アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

A 回答 (8件)

私も感じますよ。

それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

子供時代の失態は、無知から来るものでもありますよね。
どれくらいいけないか、どれだけ相手を傷つけるかわからずにやっているのでしょう。わかっていて故意に意図的に相手にダメージを与えていたわけではないので、ご自分を許してあげましょう。二度とやらなければ失敗から学ぶ成功になりますね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 02:57

1. 《良心》とは ひとが考えたりその考えをオコナヒに移すときに その


中身によってはヤマシサや恥ぢを感じさせるように胸をドキドキさせ顔を赤ら
めさせるそのハタラキです。


1-1. 生まれつきそなわった自然本性としてのチカラです。

1-2. ヤマシサや恥ぢの上にさらにおのれの考えとして良し悪しを思い成
すという判断やその判定した内容をも言う場合があります。 



2. 《良心の呵責》という場合には すでに思わず知らずに成したオコナヒ
について 恥ぢつつ悔いる――悔いつつ恥ぢる――ときの思いや〔その確認と
しての〕意識です。


2-1. ▲ 良心の呵責によって感じる苦痛
☆ というこの《苦痛》という言葉は 必ずしもふさわしいとは思えません。


2-2. 悔いるそして恥ぢるなら 《思わず知らずオコナヒを起こす》よ
うなことをしないようにしようと心に言い聞かすはずです。苦痛の問題とは 
別です。


2-3. もし苦痛を伴なうような咎めを良心なるハタラキが 起こしてい
るとしたら それは すでにオコナヒに当たって恥ぢやヤマシサ反応を感じ
ながら・しかもこれらにさからって冒すことになったという場合です。

2-4. すなわち もしおのれのオコナヒについて良心が咎めそれによっ
て悔いる恥ぢが 心の苦しみや痛みにまで成るとすればそれは みづからが
その答責性を果たすという問題です。

2-5. つまり 焦点・力点としては苦痛の問題ではなく 冒したオコナ
ヒがもたらした損害をつぐなう問題です。原状復帰という責任のそれです。




3. ▲ 道徳
☆ というのは 良心のハタラキや良し悪しの判断あるいはツグナヒをめぐ
ることがらについて そのナラハシをしらべ一般性のある内容を取り出しこ
れを規範としオシヘとしてまとめたものです。


3-1. つまり 良心にかかわる人間の意志行為とそれらの錯綜する社会
的関係 つまり倫理の問題――この倫理をめぐる規範というのは すでに二
番煎じであって 極端に言えば どうでもよいものです。屁の河童です。


3-2. すなわち:
▲ 良心の呵責によって感じる苦痛・・・の根源が道徳的であるにしても
☆ というくだりは 表現だけではなく 人間の自然本性にそぐわない人間
性の認識にもとづいています。


3-3. 人間性の《根源》としてたとえば《良心》を持ち出すばあい そ
れは ふつうに人間関係という意味の倫理の問題であっても 道徳といった
倫理規範の問題ではあり得ません。

3-4. また 《苦痛》は 主役ではありません。責任を果たすことが主
役です。( 2-3 ~ 2-5 )。




4. いや だから 苦痛は《自然的だ》と言っているではないか? つま
り:
▲ ・・・結果からいえば、哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、
自然的である。
☆ と。


4-1. いやいや いやいや。道徳は二番煎じであって《根源的》ではな
く 答責性が主たる事柄であって《苦痛》は主役ではないということが明ら
かになったとすれば いちいちこのように 恥ぢや咎めが《自然的である》
と――何かの問い求めの結論として――言っているのは おかしい。話の順
序が ぎゃくなのだ。すべて良心――恥ぢやヤマシサ反応――に始まる。

4-2. おかしいのは 況や:
▲ 病的状態
☆ たる規定においてをやである。良心は・その恥ぢ意識は・そして時には
その咎めは すぐれて人間的であり すこやかな人間性そのものなのだ。


5. イマヌエルくん あやまてり。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>良心は・その恥ぢ意識は・そして時には
>その咎めは すぐれて人間的であり すこやかな人間性そのものなのだ。

健全な良心の呵責を、全人類が持てるようになれば、犯罪は減りますね。
サイコパスは、良心の呵責や罪悪感が無いのだと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:22

なるほどね。



「人間の妄想の中での姦淫によって感じる快感は、たといその根源が非道徳的であるにしても、結果からいえば、哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」

ていうのと比べると、良心による呵責も妄想の中での姦淫も同じレベルだってカントは言ってたのか。

あたしゃ良心による呵責も妄想の中での姦淫も両方経験したことがあるけど、「そっかぁ、カントがそんなこと言っててくれたんか。道徳なんて関係ないんだ。だったら、今様の何でもありでもいいじゃん」て、あの悪党のマスメディアの論理武装ができた気になって、そこの連中もホッとするだろうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

