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1. イマヌエル何とかかんとか言う人が 言いました。

 いやいや そうではない。
 人間については なぜ《なぜ?》と問うのかについて答える哲学
 これが その本質(存在)を 明らかにするであろう。

つまり 《なぜ? と問うのは なぜか》に人間の人間たるゆえんが
あると。


2. あるいはつまり:

 真理をどこまでも探求しようとする理性を持ったものが人間である

というとき この理性(あるいはわざわざ分かりにくく 悟性と言う
べきか)が すでにものごとの認識の素となる純粋直観を――重ねて
言ってすでに 何ら意志をはたらかさず 経験に先立って(先験的に)
―― そなえていつつ これをはたらかせることだと カントは主張
していると思います。

3. 太陽が地球の周りを回るのではなく 地球が太陽の周りを回る
というのが 事実であると分かったごとく 人間は 世界から受け取
るだけの知識や情報によって生きるのではなく――ましてや 神の言
葉とやらを あたまから鵜呑みにして頂くのではなく―― 世界の隅
から隅まで自己の能力をはたらかせすべてを知って 生きるのだと。

4. 《なぜ 〈なぜ?〉と問うのか》にかかわる純粋認識とそれが
――先験的に――はたらくさま ここに人間の秘密があると。その能
動性が 人間を活かすであろうと。
近代人というあたらしい人間の誕生!?




5. 問題は――議論を端折りますが―― 先験的にはたらく純粋悟
性概念(その作用)は もしそうなら《先天的に人間にそなわったも
の》なのではないか? にあると考えます。

5-1. カントは 《先験的》だが 《先天的》ではないと言って
いるのだと思います。《ア・プリオリ》という言葉ですが。

5-2. 経験をめぐって・また経験の対象である《もの》について 
物や経験を成り立たせる《物自体》は 想定することができるが し
かしこれは認識し得ないものだ。と言う。

5-3. 言いかえると ものごとやその経験にかかわる世界と〔か
つてこの世界を成り立たせていると想定されていた〕神とのあいだに 
いまの物自体を置いたことで 人間の本質だと見なされる純粋悟性概
念(純粋直観)は 神とつながる先天的なものではなく そうではな
く 経験世界に属するものだが それでもなお経験に先立ってはたら
くもの(先験的)だと言っているらしい。

5-4. 要するに 人間の能力あるいはその存在の本質が――つま
り 人間の根本的な条件だと見るそれが ただし―― 天与の条件だ
とは見ない。見たくない。
つまり 神が顔を出してくることは 極力避けたい。――と言ってい
るように聞こえます。




6. もしそうだとして どこがどう違うか?

6-1. かんたんに見るなら 人間の《存在の存在――なぜ なぜか
? を問いもとめる認識の素――》という本質が 先天的であったら 
それは 神のもとにあり われわれは自由にうごきづらい。

6-2. けれども 地動説なら――つまり 先天的ではなく 単に先
験的なハタラキに過ぎないと見るなら それが人間の本質であると言う
のだから―― 人間は 近代人の・たとえ理性信仰だ言われようとも神
から解き放たれたような自由人として 世界を動き回り宇宙の果てまで
を飛び回るのだ。――と言うことではないだろうか。




7. 問題は――問いとして質問者の解釈に片向いているきらいがあり
ますが―― どこにありましょうか? どう考えますか? 
解釈のまちがいがありましたら ご教授ください。

質問者からの補足コメント

  • №2お礼欄へのおぎない。


    超経験:神:非経験の場:非知なるナゾ⇒ その霊が人にやどる:非思考の庭(信仰)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
         ・・・カントは神の首をちょん切った・・・
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    経験世界:物自体:認識し得ない《物が物であること:モノ性》

     ” :ただし先験的(アプリオリ):純粋悟性(純粋直観;純粋認識:認識形式:カテゴリ)

     ” :経験事象(アポステリオリ):悟性(直感・知覚;概念認識:因果関係の把握)



    ☆ 先験的な認識において ひとは世界(対象)に向けての主体的・能動的な認識を持つ
    ことが出来る。世界に対する受け身の姿勢を転回させた。

    つまり 神はどうなっているか? という問いを 《物自体》をあいだに措定することに
    よって遮った。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/06/19 16:29
  • ★ アカシックレコード
    ☆ について考えたことのないわたしです。

