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なぜ人間は法律に従わなければならないのでしょうか?
自由に国境を越え、自由に住み、自由に食い、自由に生き、自由に殺される権利というのは
本来全ての生物が持っているものだと思うのですが。

真の自由主義とはなんだ、全ての人間は自由に生きるべきだ、法律がけしからん、
と言ってるのではなく、
「自由に動物のように生きたい」と思った人がいたとして、
それを許すことはできないのかと思ったわけです。
法律に従わないヒトとして生きる自由を選択する権利というものは存在するべきだと思うのですが、どうなのでしょうか?
あるいはすでに存在しているのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

この質問は#10の回答者の方の言うように「哲学」カテゴリーでする方が良かったと思いますし、また、他の方の回答も十全なものではないように思えますので回答いたします。



まず、「なぜ人間は法律に従わなければならないのでしょうか?」という質問ですが、とりあえずの答えとして書けば、法律に従おうとすることもそれに従わないで生きていこうとするのも
どちらもその人の権利であり決意次第のことです。

歴史的に言えば、そのような人が生まれつきに持っている権利のことを自然権といいます。(自然権の範囲についても種々の議論がありますし、自然権そのものを否定する議論もありますけれど。)例えばホッブズという人は「社会契約」という考え方を最初に示した人でありますが彼は自然権を「自分が生き延びるためにあらゆることをする権利」と考えました。ただ、そうするとすべての人が自己の自然権を主張し実行しようとすれば「万人の万人に対する戦い」という状態となり、誰も安心して生活できないという状態になると予想しました。それ故に、人は自己の自然権を社会契約のもとに放棄するという考え方を示したのです。我々の社会が法律を制定するのはこの考え方を基底においているのです。

ですから、自らの自然権を存分に発揮したいという理由からその社会の法律を守らないという選択をする自由も人間にはある、と私は考えます。しかし、それは同時にその(法律を作っている)社会の一員であるという資格を失うことを意味します。というよりもその社会の一員であるということを拒否するわけです。逆に言うと、そうした人に対して社会がその人をどのように扱うこともその社会からすれば自由なわけで、有無を言わさずその存在を抹殺することも可能(というよりたいていの場合そうする様になっています)ですし、命だけは助けてその社会から追放するだけかもしれません。いずれにしろ、「法律に従わないヒトとして生きる自由を選択する権利というものは存在」しています。ただ、その結果どうなるかを他の回答者さんたちが述べているだけです。

もう一度、整理して書きますと人には土台として「自然権」が存在する。その基礎の上に社会を形成し法律を制定している。つまり、自然権と法律は同じレベルの話ではありません。

さて、「2万年前の人間がタイムスリップしてきたとして、
その人間に対して法律を押し付けるべきかどうかというような問題」は自然権の問題としての質問でしょうか。それとも現実にある社会の中での法律レベルの問題として質問しておられるのでしょうか。このレベル分けをはっきりさせれば答えは自ずと出てくるものと思います。

次に「犬や猫を法律で裁くのに違和感を覚えませんか?」という質問(これも質問趣旨は同じであると思えます)については、まずそのような裁きの具体例はありますかとお聞きしたいですね。そうではなく、抽象的に「法律に従う意思の無い者を法で裁くのは矛盾していないか」という問いをたてるのであれば以下のように答えましょう。

法律を制定するということは1つの社会としての境界を設定することでもあります。それは境界の内部にいるものに対しては皆が同意した法律として強制力を持ちますし、境界の外部にいるものに対してはこの社会の一員となるための条件を示すことになります。そして自分たちの社会の一員でないものに対しては、(社会があたかも一人のヒトであるかのように)自然権を発動して排除することが認められます。ただ、その自然権の発動に際しての内部的手続きとして自分たちの法律が存在し、それに従って自分たちの自然権を行使します。ですから、法に従おうとしないものを法によって裁くことはなんらの矛盾をも生じません。

以上のことを踏まえた上でもう一度最初の質問に戻ってお答えすれば、「なぜ人間は法律に従わなければならないのでしょうか?」の答えは「人間が自ら法律に従うことを選択するから」です。(その社会に属する生まれたばかりの子供や、2万年前に生まれて現代にタイムスリップしてきた原始人はそうした決意・決断・判断を行っていないという反論は無意味です。子供は大人になりその社会の一員として認められるまでに、そして原始人にもそれなりにその社会の在り方について教育されたり内容を知る機会が与えられ、その上での決断となるはずだからです。ヒトはその社会がどうしても嫌であればそこから脱走や亡命をしたり、法律を変えるように運動したり、革命をおこしたり、最終的には自殺したりなどの手段でその社会から抜け出すことは可能です。)
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この回答へのお礼

