状態の人間に、生命に関わる重要な判断など任せられるはずがないです。
 もしくは、自殺者が精神的健常者でないという発言は自殺者に対する差別的発言、ともとれます。
 また、天涯孤独で誰も悲しませる事がないなら認めるべきではないか、と言うのは、これもある意味差別的ではありませんか。
 誰かと関わらない生き方を選択している人は自殺が許されるべきと言うのは、暗に「生きる価値は他者との交流によってしか産まれない」事を明言しては居ませんか。
 誰が悲しむとかそういう事ではなく、その人が生きていると言うだけでかけがえのない命なのだとは考えられませんか。
 悲しんでくれる人が居ないから死んでも良い、と言うのは交友関係の広い人の方が命として価値が有ると取られかねない発言です。
 本能やアポトーシスという言葉も見受けられましたが、そもそもそれらは「個体(自分)、または種族全体の繁栄の為の自滅」です。(例えば胎児の手には最初水掻き状のものがついているが其の部分のアポトーシスによって器用な五指を手に入れる事が出来る)
 単純な自殺はそれに当て嵌まりません。人口調節の為ならば、寧ろ生殖、育児に影響するのではないでしょうか。というか日本では本能に従って自殺しなければいけないほどの人口過密にはなってません。

 また、国家は自殺を認める立場は取らないでしょう。「社会的には自殺はいけない事である」という認識それ自体が自殺者への抑止力となっているのを考えれば、それを取り去った時安易な自殺が増えるのは自明です。
 自分の意思で死ぬ人間が増え極端に人口が減れば国家は成り立ちません。国や、国家公務員である警察官、または日本と言う国を構成する一般の人が「自殺はいけない事」と判断するのは当然ではないですか。

 感情論も入り込みました。でも、やっぱり自殺者を見かければどんなに無責任だと罵られても止めないわけにはいきません。「人の命は地球よりも重い」とは言わないけれど、それでも大切なものだと思うからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>まともな判断能力がないのですよ?

では、冷静な判断で自殺を選んだらどうなのでしょう?

>暗に「生きる価値は他者との交流によってしか産まれない」事を明言しては居ませんか。

では、希望もなく絶望した人にとっての生きる価値とはなんでしょう?どんなに不幸でも絶望でもとりあえず生きていればいいのでしょうか?

>悲しんでくれる人が居ないから死んでも良い

では人はなんのために生きるのでしょうね。誰からも必要とされず、悲しんでくれる人がいないことほど絶望を感じるときはないと思いますけどね。

>自分の意思で死ぬ人間が増え極端に人口が減れば国家は成り立ちません。

自殺とは関係ありませんが、私は日本の人口は5000万人くらいが適切だと思います。江戸時代の頃は人口が
3000万程でしたが、日本だけで自給自足できた理想的な体系だと思います。

>「自殺はいけない事」と判断するのは当然ではないですか。

先にも書きましたが、どんなに不幸でも絶望でもとりあえず生きていればいいのでしょうか?それに何の望みがあるのでしょう?「これ以上落ちることはないから、これからは良くなるんだ」この言葉は良く言われますが、落ちることに際限はないと思いますし、何の根拠もなく良くなるとは言えないし、単なる建前論にしか思えません。

自殺の原因の根本を解決しなければ何の意味もないと思います。

お礼日時:2004/11/14 17:53

自殺者の多くが、精神的に非常に追い詰められた中で死を選んでいるのではないでしょうか。

冷徹に、明晰な思考の末に死ぬのではなく、一時的な錯乱に近い状態や、突発的な鬱症状の中で、ほとんどの自殺者は死ぬのだと考えています。統計があるわけではないので、推測です。

人には自分の生き方を選択する権利があると原則的には思います。また、錯乱することであっても、それがその人が選んだ術なら仕方がないと思います。しかし、自ら死のうとすることについては、私は止めたくなります。

人間の心は生化学物質でいかようにも変わります。欝は抗鬱剤できれいになくなります。死のうとする瞬間に、もしも思いとどまって、あるいは誰かが止めて、適切な薬を服用していたら、その人は死なない方法を選ぶかもしれません。そういった可能性を考えてしまうからです。

理性的に死を見つめ、尊厳死を選択する場合もあるでしょう。それは私にとっては「残念だけれど仕方がない」と認識せざるを得ません。しかし、自殺志願者が一時的な心の病でいるのだとしたら、必要なのは治療でありケアであると思います。

実際に止めることができるかどうかではなく、そういうシチュエーションを想定したときに自分がどう感じるかという観点で述べました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2004/11/14 17:40

わたしはどんな人であっても生きててほしい。



死んだ者、本人はそれでいいのかもしれない。でも残された身内の人々の気持ちはどうなるでしょう?

