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我々は家でゴキブリを見ると、それを殺します。何の躊躇もせずに…です。何故か。病原菌を媒介するからです。
しかし、同時に我々は人間が死ぬのを拒みます。人が死ぬのは嫌です。たとえそれが自分に悪影響を与えたにせよ、人が死ぬのを拒むのには代わりありません。
同じ命なのにです。

つまり、これは虫の命よりも人の命の方が重いということでしょうか?
なぜ、人の命が虫の命よりも重いのでしょうか?
感情を持っているから………ですか?
教えてください…。

A 回答 (12件中1~10件)

確かに殺す人は多いと思いますが、ここで「我々」と言う言葉を使うのは間違いですよ。

僕は殺しませんよ。

そして殺すか殺さないかなんて、人それぞれというしかないと思います。なんたって、それは自由なんですから・・・ですから、必ずしも命の重さへと繋がるとはいえないと思います。

あなたが何故虫の命よりも人間の命と考えるのは、それはあなたが人間だから、人間として生きて、育てられてきたからですよ。そして、そのように教えられてきた筈でしょう。それは人間社会で生きる為のルールであって人間の言う正義でもあります。よって人間以外同等に扱う必要はありませんね。まぁ、それも人それぞれですが・・・まぁ究極的にはあなたの満足のいくように判断すればよいと思います。
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>つまり、これは虫の命よりも人の命の方が重いということでしょうか?


なぜ、人の命が虫の命よりも重いのでしょうか?

それは神さまが人を造り、愛しているからです。神さまはゴキブリも造りましたが、ゴキブリは愛していません。

聖書の一番はじめには、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と書かれています。そしてさらに読んでいくと神さまは動物を造り、人間を造ったと書いてあります。つまり、絶対者なる神さまはこの世界のすべてのものを創造したのです。

人間は誰の意志にもよらず偶然に生まれてきたのではなく、神さまが理由と目的とを持って造られました。そうすると、人間には本来、神さまにわざわざ造られるほどに価値があり、人間は自分の親以上に自分を愛してくださる神さまの愛の中で喜んで生きる生き方があるはずです。

もし、「自転車が偶然にできると思いますか?」と質問すれば必ず、「偶然にはできない」と答えるでしょう。そして続けて、「時計」・「コンピューター」と質問を繰り返すならば、少々いらいらしながら、「偶然にはできない」という答を返してくるでしょう。しかし次に、「人間の複雑なからだが偶然にできるか?」と質問するとその答は「偶然ではない」と答えるか「分からない」と答える人が多いでしょう。今まで、物が偶然にできないということを面倒くさそうに答えていた人が、今までの物の中で最も複雑な構造を持つものを指し示した時に、「分からない」と答えるのです。これは“理論的に人間が偶然にできない”という理性と “神様が造ったなんてあり得ない”という感情とをてんびんにかけ、感情が勝った答えです。もちろん「分からない」と答えた人も、人間のからだの方がはるかに複雑で難しいことは知っているので、「もし人間が偶然にできたと信じたいならば、少なくとも人間のからだよりもはるかに簡単な自転車ぐらいは偶然にできたと本気で信じなければならない。そうでなければ、人間のようなものが偶然にできたと信じる資格はありません。」と話した後に、「自転車が偶然にできたと本気で信じている。」と言った人は誰もいません。

人間を創造した神さまは人間に対してこうおっしゃっています。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」

「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの。」

しかし、ゴキブリや動物に対してはこのようなことをおっしゃってはいません。

だから人間の命は価値があり重いのです。
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こんばんは!


昨日台所でゴキブリと遭遇しました。新聞広告を丸めて叩き潰そうとしたのですが、動きもしないゴキブリを叩き殺すことは出来ずにその場を去りました。その時、この質問と同じようなことを疑問に思いました。

いろんな方面から考えてみたのですが、それはおそらく、人間が生きることの無意味さや虚しさの問題なのでしょう。何故人間は存在するのか?とか、生きるとは何か?と同じ疑問だと思いました。

ゴキブリでも人間でも死ねば、土とかえり、そのエネルギーはサイクルします。水を使い、流し、川から海へ、そして水蒸気になり、雨となり、降り注いでまた使う。その繰り返しと同じです。物理学でなんとかの法則ってあったような気がします。

つまり、ゴキブリでも人間でも必ず死ぬ運命です。そのはかなさに悩むのです。
その逃れることの出来ない人間の運命と闘うのもひとつの人生ですね。哲学とか宗教とかそうだと思います。また、それらを気づかないフリをして、娯楽快楽に身をまかす人生もあります。それは、あなた様次第です。
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 小生はこのように考えています。

他でも同様のことを書きましたが、要するに人間もゴキブリも水も電子も,ありとあらゆる存在するものは夫々自分のことだけはわからないという意味で平等なのだろうということです.この意味での平等性は実際の場でどちらがどちらを殺すかというようなこととは関係がないと思います.只さすがに人間はそのような共通な原理があるようだというようなことは考えられるという意味で少し違うのかなと思います.しかし人間にしても、自分のことだけはわからないという意味では特殊な存在ではないと考えるほうが良いのではないかと思っているのですが。
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 ゴキブリは、人間の側の環境衛生の改善により病原性大腸菌などの運搬を担う機会は確かに減りました。

しかし、サルモネラ菌、赤痢菌、バクテリアにウィルス、寄生虫卵など人間にとっての病原体や、昨今問題となっているアレルギー源物質の運搬も担っています。確かにその生活上の危険は過大に見積もられ、怖がられていますが、実害がまったくないわけではありません。

