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戦艦大和は巨大な失敗といっても技術的には当時最高のものであったと思います.またその波及効果も現在にまで及んでいると思いますが,いつどのようなところで計画されたのか教えてください.

A 回答 (3件)

 当時の時代背景を考えると面白ですよ



 まだ戦争前は軍部首脳陣は強大戦艦主義の時代でした
 しかし中には 戦艦に変わって空母先見を予見する人物がいたんですね
 その名は、山本五十六
 かれは、戦艦大和の建造では無く
 巨大空母2隻を作りたかった
 しかし相手は多数派の軍部首脳陣は強大戦艦主義
 いやおうなく
 大和級 2隻になりました
 そして 戦勝へ・・・・・
 このとき巨大空母2隻にしていたら
 歴史は変わった?

 まあ、山本五十六の話を読めば良く判りますよ
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2004/12/11 09:25

 戦艦大和を設計したのは、軍艦に生き日本造船の父といわれた平賀譲です。



 軍艦設計は、物理学・化学・数学等の集大成です。第2次世界大戦以前、飛行機時代が到来するまで『船』は『力』そのものでした。
 特に明治38(1905)年に日露戦争でバルチック艦隊を撃破。世界に名をとどろかせた日本海軍は、それ、すなわち、躍進日本の象徴でした。そして平賀譲はその中核にいたのです。

 1906年(明治39年)英国戦艦ドレッド・ノートの出現は列強諸国を驚愕させました。12インチ砲10門、速力22ノット(従来の船は12インチ砲4門・速力18ノットが標準)これこそが大艦巨砲時代の到来だったのです。

 平賀は『大艦巨砲主義』を海軍に受け入れ、たちまち『ドレッド・ノートの平賀』として日本の軍艦設計の父となったのです。その後戦艦『長門』の改良、戦艦『加賀』、巡洋艦『天城』の設計と平賀はまさに大鑑巨砲主義の申し子でした。そして、巡洋艦『妙高』の画期的な軽量化構造で世界の絶賛をあび、世界の頂点に立ちました。

 しかし、平賀は大正14年(1924)東京築地の海軍技術研究所に左遷され、永久に軍艦設計の場から追放されます。ここで、ひそかに自らの夢戦艦『大和』の設計の土台作りに着手。昭和4年の海軍本部技術会議での戦艦『金剛』代艦計画に自らの設計プランを持って復活を図りますが、昭和5年(1930)のロンドン軍縮条約調印で『金剛』代艦の建造そのものが6年も先に延ばされます。昭和9年(1934)の水雷艇『友鶴』転覆事件で古巣に帰りざいた平賀は、昭和10年(1935)より再び戦艦『大和』設計にとりかかり、昭和16年(1941)呉工廠にて戦艦『大和』進水となります。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました.

お礼日時:2004/12/10 14:59

日本海軍が軍縮条約脱退後、1934年末に開始された新戦艦建造計画の「A-140」がのちの「大和」で、これは日本海軍が計画した140番目の戦艦を表しています。


1937海軍補充((3))計画戦艦第1号艦として呉工廠造船第4船渠で11/4起工
1940.8/8.進水,
1941.12/16竣工(総工費\1億3780万2000)
1941.12/21戦艦長門、陸奥の編成する連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入

設計の中心になったのは、日本海軍軍艦の神様とも言える"平賀譲造船中将"
勿論その他にも、多くの人が建造に関わっています。

とても有名な船なので、"戦艦大和 建造 計画"等をキーワードにしてWEB検索すれば、関連のサイトが沢山見つかります。
例えば↓これ
http://www.terra.dti.ne.jp/~akimasa/html/itidaik …
http://www.ksnaj.or.jp/K-Senior/DOC/hiraga/hirag …
http://hush.gooside.com/name/y/Ya/Yamato/Yamato. …

また、出版物も多くでていますので、本屋さんで探してみてください。
雑誌なら、潮書房/光人社の「丸」を探してみてください。
http://www.kojinsha.co.jp/maru/index.html

ちなみに、このような巨艦を作る技術や設備などが、その後の造船王国日本を生み、高度経済成長をささえました。
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この回答へのお礼

早速どうもありがとうございました.

お礼日時:2004/12/10 13:14

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