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日本兵は精神論だけを叩き込まれて装備は明治時代の38歩兵銃。それも弾丸も十分与えられず、米兵に1発撃ては1000発撃ち返される状況だったと思います。それで日本軍は、互角に戦えたのでしょうか?最終的に追い込まれて万歳突撃で玉砕して行きました。米国海兵隊は日本軍は勇敢に戦ったと評価する人もいるようですが、それは自分たちの価値を高めるためにそう言ったにすぎないのではないでしょうか?事実上、米軍は日本兵を虐殺したに過ぎないように思えてなりません。実際はどうでしたか>

A 回答 (15件中1~10件)

一つ指摘すると、


あのように銃弾を潤沢に使えたのは、あの時点ではアメリカ軍くらいのものです。
イギリス軍もフランス軍もドイツ軍も、銃弾の備蓄量という点でいえば日本と同じようなものでした。
なので1分間に何百発も撃てばあっという間に弾丸切れになってしまうのも日本と同じでした。
アメリカだけが別の次元にいたのです。
つまり、日本は、戦う相手を間違えたのです。

アメリカ軍だって自分が殺されるのは怖いから、しゃにむに突っ込んでこられたら恐怖します。
狂ったように突っ込んでき、退くことをしないならなおさらです。
それが勇敢という評価に結びついたりもしました。

しかし上層部はしょせん物量がものをいうことを知っていました。
現場で実際に日本兵に向き合う自軍の下士官兵に対し
「日本軍は勇敢だ。しかしお前らはもっと勇敢だ」
といって士気をあおることはあっても、内心は醒めていました。
勝つと分かっているだけになおさら。
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米軍がこれまで最大の被害を受けたのが、たしか硫黄島でしょう。


自分たちの価値を高めるも何も、一種の籠城戦だったとはいえ、少人数、武器も食料も限られた相手に、万単位の死者を出したのは事実ですから。1ヶ月以上ですよ。
虐殺と言うほど弱かったら米軍も苦労しなかった。
装備兵站の差を考えると、日本をいくら褒め称えたところで、自分たちの価値が上がることは無いでしょう。ただ普通に賞賛しているんだと思いますよ。
そこが中国や朝鮮半島と違うところでしょう。日本の武道とも通じる。
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>それで日本軍は、互角に戦えたのでしょうか?


 武力が違うから到底、互角の戦いは無理だったでしょうが、
 米軍より遥かに高い志を持ち、命を懸けて戦ったという事実は変わらない。

 精神論は、軍を統率するために必要な部分ですから、
 悪いイメージは捨てる方が良いかと思います。

インパール作戦では、指揮官の判断ミスにより惨憺たる結果を招いたが、
それでも兵士はジャングルの山奥まで大砲や弾薬を人力で運び、
後方支援もなければ補給も無い状況の中、
待ち受けた敵軍に一方的な攻撃を受けながらも
撤退の命令が出るまで前線で戦った訳です。

硫黄島などは、米軍が5日間で陥落させるために
島の地形が変わるほどの爆弾を打ち込むという大物量作戦に出たが、
日本軍は、僅かな武器弾薬で37日間も島を固持し続けたのですよ。
指揮官、並びに兵士の国を守るんだという
命がけの戦い以外の何物でもありませんね。

また、人間にとって最も辛い死に方が焼死だが、
米軍は火炎放射器という非道な殺戮を繰り返していた訳です。
そういう鬼畜攻撃に対しても逃げることなく立ち向かっていた人たちを
我々は誇り高く思うべきですよ。
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一概には


語れないね!

実際にアメリカ軍は
本土上陸作戦に
大量の戦死者を
計算してたくらいだからね!