自然権という言葉は参考になりました。これについてはまた調べてみようと思います。

回答を読んでいて、もっと単純な問い方を思いつきました。
「ホームレスになるのは法律違反か?」
ということです。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/03 11:48

必ずしもすべての法律に従わなければならないというわけではないと思いますよ。


民法などは代表的であり、権利は書いてあるけど、権利行使は強制されていない。
義務も書かれているけど、求められなければ義務を果たさなくても処罰はされない。

法律で強制しているものの大半は他の人の財産・生命・権利・自由等を阻害する可能性のあるものについてでしょう。これは当人の問題ではないから、この社会で生活する以上はしたがってもらうというものです。
これは合理的であり、強制すべきものだと思いますが、これも否定されるということでしょうか?

それとも、その考えでは疑問のある法律も少し存在しているのは確かなので、そういう法律を問題にしているのでしょうか?
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>例えば、犬や猫を法律で裁くのに違和感を覚えませんか?



 犬や猫が裁判に出廷したとでも言うのでしょうか?中世にはそうした事例もありましたが…。
 ただ、野生動物が突然人を襲ってきた時は、撃ち殺すことも可能です。これが「緊急避難」という考え方ですが、こういう意味なのでしょうか?まあ、人間は万物の霊長なので仕方ありません。これは法律の問題ではなく、人間が地球上でいかに生きていくかという哲学的、人類学的な問題です。

>法律に従う意思の無い者を法で裁くのは矛盾していないか、というような問いです。

 本人に従う意思がなくても、法治国家では、生まれながらにして(というより、場合によっては胎児の時から)法律上の「存在」ですので、法律の支配下から逃れることは出来ません(というより、法律によって「保護されている」というべきか)。そして、社会的存在である以上、その義務を果たさなければ、当然制裁を受けます。これは本人の「従う意思」とは無関係ですし、法治国家としては当然です。矛盾することはありません。

 質問者さんの質問は、「死ぬ権利」(法律から自由に…というのは社会的に抹殺される権利、と読み替えることも出来るでしょうから)などという法哲学的な質問でしょうから、ここのカテでの純粋な「法律論」では結論は出ないものと思われます。
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質問者様の仰りたいことは、なんとなくわかったような気がします。


江戸時代以前には、こうした人々がいたという研究があります。
所謂、「公界人」とか「上ナシの人々」といわれる人たちです。
これは例えば、旅芸人、死体や糞尿の処理をなりわいとする人々、ほか諸々の人々のことで、
一定の主人に仕えることはなく、強いて言うなら、天皇が上にいるだけ、当時の分割された”国”を自由に出入することが認められる反面、法による保護、通常の定住地を与えられないのが普通です。
まさしく、質問者様の仰るような権利が認められていた事例だと思います。
隆慶一郎の「一夢庵風流記」などにこうした人々のことが紹介されています。
まさしく、自由とともに「のたれ死ぬ」自由も持っている、
という内容が記載されています。
是非ご一読ください。

江戸時代にはいると身分制度が確立され、農民を土地に固定することで、安定した経済を成立させる仕組みがより強固になります。
その中でこうした人々がいわれのない迫害を受けるようになりました。
質問者様の仰る現在の状況はこのあたりからの流れが最初だと思います。
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弱い生命体は、外敵から身を守り種族防衛をするために、群れを作ります。

サルや犬だってですし、
ペンギンやイワシなんかもそうですよね。
そしてその群れを守るために、群れには一定の掟が存在します。掟を守らないものは、群れから追放
されたり、生命を奪われたりもします。

当然、人間は群れる動物です。よって自然の摂理としてルールが存在します。そしてそのルールに
よって自身の生命や財産が保護されていることに満足しています。

>法律に従わないヒトとして生きる自由を選択する権利というものは存在するべきだ
大多数の人間が本能的に掟(=法律)を必要とし受け入れているのです。
法律に従わないのはそのヒトとして自由ですが、その場合は群れ(=社会)から弾き出されるか、社会
的に抹殺されるか、ということになりますね。

>法律に従う意思の無い者を法で裁くのは矛盾していないか
矛盾しているとは思いますが、懲罰を加えるのにも社会的なルールに従わなければ、報復が報復を呼び、
群れの秩序が保てなくなりますから、法の下で裁くべきと思います。
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ご質問者さまは、人類の文明・知識・法律の粋を自ら放棄して、野獣のように生きたいのでしょうか。