    まなぼうとしましたが どうもその行き方は わたしに合わない
    と考えました。

    個別の主題の研究か あるいは 全体観に立った主題の扱いか。
    このどちらかで問い求めることをしますが 個々の資料をぜんぶ
    あつめるという作業は――AIのことにうとくもあり―― わたし
    には向いていません。

    むろんそういう仕事は成されていくのでしょうが わたしには無
    理だと思います。



    そして そちらの質問への回答として書き込むことをせず この
    ように補足欄にしるすのは ねつ造二十年氏が嫌いだからです。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/06/22 06:17

A 回答 (8件)

カントの云う物自体、とは物質においても精神においても、現象においても、真の姿の事でしょう。



真の姿を捉えるのはこころ。
認識はその心がとらえた映像。

物自体と、そのものを認識した心の映像とは、相い対するもの。
それは、相対であって一体ではない。
一体でないという事は、間隔、隔たりが生じる、と云う事。

隔たりは“ずれ”を生じる。
ずれが生じれば、それはもう真の姿とは云えない。

と、いう事だろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントの云う物自体、とは物質においても精神においても、
現象においても、真の姿の事でしょう。

▲ (カント:物自体) ~~~~
無条件者(絶対性)は 我々が知る(我々に与えられる)限りの物には
見出されないが しかし我々の知識の限界外にある物すなわち物自体に
は見出されるに違いない
(『純粋理性批判』 第二版 序文 ⅩⅩ~ 篠田英雄訳)
~~~~~~~~~~~

☆ 《無条件者》とは 超経験であり 神のことなはずです。その超経
験なる絶対性の役割りを 物自体なら 担うことができると言います。

《知識の限界外にある》けれど 物の本体――物を物たらしめているも
の――としては 経験事象(事物)に属する。というのだと思います。

超経験の場そのものであれば 神のことでありそれは 絶対の調和であ
ると考えられ それとわれわれが接しているのなら その認識を持って
われわれの世界は 矛盾のない調和に満ちていることになる。でも そ
うではない。

だから 認識し得ない物自体に 無条件者の役割りを求めるのだと。






★ 真の姿を捉えるのはこころ。
☆ 《真の姿》は 認識しがたい客観のことか・つまり物自体か。それ
とも 出来るかぎりの妥当な認識か。

客観・物自体なら 心によっても捉えられない。


★ 認識はその心がとらえた映像。
☆ 概念認識もあります。


★ 物自体と、そのものを認識した心の映像とは、相い対するもの。
☆ というふうな関係にあると想像されますが 実際には認識しがたい。


★ それは、相対であって一体ではない。
☆ 霊性では あたかも一体であると捉えるでしょうが カントはそれ
を一笑に付すでしょう。かれにとって世界は・ものごとは 理性の問題
だからです。


★ 一体でないという事は、間隔、隔たりが生じる、と云う事。
☆ 具象としてのモノは 互いに隔たっています。


★ 隔たりは“ずれ”を生じる。
☆ それは 認識が精確ではないということでしょう。


★ ずれが生じれば、それはもう真の姿とは云えない。
☆ でも 物自体は認識しないのですから 仕方のないことでもありま
す。

お礼日時:2019/06/19 23:14

これ以上言っても、平行線のままでしょうが ないですね



これだけ言って終わりにします、黙します。


貴方の言う各々の主観というのは、それらの知を持つ人間という話に過ぎません。

各々のうちにそれでは神は、入りえません。

真のものを見る眼(まなこ)を持つべし


それでは、対話ありがとうございました。

目しますね
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この回答へのお礼

そうですね。むつかしい問題になるんでしょうか。

でも ここは げんみつに哲学として扱うことにします。

どうでしょうかねぇ。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/06/24 22:05

関係ありませんね。


返信への回答です。
(アカシックのことは置いておきます)

つまりこうなるという訳です。

まずは非知は、人間及びあなたにとっての主観に過ぎません。

神にヒチは関係ありません。
髪が全農という条件であなたが主観を持つ限り!

となる理由は、