質問者さんの言う
虐殺ってのは

戦争してる
双方に言えますね

陸軍で、歴史上
1番の惨めな戦場の話を
参考までに
貼り付けときますね




(  ̄▽ ̄)ニャリ
「太平洋戦争の地上戦は日本軍の一方的な惨敗」の回答画像13
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大陸では勝ち続けたそうですから地上戦が惨敗だったとは言い難いと思います。


日本が降伏した際も大陸では広大な領土をおさえたままでしたから、むしろ海軍が弱かったのかも…。権威主義で大鑑巨砲主義を貫いちゃったせいかもしれません。
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お邪魔します。



末期には「大和民族は農耕民族だから雑草を食べろ!」などという命令も上から伝令されたと読んでいます。

重要なことはたった「赤紙一枚で」一握りの戦争指導者に戦地へ送られた日本国民・日本兵が最大の犠牲者だということです。

何かのお役になれれば幸いです。
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ところによりけり。


インパール作戦とか餓島ことガダルカナル島の戦いでは、戦死者より病死や餓死のほうがはるかに多く、戦える状態ですらないという状況だったようです。
逆に硫黄島の戦いなどではゲリラ戦のようなやり方などで、戦力も火力も大きく劣っていましたが、互角と言えるほどに戦ったようです(もちろん戦局をくつがえすほどのものではないのですが)。

海軍は、どちらかというと、正々堂々戦うのが良しという風潮があったようで、万歳突撃で玉砕ではないのですが、結果的にそのような戦い方が多かったようです。逆に陸軍は、泥臭い戦い方でもゲリラ戦でも生きて最後まで戦い抜けみたいな感じで、悲惨な戦いが多くなったようです。
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南方の島での日本兵の死亡原因は、飢えと病気が大半でした。

 米兵も一般人の徴兵が大多数で、敵兵である日本人を目の前にしても銃の引き金を引けない兵士が6割以上だったそうです。 これに危機感を覚えた米軍は、その後兵士を徹底的に追い詰めて洗脳する方法で訓練し、ベトナム戦争では敵兵に引き金をひける兵士が9割以上になったそうです。
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>互角に戦えたのでしょうか?



状況にもよりますが、互角以上だった時もあります。

特に開戦初期ならばフィリピンでは日本軍が圧勝です。
スペックでは97式中戦車がかなわないと言われたM3戦車などは
マレーでイギリスに貸与したものを含め、ほぼ全滅させています。
当時は米軍が連戦連敗だったので、時間がかかったパターン半島や
コレヒドール島の攻略は米新聞で連日報道されていました。
しかし、結局はマッカーサーが(大統領命令とはいえ)
部下を見捨てて敵前逃亡したくらいです。

末期であれば、先年上皇様が行かれたパラオのペリリュー島。
互角どころか、圧倒的に装備も数も兵站も劣る日本軍に
第一海兵師団は全滅判定を受けて交代させられました。
ちなみに、圧倒的な戦力差からこの時の第一海兵師団長の
ウィリアム・リュパータス海兵少将は、開戦前には
「私への土産に日本軍守備隊指揮官の軍刀を持ち帰ってくれ」
と訓示してこのありさまなので更迭されています。

沖縄戦で戦死した連合軍指揮官バックナー中将は、
第二次大戦で戦死した米軍の最高位軍人です。
ちなみに、戦死したのは1945年6月18日で
日本軍の組織的抵抗が終わる直前です。
指揮官が前線視察する時はそれを察知するとともに
砲火を集中するくらいの激しい抵抗をしていました。

このように、簡単に蹂躙されたという訳ではありません。
(だから原爆使用の口実になったとも言えます)
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開戦時は日本がどんどん敵側を攻めに攻めて勝利を積み重ね、アジアの大半を占領したという話も聞いたこと有り。


しかし、そういう栄光は長く続かず、後半は負け戦の連続。アメリカがフィリピンを占領して日本本土爆撃用基地を作ると、もういけません。本土空襲で日本中焼土と化す。さらに原爆落とされ、もはや降参する以外に道無しというほどに叩きのめされました。
1億総玉砕でもし降参せねば南九州を始まりに本土上陸して日本完全占領。
ドイツなどのようにアメリカとソ連で日本を東西分断などと恐ろしい策謀もあったようです。
しかし、土壇場降参・無条件降伏でそうはならず、よかったですね。
日本は負けてよかった。負けたから、全体主義国家から自由民主主義国家へと一大転換が出来たわけです。そして今の平和な日本があります。
質問者さんは戦争を知っていますか。
それとも知らない。



また後で。
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