自然体でいることが、肯定されているという解釈ですかね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:18

過去の行動や考え方が現在の自分を形成しているわけで、現在の自分を愛して、未来に直面してゆくためには、過去と仲直りしてゆく、すなわち、良心の呵責を感じる負の記憶を持たないのが望ましいです。

ですから、可能な限り、ひとを傷つけたり、苦しめたときには、”誠意ある謝罪”をして、そこで、過去とさよならをするやり方をとってきました。

それでも、私が死んでゆくとき、振り返って、あの人には、申し訳なかった、と思うこともあるかもしれませんが、現在は、良心の呵責なしで生きています。

他人ごとですが、例えば、いじめられた生徒が自殺をした場合、いじめた側の学生は、どうやって、その、”ひとごろし”の過去と向き合ってゆくのか、その過程に非常に興味があります。テレビドラマにするには、重すぎる課題でしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

言われてみれば、私も申し訳ないと思って謝罪することがあります。
それは良心の呵責を払拭したいという思いから来るのだと気づきました。
死ぬときは、もやもやした心残りが無いように私もしたいものです。

>いじめた側の学生は、どうやって、その、”ひとごろし”の過去と向き合ってゆくのか

多分ですが。。いじめた側は、たいして良心の呵責など持たない人間なのだと思います。
そういう人間には、それなりの別の形の罰があるでしょう。(人望人徳が無いなど)
良心の呵責を持った人の場合は、一生その苦しみを背負うということ自体が罰となるのでしょう。その場合、苦しめば苦しむほど、自分で自分を罰することができるということになりますね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:15

良心の呵責が「自然」なんじゃなくて、それによる「苦痛」が「自然」だと言っているんだと思います。


カント的には、そのような「苦痛」を生じる場合が、「良心の呵責」だと定義したと言う事でしょう。
個人的な行動原理としては、当然ながら、自分の意志に反した行為の場合は、「苦痛」を感じますよね?
そのような事は、いくらでもあります。
ただ、「良心の呵責」と表現した場合は、倫理的、道徳的な内容に限定されると言う事でしょう。
一般的には、そのような、自分の倫理的、道徳的な行動規範は、通常は守る事が出来ますが、意図せず、結果的にそのような状況になる場合は、ありえます。
良かれと思って、行った行動が、結果的に、相手に不利益を与えてしまった場合などは、「良心の呵責」を感じますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>良かれと思って、行った行動が、結果的に、相手に不利益を与えてしまった場合などは、「良心の呵責」を感じますね。

余計なお世話、お節介をしてしまったということですね。
私はそのようなことの被害者側であることがあります。
相手が良心の呵責を感じていれば良いのですが。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:06

>たといその根源が道徳的であるにしても<



道徳的とはどんな意味なのでしょうか?分かりません。


>哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。<

哀傷とか恐怖とかが何故病的なのですか、何故それが自然的なのでしょうか。


また良心とはいかなるものですか?呵責とは本能的ですか、理性的ですか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

カントによると、本能的みたいですね。

お礼日時:2019/03/10 07:03

ないです。



過去の、それも他人に与えた影響など考えても、それは自己満足でしかなく、意味がない行為だからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ないです。

すっきりしていますね。

>過去の、それも他人に与えた影響など考えても、それは自己満足でしかなく、意味がない行為だからです。

過去は取り戻せませんからね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 06:59

人間の脳にはミラーニューロンというのが


ありますので、他者のことを思いやる心は
先天的に備わっています。

しかし、それが具体的な道徳規範に昇華するかは
人工的な教育によるものであって、
恐怖のような自然感情から来ているものでは
ありません。

具体的な道徳感情は、繰り返しの教育により
すり込まれ、内面化されます。

罪悪感は、この内面化された道徳規範に
抵触するゆえ、発生するものです。



あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
 ↑
ありますよ。



それはどんなことですか?
 ↑
色々あります。

困っているひとを助けなかったとき。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>道徳感情は、繰り返しの教育により
>すり込まれ、内面化されます

これは興味深いと思いました。
まるで、洗脳される過程みたいですね。
そうやって人は、プログラミングされて行くんですね。
だから、例えば、礼儀正しくなければならない、皆と仲良くしなくてはならない、
という思い込みに支配されている人が多いのだと思います。

>困っているひとを助けなかったとき。

私も、急いでいる時は、誰かが近寄って来るのを知りながら、
エレベーターの扉を閉めてしまったりします。
でも、それで感じる良心の呵責はほんのわずかですが(^^)

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 06:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!