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辞書を引くと「天皇と幕府とを一体化させること」と出てくるのですが、いろいろな参考書を見てみても少し触れられているだけで、いまいちその考え方や、どういう政治的な背景が関わっているのかということが分りません…。またこれも辞書なんですが、「⇒公義政体論を参照」と書かれていますが、公武合体とどんな関係性があるのかということもご教授くださると幸いです。
ご存知の方、是非ご教授願います。よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

 幕府は、迫り来る『幕府の終わり』をどこかで予感していたのかもしれません。

そこで、何とかその終わりを回避しようとしてとった政策が公武合体策でした。公は朝廷、武は幕府で朝廷と幕府が一体となって事に当たる、という考え方です。
 
 江戸時代当初は、もちろんこんな考え方はありませんでした。家康が定めた『禁中並公家諸法度』の第1条にあるように、朝廷はまつりごとに専念すべきものとされていたし朝廷もそう思っていました。少なくとも政治向きに関しては、公はなく武のみだったのです。
 しかし、時代とともに変わっていき、幕末ともなると、公・武ともに意識はそれまでとは全く異なっていたのです。公・武で当たるべきとの考えになっていたのです。そこに公・武ともにそれぞれの思惑が絡み、意図するところは時代とともに変化していきました。それは、次のようなものです。

 (1)幕府を教え諭す意味での公武合体策ー公武合体は、朝廷と幕府が一体となって事に当たる、といった考え方。この考え方の最初は、幕府側から朝廷側になされた、とされている。形となって現れたのが、皇女和宮の将軍・家持への降嫁なのですが、元々この発想の原点は朝廷側にありました。それを明らかにしているのが『戊午の密勅』で、密勅には公と武とが一体となって外患に当たるように、と書いてある。公武合体はこの文書の初めに出てくる4文字。この場合の公武合体は、あくまで思想としての公武合体論であって、具体的提案があった訳ではなく、具体的提案をしたのは、幕府側から。

 (2)朝廷を牽制するための公武合体案ー幕府側が皇女和宮を、第14代将軍・家茂の夫人に迎えて公武合体を図ろうとしたのは、すでに早く井伊直弼が大老として安政の大獄を指揮している安政5年(1858年)の頃からでした。井伊直弼は次第に政治的な重みを増してくる朝廷の力を、どこかで食い止めなければならないと考えていたのです。そこで、皇女和宮の降嫁を得て、公と武とが一体となることで武の主導権を確たるものにしようとしたのです。しかし、これは井伊直弼の死で実現しませんでした。

 (3)朝廷を利用するための公武合体案ー井伊直弼倒れた後、幕閣の中枢を担ったおは、安藤信正でした。安藤は井伊直弼とは違った意味で、何とか早く皇女和宮の降嫁を得たいとねがっていたのです。それは井伊直弼の横死を見て、今さらのように幕威が衰えていることを知ったからです。幕威を取り戻すために朝廷の力を利用したい、そう考えて安藤は積極的に皇女和宮の降嫁問題に取り組んだのです。
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この回答へのお礼

親切なご回答、本当にありがとうございます!公武合体についてはとてもよく分かりました。では公義政体論とはどのような関連性があるのでしょうか?そこが一番気になっているところなんです。ご存知でしたら是非ご教授ください。お願いいたします。<(___)>

お礼日時:2004/12/08 23:27

 No.3です



 『公議政体論』とは、幕末、政治権力の主体を列藩諸侯会議に置こうとした政治構想のことで土佐藩が薩長に対抗して主張しました。後藤象二郎・西周(にし あまね)らが主唱し、坂本竜馬は討幕派と公議政体派の連合政権案を提出しています。

 すみません、公武合体との関係は分かりません。
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 維新期の時期によっていろいろ変遷する考えかたなのですが、それには当時のあらゆる人々が「尊王」意識を持っていたことを理解しなければなりません。