生きたくても、病のために、生きられない人もいるんです!わたしの友人は「お嫁さんになれるかなぁ・・。」と最期に言い、白血病のためにこの世を去りました。わずか14歳の時です。

暗いニュースばかりですが、人の命ほど尊いものは、
この世にはないと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
生きたくても死んでしまう人もいれば、自殺してしまう人もいる。確かにそうなんですけどね。

お礼日時:2004/11/14 17:39

「生きていれば…生きていれば無限の可能性があんたを待っているんだ!」


(あるゲームでのセリフ)

無限の可能性?そんなもんあるかいな。と思います。

でも、少しでも可能性があるなら、どうせ死ぬなら、
死ぬ前にそれにかけてみるのも悪くないんじゃない?
と自殺願望者に言う…かもしれません。

もしも、借金や病気などで生き地獄だというのなら…
止められない…かもしれません。

おそらく、自分は自殺をしようとする人をみても、見てるだけでしょう。
けれども…やはり人が死ぬのをみるのはショックだと思います。
だから、人のいる場所で、人の迷惑になるような方法で
死なないでほしいですね…。

自分も昔は自殺願望者だったけど、今は必要としている人がいるから、
何よりも死ぬのが怖いから、のんびり生きてますよ。
最近になって、やっと、のんびり生きるのも悪くない、と
思えるようになりました。いろいろやりたいことあるし。

#もっとも、自殺以前の問題でしたが。
#ただ単に現実から逃げたかっただけ。

支離滅裂な文章でごめんなさい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
どうせ死ぬのなら好きなことをしてから死ぬのが
いいですね。

お礼日時:2004/11/14 17:37

最近こんな本を読みました。



 自ら死を選ぶ権利 ~オランダ安楽死のすべて~
 著:ジャネット・あかね・シャボット
 徳間書店 1995年

オランダで条件付きながら、事実上認められている「安楽死」に関するレポートです。
ここで言う「安楽死」とは、
  
  医師が致死量の薬を注射して積極的に生命を終焉させること。
  患者自身が医師の処方した薬を医師の立会いのもと服用して生命を終焉させること。(医師による自殺幇助)

ということになります。

本の中に登場するのは、自分の人生を尊厳ある形で終焉させることを望む人々とそれを手助けする医師や家族たちです。
もちろん、「死にたい!」と言えば誰でも死ねるわけではなく、一定の条件を満たしていなければ安楽死として認められません。

安楽死が認められる必須条件のひとつに、「受容することの出来ない苦痛を伴うこと」というものがあり、ここでの「苦痛」は精神的・心理的 な苦痛も含まれると解釈されているそうです。実際には精神科患者に安楽死(自殺幇助)が摘要されるケースはごくわずかで、ほとんどが肉体的な不治の病気に罹った患者が対象になっているのだということですが、例外として肉体的にも精神的にも健康な自殺志願者が安楽死にいたったケースも紹介されています。(自殺幇助をした医師は裁判で有罪。しかし刑罰免除)

非常にデリケートな問題なので上の紹介だけでオランダの「安楽死」について伝えられるとは思っていませんが、興味を持たれた方は読んでみることをおすすめします。自分はこの本を読んで自分の死、身近な人の死について深く考えさせられました。ちなみにこの本は1995年に発行されたものなので現在のオランダの状況とは若干違うかもしれません。

というわけで、長い前フリのあとに質問者のfiremandesuさんへの自分なりの回答ですが...

>みなさんは自殺についてどう思いますか?
>家族や友人が自殺しようとしているのを止めるのは誰もが同じですけど、赤の他人の場合はどうしますか?

