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手塚治虫の未完の遺作です。残っていたシナリオを元にアニメション化されたものです。
6分少々の動画ですので、時間のある時に見ていただけたら嬉しく思います。

さて、この作品はアニメーションであり、簡略化されていますので、いかにも子供じみて
いると思われるかもしれませんが、私には、それだけに想像力をかき立てられました。

1.人間とは何かという大きなテーマですね。

2.ラストシーンで、ファウストがメフィストと戦う決意をした時に、メフィストは嫌がり、
ファウストを支配できないと悟る。やがて、二つの光は一つになった…
ここに、作者の深い思索を感じます。

哲学的なご意見だけでなく、その枠を意識せずに、自由にご意見を頂けたら幸いです。

A 回答 (12件中1~10件)

森羅万象は、究極の実在に行き着く」←神も実在してますよ



心と同じで 見えないから実在しない なんて そんな事考える あなたでは無いと 俺は信じてる
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この回答へのお礼

「究極の実在」などという言葉をいきなり使いましたが、私はこれを
「宇宙の摂理」「究極の法」などとも表現します。

西洋哲学での「神」はこれを表現しようとしたもの、だと私は捉えています。

>そんな事考える あなたでは無いと 俺は信じてる

いいフレーズですね。信じていいですよ。

お礼日時:2019/03/14 22:18

手塚治虫だけで無く モンキーパンチも鳥山明も宮﨑駿も・・



どんな漫画でも そして どんな事でも 突き詰めて行けば 最終的に神に辿り着くだけ・・
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この回答へのお礼

森羅万象は、究極の実在に行き着く…

お礼日時:2019/03/14 22:03

手塚修の子どもがニコニコ動画で審査イオンとか指定t顔路は平和だったのでしょうか。


その頃からも略奪されていたのであればこれはもうダメですね。

ひょっこりはんが半そでは恒美くとか首絞めてるのでしょうね。
ひどいですね。
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アニメは知らないが、神と悪魔は 全ての人の心の中に存在する。


時に どちらかが心を支配する。
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この回答へのお礼

全てが人の心の中にある。

お礼日時:2019/03/10 00:18

アニメ見ました。


二つの光の一つは少女だったのですね。

約束を破ったと云うか、行えなかったファウストは卑怯ですね。
メフィストに心を“捧げる”べきでした。

そうしてこそ、ファウストは「その時の“時”を美しく」輝かせる事ができた事でしょう。

約束を反故にする様な精神に宿る愛なんて、利己的な愛と云えるので、アニメのその設定は安易であったと思います。

メフィストのいさぎよい諦めこそ、立派でありました。
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この回答へのお礼

>二つの光の一つは少女だったのですね

そのように表現されていますね。

>アニメのその設定は安易であったと思います

そうですね、このアニメーションを引用した私が安易だったようです。(苦笑・反省)

ラストシーンの解釈は更に様々あるでしょうが、「女性性によって男性性が救われる」
(ゲーテも言っています)ということも一つあると思います。

お礼日時:2019/03/10 00:17

いろいろ解釈の仕方はあるでしょうが、メフィストが契約の完了に選んだ言葉に問題があったと言う事なんでしょうね。


「時よ止まれ、お前はなんと美しい」という言葉が、何に対して述べられたかをメフィストは重視したと言う事なんでしょう。
結果的に、メフィストは、得られる魂を手放しました。
ファウストは、最後の言葉を少女に向けて語りました。
決して、メフィストが想定した、人生に対する喜びとして、語ったわけでは無いです。(悲劇的な結末ですが、その少女に会えた事は、喜びだったとは言えます)
何故、ファウストと少女が、2つの光として一つになったかは、愛によると考えても良いし、メフィストが手放したからと考えても良いでしょう。(個人的には、メフィストが手放したからと解釈したいところですね)
手塚治虫がどう考えていたかは、単なる憶測にしかなりません。
ただ、手塚治虫は、悪役であっても、完全な悪として描く事はしていません。(メフィストも、当然ながら、無慈悲な悪としては、描いていないでしょう)
メフィストは、ある意味悪魔なんでしょうが、むしろ人間的な情に支配されています。
そういう面では、作品に現れてこない、「神」と対立するものでもないわけです。
手塚治虫としては、「神」によるジャッジでは無く、ファウストとメフィストのお互いの選択を重視しているのでは無いでしょうか?
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この回答へのお礼

仰るように手塚治虫の真意が、正確に表現できているかどうかは確かめられません。
(私には少しずれている気がしていますが)

>ファウストは、最後の言葉を少女に向けて語りました
決して、メフィストが想定した、人生に対する喜びとして、語ったわけでは無いです

ふむ、そういう解釈ですね?

>手塚治虫としては、「神」によるジャッジでは無く、ファウストとメフィストのお互
いの選択を重視しているのでは無いでしょうか?

lupanさんらしい解釈な気がします。

「ネオ・ファースト」の「ネオ」の部分は、現代文明の批判として描かれていて、他の
部分は、ゲーテのファーストに忠実に表現されているのではなかろうかと思っています。

お礼日時:2019/03/10 00:05

非科学するなら論理も無意味だっちゃ。

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この回答へのお礼

非科学でなくて、準科学と呼んでいただきたい。

科学からはみ出した部分の論理性を考えるという意味で。

ちょっと、「いずい」かな?

お礼日時:2019/03/09 23:49

出来れば悪魔は光ではなく闇と表現してほしかったですね。


そうすれば二極対立?の様相が浮かんできますから。

人間はこの光と闇の真ん中の存在だと思っています。
神と悪魔の綱引きの真っただ中で生きているのですね。

また、煩悩は必要と云うのではなく、必要という表現ではなく、煩悩はそれを苦と感じることによって菩提心が生まれるきっかけになる、と云う事でしょう。

ブラジュロンヌさんの場合は、世の真理為るものは善であり、人間の悪と云うものはその善から発生するものである、と云う観点に依るのです。善の欠けた部分を悪と云っているのです。善に対抗する悪、ではないのです。
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この回答へのお礼

>人間はこの光と闇の真ん中の存在だと思っています
神と悪魔の綱引きの真っただ中で生きているのですね

神でもない、悪魔でもない存在ということですね。
これって、仏教的でないと思うのですが。

>煩悩はそれを苦と感じることによって菩提心が生まれるきっかけになる、と云う事でしょう

結局、不可欠ということになると思います。

善悪については、また別途思索したいと思います。

お礼日時:2019/03/09 23:46

やがて二つの光は一つになった…



要するに、手塚治虫はメフィストはファウストに飲み込まれた、と云いたいのでしょうか?

だとすると、その深い思索は結局、悪と云うものは無く、善の欠けたものであると云う、ブラジュロンヌさんの主張に沿うもの、と云う事に落ち着くわけか、と思いました。
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この回答へのお礼

>手塚治虫はメフィストはファウストに飲み込まれた、と云いたいのでしょうか?

と言いますより、メフィスト(=煩悩)に飲み込まれないためには、それに対峙する
勇気が必要だという結論ではないかと思います。
煩悩はなくならないし、むしろ必要なものである、とも。

このあたりのことを弁栄上人は言及されていますか?

>悪と云うものは無く、善の欠けたものである

よく知らないのですが、「善の欠けたもの」を「善の欠けたもの」と呼ぶか、「悪」
と呼ぶか、という話に思えますが…

お礼日時:2019/03/08 17:56

ご自分の信念に従って、どうぞ悪魔と戦ってください。

健闘を祈ります。
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この回答へのお礼

私としましては、そうしたいと思っています。

お礼日時:2019/03/08 17:44

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