それとも、法律に従わない野獣のような無法者は、法律で人権を守る必要はない、本人の希望の通り、獣として扱え、という趣旨なのでしょうか。

私は、「自由に殺される権利」という書き込みを見て思いましたが、とても辛い思いをしていませんか。

今一度、冷静に「知識ある人間」として思い直して見て下さい。的を外していたら申し訳ありませんが、「復讐」はしないで下さいね。

この回答への補足

>法律に従わない野獣のような無法者は、法律で人権を守る必要はない、本人の希望の通り、獣として扱え、という趣旨なのでしょうか。

そういう趣旨です。
「自由に殺される権利」というのは、その野獣を狩るのは罪に問われるべきではないという意味で書きました。
「法律に従わないヒトとして生きる自由を選択する権利」を認めないのは、野蛮ではないのか、というような問いです。

補足日時:2004/12/03 09:41
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動物が自由であるという前提がおかしいんですよ。


野生動物は、
本能・習性というものに支配されて生きています。
         
本能のみで生きていけない人間は、
法律という代用品を発明したのですよ。
           
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Hal2004さんの意見は的を得ています。



>法律に従わないヒトとして生きる自由を選択する権利というものは存在するべきだと思うのですが、どうなのでしょうか?

それを認めると、「人を脅威から守る」という社会システム自体が瓦解します。

法律を作っている人(古くいえば王や皇帝)は、本音としては権利を認めたくないのです。権利を認めると濫用する人間がいるのが歴史を見れば分るから。でもそれでは、法律に従う人が不当に扱われるので権利を認めさせようと、先人達が命掛けで認めさせたのが憲法に書かれている権利条項です。
「先人達が命がけで戦ってくれたおかげで、今の規制ですんでいるし不当に扱われることも(とりあえず今のところは)ない、この程度の法律ですんでいるのだから少なくとも私は従わなければならない。」
これが私が今の法律に従わなければならないと考える理由です。

この回答への補足

例えば、犬や猫を法律で裁くのに違和感を覚えませんか?
言いかえると、法律に従う意思の無い者を法で裁くのは矛盾していないか、というような問いです。

補足日時:2004/12/03 08:33
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おはようございます。



 カテゴリーを「哲学」にした方が良いと思いますが?
 要するに「公共の福祉」に反する自由を享受する事は許されないのかという事ですかね?(別に質問者様がそれを望んでいるわけではない事はわかります。)

 私個人は、法というものはそこに住む人があまねく天寿をまっとうする為に存在するものだと考えていますので、国・地域・仲間など何でも良いのですが、なにかしらの共同体の中で生活する限り、「自由」とは法(きまりといっても良いでしょう)によって与えられているという極めて受動的なものであり、質問者様の仰る能動的というかより積極的な自由を謳歌するのは難しいのではないでしょうか。

 これを実現するには無人島・サバンナ・熱帯雨林などで「一人」で生活するなら可能だと思います。
 1800年頃イギリス海軍の帆船バウンティ号の乗組員達がタヒチで叛乱を起こし、現地の女性を引き連れてとある無人島に逃げ込みそこで生活を始めます。ところが結局ゼロサムゲームが始まってしまい30年後生き残っていたのは1人の乗組員とその子孫だけだったそうです。

 やはり「自由に動物のように生きたい」と思っても他者がいる限りそれを許してはくれないでしょう。他の方の回答がそれを如実に表していると思います。ということは2万年前の人がタイムスリップしても現行の法を押し付けることになるでしょうね。
 
ご質問の主旨に外れたらお許しください。
あくまで素人の意見です。失礼しました。
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2万年前からのヒトを「人」と見るのであれば、法律に従わせるべき。

ヒトは「ヒト」でしかないとみると、動物園行きかな。
まったくの「自由」に生きる権利は今の世界にはないです。人間は知恵がつきました。「自由」と「無責任」の区別がつくようになりました。
一人が「自由」を望む。だけならいいのでしょうけど、みんなが「自由」を求めています。その上で「みんなが自由になるための限度、限界」が法律になったのでは?
もし私がまったくの自由を欲し、そういう仲間がいる世界に行ったら・・・今よりも全然自由には生きられないと思います。それどころか「自由に人を殺したい」人に殺されるとか、「自由に今SEXしたい」人に犯されるか。私は自由ではないでしょう。
自由に生きられる世界、まさに2万年前に世界は逆戻りでしょう。
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