前者は「自殺全般」=現象としての自殺(メディアを通して知る自殺・統計上の自殺)
後者は「各個別の自殺」=当事者として関わる自殺(自分の行動・言動がその自殺者(企図または未遂も含む)に影響を及ぼす可能性があるもの、またはその自殺(企図・未遂)が自分に影響を与えるもの)として考えたいと思います。

「自殺全般」に関しては、自殺は善か悪か、自殺は許されるのか許されないのか、生命は尊いのか、そうでないのか、というレベルで語っても仕方が無いのかな、と思っています。自殺をする人は許されようと許されまいと自殺します。それは事実です。まずその現実を現実として認識すること。そして自殺者やその家族・関係者の気持ちに対する深い想像力をはりめぐらせること。そしてその上で、専門家の方々に、自殺による社会的コスト負担の軽減を計るため、自殺志願者やその予備群を救済する活動の充実や自殺事例の研究と啓蒙(周囲の人が自殺のサインを見逃さないように)などをお願いする(お願いしている気持ちで日々を過ごす)。そんなところでしょうか。もちろんfiremandesuさんや回答者のみなさんが今こうしているように、身近な人の死、赤の他人の死、自分の死、について普段から考えを深め、いつか必ず訪れる「それぞれの死」の為に頭をあたためておくことは大切だと思っています。僕個人としては、前述のオランダの社会的な仕組みは「アリ」だと思っています。選択肢の多い社会は「良い社会」と素朴に信じているトコロがあるので。

後者の「各個別の自殺」については理性や論理では語れません。
それがたとえ赤の他人であっても、とりあえずは、嘘をついてでも必死こいて止めると思います。多分....。というか、自分の影響力が及ぶ範囲にその人がいれば、もうそれは赤の他人ではありませんから。そしてその気持ちは純粋に自分のエゴなんだと思います。エゴであろうとなんであろうと、否、むしろエゴであるからこそ自分は止めます。とりあえずは止めます。そしてその後その人(自殺企図者)の死への思いが、自分(僕のエゴ)に受け入られるものとして感じてしまったら....止められないでしょうね。

そして最後にふたつ。

本当に自殺しようと思ったとき、なるべく家族や友人には気付かれないようにするのではないでしょうか。(明示的でないサインはありますが)
そしてきっと、自殺するのに「動機」や「理由」は必ずしも必要ではありません。「ただ死にたい」という気持ちだけで十分です。(経験者)

長文失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/14 17:35

 ♯9です。



 「自殺は是か非か?」という質問は、このサイトではマナー違反になりますので、それ以外のことについて回答します。

>自殺サイトを閉鎖して自殺させないようにするのはいいが、自殺の根本となる世の中の不景気などの様々な問題を解決しない限り、根本的な解決には至らないと思うのです。自殺サイトを閉鎖したって、自殺する人はするでしょう。

 国家に過度に期待することには無理があります。憲法第25条は「生存権」を認めていますが、この条文の解釈に対し、最高裁は「この規定により直接に個々の国民は国家に対し具体的・現実的にかかる権利を有するものではない」と判示し、いわゆる「プログラム規定説」の見解を示しました。自殺が「自己責任だ、人がとやかく言う問題ではない」などと言われる方がおられると同様、通常の生活も「自己責任」なのです。

 そもそも、現在の不景気云々を言うのなら、過去のバブル期以前にまでさかのぼらなければなりません。では、誰がバブルを増長させたのか?ほかならぬ「民衆」です。そのツケを、全て国家に押し付けるのは間違っています。また、今荒療治をしておかなければ、孫子の代まで日本人は大借金を残してしまうことになります。だから、現在デフレなのは止むを得ないと思います。ただ、短期間に膿を出さないから、国民がいつまでたってものた打ち回っている。私が納得できないのは、そういう「方法論」の問題です。この点では、私も質問者さんも同一の考えではないでしょうか?