貴方にとっての、未知も深知も、上には関係ないからです。
何故ならば個人の環境境遇、認知などどうとでもできるの神だからです。

それでなければ全能の条件に値しませんね。

神ならばあなたがどんな、(甘(いま)現在間違っていると)思っている知識だとて、現実にあなたにとって合っている知識にできます。

それが公理の究極側
小売じゃないですよ。理
断っておきますが、

洗脳という意味ではないです。

神とつながるという真実の前に、あなたの嘘が溶かされ消えるということです。

それは、洗礼も呼ばれまれる事もありますが、

即ちこうか

神に繋がるということ自体が知識の究極まで上り詰め(た) る事なのです。


すると、貴方の定義している不価値は(不可知識)は、全てが消えてしまいます。

なぜならばその時髪、カミは世界をすべて作り替えたとも呼べ、また、

あなたがその生きに達したということです。聖域。

すると… ネ 申し上げましたよ(ネタ。寝ますねもうそろそろ)

こうなるでしょう?

あなたが神となったのだから、
あなたの負荷地はあなたの力で、消えた!


とね。

気を磨きましょう。期が来るまで。


もう少しですよ



お休みなさい、良い夢を!
フフッ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非知は、人間及びあなたにとっての主観に過ぎません。
☆ 認識のあり方で 対象となるものごとを分けます。

 経験合理性で捉え得るもの:経験事象

  可知(知り得るとみとめられている)

    既知(知ったとみとめられたもの。間違いであり得る)
    未知(いづれ知られるであろうと見られている)

  不可知(知り得ないと証明し得たもの)

 経験合理性を超えたもの:非経験の場

  非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)



☆ これで おのおのの主観が 共有され得ましょう。

お礼日時:2019/06/24 04:35

踏む、カントについて少しわかりました。




要は、理想が真実の姿と言ってあるのではないですか?

これは、魂や神(今回のは全能やすべての存在のことではない上位者)で表す事もできるはずです。

彼が、人間の真の姿は探求しても見つかるはずのないものだといったのが、そもそも彼の理想に過ぎないというところかと思います。

それはブラジロンヌさんのリランにも一部見えました。

これも伝えておきましょう。

ブラジロヌさんは、
神を決死って認知できないものであるという理想で髪をそこに狭めてみているのではないでしょうかね?

神の本質は神にしかわからない。超経験的存在…かもと

それは、真実の構造と同じです。
実際触れるまでわからないだけなのだから。触れてみればわかるもの、かもしれません。

神が(神と言うのだから意識体)その全能を理想としているからと言って、根本的に夢見過ぎなのです。

それは絶対にわからないべきだと。

わからない部分を持っていても、わからせれるから全能ですね。つまりは、
そちらを最初の規定としてみれば、
神が現れたときに、全ては解けるるとも言えます。

どうでしょうかね?


まぁ、さておき。いつもどおりの押し問答になるでしょうから。理想の話もさておき。

最近私は【アカシックレコード】〜のタイトルで質問を出しました。哲学カテゴリーです。

ちょっと盛り上がりにかけるので、大変お手数なんですけど、こちらの質問を読んで思ったことを回答してもらえないでしょうか?

質問自体への回答でなくても、私自身への質問や、他の回答者のコメント・返信に関連する話題でも構いません。


お手数ですがどうかよろしくお願いします
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 踏む、カントについて少しわかりました。
☆ 一般に誤解があるかと思うのです。


★ 要は、理想が真実の姿と言ってあるのではないですか?
☆ 理性には限界がある・または 考え違いの推論をおこなう嫌いがある
と言い しかも 自分の超越論的哲学によるならその限界をわきまえつつ 
理性をよく用いることができると言っているようです。


★ 神(今回のは全能やすべての存在のことではない上位者)
☆ この定義が あいまいな内容に成っていると考えます。

○ 神とは:
・ 概念説明:絶対性・超経験・無限・不可変性
・ 属性:真理・善悪を超えた至高善・愛憎を超えた慈愛・全知全能
・ 絶対性の擬人化:絶対者
・ それを物語化:創造主

☆ 神であることに度合いはありません。


★ ブラジロヌさんは、
神を決死って認知できないものであるという理想で髪をそこに
狭めてみているのではないでしょうかね?