 たとえ佐幕派であろうと、「天皇が尊い」「今のような幕府が専権する政治は間違っている」というのが当時の共通認識でした(ちょうど今の右翼ですら民主主義を奉じているようなものです)。ただ、徳川の恩義を感じる人々にとって「だから幕府をぶっつぶせ」「将軍を殺せ」という主張はなじめない。
 そこで「天皇は尊い」という建前と、「でも将軍に恩義がある」という本音を折衷したのが所謂公武合体です。具体的な政策としては(むろん時期によって、人によってかなり差があるのですが)、幕末ぎりぎりの段階では「幕府専権を廃し、天皇を元首、将軍を副元首か大統領のようなかたちにした政体をとる」というのが一般的でした(実質上の権限をどちらにより多く置くかは人によってまちまちの考えかたでした)。
 このような主張をしたのは、王政復古直前の段階ではまず土佐の山内容堂、そして福井の松平春嶽などがいます(殿様というのはやはり将軍に恩義があるものらしい)。また坂本龍馬の言いだした大政奉還論も、将軍の地位をある程度認めてゆくことが前提でしたから、坂本とそれに乗った徳川慶喜も公武合体論者であったと言うこともできます。必然的に後世から見れば、彼らは無血革命主義者でもあります(名誉革命とピューリタン革命のような漸進的革命をめざしていたのかもしれません)。
 これに対するのが所謂勤皇派。天皇を尊ぶだけではなく、そのために働こうとする人々。平たく言えば将軍を殺して天皇専権の政体をめざそうという、主戦派、武装革命論者で、言わばフランス革命風のそれを理想としていたといえます。西郷や大久保のような薩摩藩出身者がこうした主張の有力な推進力でした。
 王政復古前後の志士たちの活動は、この公武合体派と勤皇派の壮絶な綱引きです。公武合体派の成果が大政奉還、勤皇派のそれが戊辰戦争でしょう。公武合体論は漸進的革命ですから、幕末の一時期ひじょうに人気を持ち、その中心であった土佐はいちやく政界で大きな発言力を持つようになりましたが、惜しいかな坂本の暗殺によって、維新の主流を勤皇派に奪われてしまいました。このためかつては坂本の暗殺の黒幕は西郷ではなかったかという説まであったほどです。

この回答への補足

公武合体についてはとてもよく分かりました。ありがとうございます!では公義政体論とはどんな関連性があるのでしょうか?そこが一番気になっているところなんです…。すみませんバカで…。

補足日時:2004/12/08 23:22
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あまり自信持って言えないのですが・・・



公武合体論とは、その当時の日本は列強各国の侵略に対して何らかの手を打つ必要がありました。とはいえ、国内世論(もっとも、幕府サイド及び倒幕サイド以外には余り関心が無かった様です)は幕府と尊王とに分かれてました。

何をするにせよ、その共同体内部での対立はお互いに足の引っ張り合いとなり結局は第三勢力(この場合は列強)の思う壺です。  そこで考えられた手段として将軍(家茂)と天皇(孝明天皇)の妹和宮を結婚させることで両者の関係を緊密にし両勢力が連携してこの困難に対処するべきだとして考え出されました。もっとも、この考えはある程度までは上手く行きかけたのですが、倒幕&幕府サイドの抗争が激化していくなかで徳川家茂と孝明天皇の死去が重なり失敗に終わりました。 後は教科書の通りに大政奉還や戊辰戦争が続きます。

詳しい事は他の方々の意見を参考にすることをお勧めします。 

特に歴史は真実というべき事は何もありません。一つの事柄について、最低でも賛成と反対からそれぞれ一つづつ位は意見を調べて自分なりの意見を持つ程度が現在の私たちにできる事です。そのうえで、どれかの意見が筋が通ってるとか間違ってるとか結論を出すのは良いと思いますが一つの意見だけを聞いて鵜呑みにするのは歴史に対する傲慢な振る舞いだと思います。


 
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