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豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタン禁教令を出したのは当時のヨーロッパの教会の腐敗や汚職が蔓延していた事も1つの原因なのでしょうか?
たしか、免罪符や宗教裁判の時代と少し重なりますから可能性としてはないとは言えないと思いますがどうなんでしょうか?

A 回答 (7件)

豊臣、徳川時代ヨーロッパの状況何も知りません、日本のキリシタンが宗教改革するほど信仰が練られてない、庶民的なキリスト教は平等、仏教は1000年の歴史があって見聞のない知識のない庶民には安心出来る宗教、支配者にとってはこき使いやすい、キリスト教平等主義が広まれば士農工商制度が潰される、封建制度が潰される、日本の歴史の中で1000年の歴史の中で練られた仏教は、例えにしたらレコード盤からテープレコーダー、CD、キリスト教はマイクロSDカード、もう一つ対戦中レーダー知らない日本軍、徳川時代300年鎖国政策やったせいで300年脳発達が遅れてしまった、今でも300年脳の発達遅れたまま、豊臣、家康支配者の狙いは政権の安泰、500年経ってみると日本民族滅亡の先駆者、明智光秀バカの極み、信長の歴史見たかった、日本民族にはキリスト教信仰を考える土壌がないベースがない。

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それは逆です。

イエズス会は反免罪符から生じたものです。信長、秀吉、家康は一向宗という一神教でまとまり、しかも農民・庄屋・武家が統一されたときの恐ろしさを身に浸みて感じていたので徹底的に弾圧しました。
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免罪符事件などでカトリックが腐敗したので


プロテスタントが登場しました。

プロテスタントに信者を奪われたカトリックは、
信者獲得の為に、国家と組んで外国への
布教に乗り出します。
これが大航海時代です。

だから、欧米以外の国のクリスチャンはほとんどが
カトリックです。

戦国時代に来日下イエズス会もカトリックです。

カトリックは布教が目的ですから、徳川幕府に
嫌われました。
プロテスタントだったオランダとは、貿易を続けました。
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正直、1万キロかなたのバチカンが腐っていようといまいと、現代日本人もほとんど何も感じない。


直接の利害がない限り。

その勢力が直接日本の国土とかかわりを持つとなれば話は別である。
現代でも国土は勝ったものの総取りである。
時代をさかのぼればその傾向はさらに露骨になる。
せっかく「自分」(「日本人」ではない)が勝ち取った領土を他の勢力には侵食させたくない。
それが自分の地位生命を害する可能性を少しでも含むならなおさらである。

それだけのことである。
秀吉や江戸幕府がキリストを弾圧したのは、「豊臣政権」や「徳川政権」(「日本国」ではない)の潜在的・顕在的脅威であったからである。
本流は腐敗していたかもしれないが、それが政権の脅威にならなければ放置していてかまわなかった。
要するに腐敗どうこうは副次的要因にしか過ぎない、ということである。
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当時のヨーロッパの教会の腐敗や汚職は


当時の日本の坊主も同じですから、理由ではありません
信長がキリシタンを認めたのも、坊主の堕落よりバテレンの方がマシと見たのも
一つの因ですから
それをいいことに、
キリシタン大名大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進してしまったのと
布教責任者コエリョの態度が挑発的で秀吉を激怒させたのが原因
初めは、個人で信じるのは構わないとし、わりと緩めの禁教令
しかし、
フェリペ号が漂着し、水先案内人の言動で、
「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」
という話に秀吉は大激怒、再び禁教令、「その者の心しだい」としたが
完全に禁止
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秀吉は島津氏が「惣無事令」に違反したとして、キリシタンが多い九州に遠征しましたよね


このときに見た、キリシタンが死を恐れずに権力側と戦う光景が、天下を安定的に治めるにはおおいに支障になると恐れたようです。
なにより、室町後期(戦国~安土桃山)の時代、戦続きで外国人からは日本人は戦上手と見なされていました。だからポルトガルあたりは、これを力ずくで征服するのは困難、そこでキリスト教徒の力を利用して日本を乗っ取ろうと企んでいたようです。
そのことを知った秀吉は激怒。禁教と言う流れになったようです。
徳川氏はこの秀吉の政策を踏襲したという事になります
しかし、島原の乱で徳川施政に不満を持つ浪人風情が、キリスト教の日本人カリスマを担ぎ出して(利用して)権力側に抗うという事件が起きてしまい、幕府はこれを鎮圧するのに苦労します。
秀吉の心配が、徳川の世になって具現化してしまう事になったのです・・・
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腐敗や汚職というのは、どちらかと言えば、個人や組織としての自己中心的な利益の追求になります。



そうでなくて、当時の(今も)布教活動というのは、実効支配の為の第一歩でもありました。『私は、この正しい神様の教えを、野蛮な異教徒たちに広める為なら、命を賭けてジパングに行きます』みたいなピュアな馬鹿が、一定数いるので。

まず布教して、精神的に『なんだ豊臣よりローマ皇帝や、スペイン国王の方がすごいんだな』という日本人が出てきたら、そこが実効支配の始まりになります。神父と一緒にやってきた商人が武器を売り始め、内乱誘発を始め、『分割して統治せよ』により国家分裂が始まります(明治維新は国家分裂の一歩手前でした)。

また豊臣の場合、当初は織田の考えを継いでキリスト教の布教を認めていたものの、大勢の日本人が奴隷として輸出されている現状を知り、激怒して禁教に変わった、と言われています。
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