☆ 神は 可知(既知か未知)あるいは不可知(知り得ないと証明された
未知)ではなく 非知だと言っています。

知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか と。



★ わからない部分を持っていても、わからせれるから全能ですね。つまりは、
そちらを最初の規定としてみれば、
神が現れたときに、全ては解けるるとも言えます。
☆ もしそうだとした場合 それでも その《分かる・解ける》は ひと
りの人間たるそれぞれの《わたし》の主観内部における問題だと見ます。

人と人とのあいだで互いに同じ神をいだいていると《分かる》ことがある
か無いかは 分からないというふうに捉えます。

人間が互いに相手のいだく神が分かったとしたら それは 《人知のおよ
ぶ神》だと成ります。超経験が 理性により経験合理性において知り得た
ということは そのままでは肯定しえないでしょう。

お礼日時:2019/06/22 05:47

観音を見る。



山崎弁栄上人はそうしたお方だったようです。
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この回答へのお礼

そうでしたか。

世音を観るですけどね。


ご回答をありがとうございます。




物自体は けっきょく神の代わりをしていた かも知れません。

ただしと言いますか しかもと言いますか カントは神には触
れないという方針だったようです。

お礼日時:2019/06/19 21:03

私の解釈。



宇宙そのものは神の意思の現れ。
その宇宙の現象は、時空に制約された物質活動。

実体とは宇宙そのものの事。
宇宙内の時空間の世界は経験事象。
相対は時空間内の物質同士の関係。
人間の精神活動も、この宇宙内のことなので、相対関係がある。

悟りとは、宇宙の精神と一体になること。
宇宙の精神と一体なので、相対関係ではなくなる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宇宙そのものは神の意思の現れ。
☆ そういう主観としての神観を 特殊絶対性として持つことができます。
それは 神は無いという主観(これも 特殊絶対性)が 自由に同等に成り
立つことと一体です。


★ その宇宙の現象は、時空に制約された物質活動。
☆ 時空間は 限りないかも。つまり 経験世界の中で 無限につづくかも。
これは 神の真無限とは別に 可能無限と言います。


★ 実体とは宇宙そのものの事。
☆ いえ。基本の用法は 神のことです。宇宙は 経験世界です。


★ 宇宙内の時空間の世界は経験事象。
☆ はい。


★ 相対は時空間内の物質同士の関係。
☆ 時空間も そうです。


★ 人間の精神活動も、この宇宙内のことなので、相対関係がある。
☆ はい。そして かなしいかな 朽ちて行かざるを得ません。


★ 悟りとは、宇宙の精神と一体になること。
☆ とするなら そのとき 宇宙の鼓動を自分の胸に感じていないとダメで
すよ。つまり 世界の・あるいは 身の回りの人びとのそれぞれの思いや心
が おのづと自分の心(そして 感性でもあります)に伝わってくるほどで
ないと。
《世音を観る》とか。



★ 宇宙の精神と一体なので、相対関係ではなくなる。
☆ いいえ。生命活動をしているその姿でよいはずです。相対世界にありま
す。ただし 絶対性が――つまりは 霊性が――ヒラメキなどとして入って
きてもよいかも。

お礼日時:2019/06/19 17:58

実体=神でもいいです。


絶対、でも。
宇宙の本体、でも。

宇宙の創造主である神。
それは永遠・不滅。

神の持つ意志と云う力に依って、創造されたこの宇宙。
二つとないから、相い対する宇宙がないから、絶対という。

真実とは、宇宙の事。
主観は個々においての真実。
主観はその人だけのもの。
客観性はない?。

依って、真実=真理と主観は別物。

また物自体とは、認識しえないと云っているからには、実体の事を云っているように思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 実体=神でもいいです。
絶対、でも。
☆ ただし カント説の物自体については 困ります。神ではないのですから。


★ 宇宙の本体、でも。
☆ これは あいまいです。宇宙であれば 経験世界ですし それを超えたと
ころとすれば 神のことになります。


★ 宇宙の創造主である神。
それは永遠・不滅。
☆ 普遍神とは?
=具体的に: 有る神 または 無い神
=概念説明: 絶対性・無限・不可変性
=属性: 真理・〔善悪の彼岸なる〕至高善・〔愛憎を超えた〕慈愛
→擬人化表現: 絶対者
→物語化: 創造主



