プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

鳥羽伏見の戦の後に出版されたと思われる瓦版に、戦に負けた幕府方(慶喜と推測されます)を、「長州薩摩の敵の中、御旗は錦でお定まり、お困りならば落ちさんせ、御城もどんどと焼けてある、名字もこのごろ書きかえて、味方も今ごろ泣いている、今度の戦を負けにして・・・」と揶揄しているのですが、謹慎の意味か何かで姓を一時的に変えたことがあったのでしょうか。

A 回答 (2件)

 慶喜は数人の側近と大阪城から脱出する時、小姓に変装しています。

この時の事を記録では『城門にては衛兵の咎むることもありやといたく気ずかいたれど、御小姓なりと詐りたるに欺かれて、べつにあやしみもせざりしはまことに僥倖なりき』(昔夢会筆記)
 この時の将軍ともあろう者が小姓に変装した事を揶揄したのかもしれません。

 それから、江戸城に帰った慶喜は、戦意を喪失するとともに徹底した恭順、謹慎生活にはいります。これには、幼年期から青年期に至る、父・斉昭の教育も大きく作用していました。斉昭はつねずね次のように諭していたのです。『もし天下に大事が起きて、朝廷と幕府が相戦うような事態となったら、我らはたとえ幕府に背くことになろうとも朝廷に向かって弓を引くようなことがあってはならぬ。これは義公(水戸光圀)以来の家訓である』と
 これだけみれば慶喜は徳川家の人間からまるで水戸家の人間に変わったようにもみえます。
 このどちらかではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

委しくご回答を戴き有難うございました。大変参考になりました。

お礼日時:2004/12/13 18:09

 No1.に追加ですが、慶喜は、大阪城を脱出する時、大阪城に家康ゆかりの5本骨の扇の馬標(金扇馬標)を忘れます。

いわば、将軍の権威のシンボルであったにもかかわらず、です。(これなど、もう徳川の将軍・人間でなくなったとさえいえます)
 
 この馬標を取りに戻ったのは、譜代の旗本でもなく、御家人でもない一介の町人でした。慶喜が江戸から連れて来た、江戸に300人の手下を持つ町火消しの頭取・辰五郎だったのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございました。自分の命に関わる事ですから随分慌てて脱出したんでしょうね。

お礼日時:2004/12/13 18:13

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!