>見て見ぬふりをしても罪に問われるのでしょうか?私は話くらいなら聞きます。

 この場合の不作為は、罪に問われることはないでしょう。ただ、明示・暗示を問わず、自殺しようとしている人に対し、その意を強くさせる言動が少しでもあれば、罪になりかねない、という意味です。もっとも、「話を聞くだけ」で、他に何もしないというのは、同義的に、許せるかどうか…。その人は「死にたい」と思っていても、多人数の知恵が集まれば、まだ生きる余地はあるかもしれません。その可能性も摘んでしまう行為は、許せないと思うのです。ひとつの命を、少人数で止めを刺してしまうのは、犯罪行為に等しいものと考えます。
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この回答へのお礼

>私が納得できないのは、そういう「方法論」の問題です。この点では、私も質問者さんも同一の考えではないでしょうか?

そうですね。私も同意です。ただ、バブルの責任は国家にもあります。税金の無駄遣いとも言える無駄な道路拡張や公共施設の乱建築、700兆もある国の借金。これらはすべて過去の政治家達の責任でしょう。

>少人数で止めを刺してしまうのは、犯罪行為に等しいものと考えます。

死ね死ねと吹聴するのは犯罪行為だと思います。私が言いたいのは、「私には何もできない。無責任かもしれないが話くらいなら聞ける」ということです。話して解決するならいいでしょうが、私の手に負えないことは関知しないということです。「生きていればいいことがある」こんな言葉は決してかけないですよ。いいことがなくて希望も失い、絶望したから死ぬのに「いいことがある」なんてありえないですからね。

お礼日時:2004/11/11 10:54

ものごとのすべてのものに“反対語”は存在するわけじゃありません。


「生きる権利」に反対語なんて存在しません。

強いて挙げるとするならばそれは「死ぬ権利」ではありません。
「生きる義務」です。

人間は生まれた瞬間から「生きる権利」を持っています。
それと同時に「生きる義務」も持って生まれてきます。自分のためじゃありません。自分が死んだら悲しむ人、迷惑を被る人、そういう人たちのために生きなければいけない義務です。

それだけ言いたくて書きました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「生きる義務」

正直これは?と思います。産まれてくるのに親を選べませんし、親がいない(捨てられた)人もいます。誰にも助けてもらえない天涯孤独の人だっています。そういう人たちですら、生きなければいけないのでしょうか?

>自分が死んだら悲しむ人、迷惑を被る人、そういう人たちのために生きなければいけない義務です。

悲しむ人のいない天涯孤独な人、最小限の迷惑しかかけないようにひっそりと自殺をする人の場合はいかがでしょうか?

お礼日時:2004/11/11 08:19

#3です。



短時間のうちに回答が沢山入っているという事は、この質問が多くの方が心に感じている何かを刺激する質問なんでしょうね。

「自殺を止めたとして、後日また自殺をしたらどう思うか?」という問いかけが入っていましたので、再登場しました。

どう思うか・・・
残念に思うでしょうね。

多くの方が主張されている「死ぬ権利」なんてのは法定の権利ではありません。
自ら選んだ死を止めることは他人には出来ないと言う事実があるだけです。

「死にたいヤツは勝手に死なせてやればいいじゃないか」
というのが、質問者の主張だと思います。
「そうだ」、という回答があり、「そうではない」という回答もあり、「そもそも質問じゃないじゃん」という指摘もありますが、誰が何を主張しようと、自ら死を選んだ人の行動は結局止められないという事実は変わりません。

で、私が、おせっかいにもコメントしてしまったのは、「死ぬ権利がある」という一面の真理である主張一色でこの質問への回答を締め切ってもらいたくなかったからです。
「死に行く人は誰にも止められないんだけど、社会にはかすかな温かさがあって、普通は人が自殺しそうになっていたら理屈は抜きにして止めたくなるもんだよ。」と言うメッセージを残したかったんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「死にたいヤツは勝手に死なせてやればいいじゃないか」

そこまでの極論ではありません。場合によりけりだと思っているのです。生きていても生き地獄しかないのなら死んでも仕方ないと思っているのです。

>社会にはかすかな温かさがあって、

現代はその温かみさえ希薄になってしまいましたね。
やはり不景気のせいでしょうか?不景気のせいで
人間性まで貧しくなってしまったように思えます。

お礼日時:2004/11/11 08:16

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