★ 神の持つ意志と云う力に依って、創造されたこの宇宙。
二つとないから、相い対する宇宙がないから、絶対という。
☆ 宇宙は 時空間の世界です。経験事象ですから 相対性のもとにあります。


★ 真実とは、宇宙の事。
☆ 宇宙は 経験事象ですから 移ろいゆかざるを得ないもの・ことです。や
がて 朽ちてゆきます。


★ 主観は個々においての真実。
☆ はい。
★ 主観はその人だけのもの。
☆ 神観は そうです。経験科学としては 或る人の研究成果〔としての主観〕
が 妥当であるとき共有され得ます。共同主観となります。ただし 《客観》
ではない。


★ 客観性はない?。
☆ 対象や事実の正確な認識を――それが得られるとすれば――《客観》とよぶ
という決まり事です。


★ 依って、真実=真理と主観は別物。
☆ 人間の限りある知性によって形成する主観は 相対的なものなので 《真実》
とよぶとします。それに対して 絶対的なものは 《真理》と名づけます。

ただし 科学的な認識内容について その真実を便宜的に《真理》とよぶことが 
しばしばあります。



★ また物自体とは、認識しえないと云っているからには、実体の事を云ってい
るように思います。
☆ そうなんです。だから 困るんです。わけ分かんないですよね?

補足欄に図示できればと思います。

お礼日時:2019/06/19 16:07

物自体を実体、あるいは真実と解釈してみれば、カントは実体や真実を直接見聞きし、感じることはできない、と云っていると思います。



そのように感じ、考えているにもかかわらず、それがなぜなのかという事をカントは、分からなかったのでしょう。

私にはそれが分かります。

人間は世界を直接、認識しているつもりでいますが、実は自身の心に写し取った映像を見ているに過ぎないのです。

客観物をとらえるのは心です。

貴方の心は完璧ですか?
まっさらですか?
キズや汚れはないですか?
曇ってはいませんか?
歪んではいませんか?

もし、完璧なら真実、実体を見ているに等しいでしょう。
でも、おそらくそんな人間は、釈尊ぐらいなものですね。

でもさすがカントです。
気付くことはなかったけれど、物それ自体認識することはできない、と云えたことが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 物自体を実体、あるいは真実と解釈してみれば、カントは実体や真実
を直接見聞きし、感じることはできない、と云っていると思います。
☆ ええっとですね。わたしの理解するところを述べるに過ぎないかも分
かりませんが:
○ 実体:これは けっきょく神のことです。(経験的に確実に存在する
という実在のことでなければ)。
○ 真実:これは 基本として人間の主観のことです。相対的な主観真実。


○ 物自体
☆ は 単に《物が物であること。あるいは モノ性》を言っているので
はないかと思います。ただし 認識し得ないと規定した。言いかえると
《事実》というのは つねに或る主観が認識したその概念的内容です。つ
まり いわゆる客観事実は 人間に認識しえないと仮りに規定するのと同
じだと思います。


★ そのように感じ、考えているにもかかわらず、それがなぜなのかとい
う事をカントは、分からなかったのでしょう。
☆ ん? カントは物自体について認識しえないと言っていますが。


★ 私にはそれが分かります。
★ 人間は世界を直接、認識しているつもりでいますが、実は自身の心に
写し取った映像を見ているに過ぎないのです。
☆ それは 先ほどの主観としての認識内容のことですね。つまり 客観
事実は 人間には認識しがたい。


★ 客観物をとらえるのは心です。
☆ あっ。つまり 言葉で表現するかたちで認識することはむつかしいが
自然本性および人格たる《わたし》が 対象を その全体的なすがたにお
いてとにかく把握している・・・といったようにでしょうか。



★ 貴方の心は完璧ですか?
まっさらですか?
キズや汚れはないですか?
曇ってはいませんか?
歪んではいませんか?
☆ ・・・。


★ もし、完璧なら真実、実体を見ているに等しいでしょう。
でも、おそらくそんな人間は、釈尊ぐらいなものですね。
☆ ・・・。


★ でもさすがカントです。
気付くことはなかったけれど、物それ自体認識することはできない、と云
えたことが。
☆ いや それは おかしい。事実ないし対象を客観的に知ることは――
人間の主観が相対的にならざるを得ないという制約があるので―― むつ
かしい・・・ということは 誰もが言っていますよ!

お礼日時:2019/06/19 13:10

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