 しかし、ゴキブリが嫌われているもっとも大きな原因は、不快害虫とされることにあります。身の回りを清潔に保ち食中毒の原因菌などその辺になければ怖がることはないし、アレルギーの源となる物質は、はるかに家ダニなどゴキブリ以外の害虫がもたらす機会が大きいと言えます。ゴキブリはその姿、行動の有り様が人間にとって心の底からの嫌悪感を引き起こすことが、具体的な我々の殺意の原因となっています。

 たとえばゴキブリの存在よりペットのオームとキスする行為の方が遙かに危険で、ゴキブリが運ぶ病原菌は直接の嫌悪感の主な原因ではないと思います。

 さして危険のないとされるゴキブリがなぜそれほど不快に感じるのか、その原因はゴキブリの側にはなく人間サマのほうにあります。それは「日常性の壁」のむこうから不意に現れたモンスターであり、観念化された衛生環境のなかに突如現れた、観念の破壊者だからです。ゴキブリでなくてもカマドウマでもヘビトンボでも、ムカデでもゲジゲジでも同じことです。ただしテントウムシは観念化の内側に住むものであり、かわいいとされることが多いようですが。

 不潔な環境でも人間はいずれ慣れますが、ゴキブリが与える不快感には慣れることはありません。それは不潔だから嫌われるという原因を否定し心理的な要因があることを示す証拠だと思います。よくよく観察すると彼らはそれぞれかわいい顔をしています。(でもバルサンは焚きます)

カマドウマ
http://www.gaichu.ne.jp/ga_06.html
ゲジゲジ
http://www.gaichu.ne.jp/gai_sonota_index.html
ヘビトンボ
http://www.fuji.sakura.ne.jp/~shin/galleryotheri …

>人の命が虫の命よりも重いのでしょうか?

 植物や植物性プランクトンでない限り、生命現象によって物質のなかに蓄えられたエネルギーを使って、生き物は自らの生命現象を維持しています。つまりある生き物の「生」は別の生き物の死によって支えられているのです。自然界の中では今や最強のプレデターである人間の一人の命を維持するため、数え切れない生き物の「死」が捧げられます。

 しかし突き詰めれば、それは業としかいいようがなく、当事者の感情とか気持ちなど超越した冷酷な自然の仕組みの中にしか私たちの生はないということの裏返しに過ぎません。そしてどんなに拒んでも、いずれ誰しも死を迎えることもその冷酷な仕組みの内側にあるもう一つの事実です。ひょっとしたら、よくわかりませんが、本来、生命に重いとか軽いとかないのかもしれません。

 そうであればこそ、人は、他の命を慈しみ、自らの命を寿ぎ、懸命で前向きに生きようとする義務のようなものを負うはずですが、そのような「理屈」とはうらはらに、食材と生き物の存在が完全に分離する観念の世界では「生命」への慈しみや他者への思いやりが希薄になっていることは否定できない現実なのかもしれません。人間同士が殺し合うニュースは日常化していますから。

 ゴキブリのような生き物の存在は生命の多様化の象徴です。地球上に生命が生まれてから一斉絶滅をなんども経験しながらも、命の樹が綿々と続いてきたのは、その生き物の多様性のおかげです。一説によるとゴキブリは3億年もその姿をほとんど変えることなく生きてきた、人間にとっては大先輩です。エネルギーや食料、戦争、人口問題など解決できない人間様はいずれは地球上からいなくなるでしょう。何百万年かあとに、ほとんど一瞬芸で終わった人間の文明を哀れんでいるのは、むしろ彼らの側かもしれません。
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仲間の命>その他の命だからです。



ゴキブリは仲間ではありません。
ですから殺せる。

同じ人間でも敵は仲間ではありません。
ですから殺せる。

犬でも家族の一員なら仲間です。
ですから殺せない。

大雑把ですが、こんな感じだとおもいます。
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>人間が死ぬのを拒みます。

人が死ぬのは嫌です。たとえそれが自分に悪影響を与えたにせよ、人が死ぬのを拒むのには代わりありません。
それは、「我々」ではなく「あなた」です。

幼い子供を誘拐して殺した犯人より、私には家で飼っている亀の方が大事ですし、重い命です。
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自分以外の命<自分の命ですね。


喰うに困れば害虫駆除の仕事など平然とするでしょう。

普段の生活の場で同じような質問をされたことありますか?
ネットでは聞いても普段の生活の場で聞いてないという事なら、ここで回答を得たとしても意味がないでしょう。
匿名で質問するという事はあなたが質問するという事とは違いますからねぇ。
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まず一つ大きな間違いを。

ゴキブリが病原菌を媒介するという話は聞いたことがありません。根拠教えてください。

さて本題。既に出てきていますように、種で命の軽重は決められるものではありません。唯一つ事実として言えることは、人間を除く生物界では、自らの生命を守るために他の動物を殺す (主目的は食のためです) ことはあっても、それ以外の目的で殺すことはあり得ません。強いて言うなら、ヒトに飼いならされた猫が鼠を採っても食べることなくおもちゃにするようになったこと、あるいはこれに類すること、はありますが、これはヒトに寄生する (食を保証される) ようになった結果に過ぎません。牛は蝿を追いますが、殺すことが目的ではなく、たまたま当たり所が悪ければ、死ぬ蝿も出てくるに過ぎません。

片や翻って人間はどうでしょう。食べるためにヒトを殺しません。自らの主義主張を押し通すため (これが戦争です)、個人の食以外の欲望を満たすため (日常起こる故意による殺人です)、制御しきれない道具の誤った使い方の結果 (交通事故とか、原発とか)、様々な、動物界では想像もできない理由で、殺しています。質問者の対ゴキブリは二番目に相当する理由でしょう。

決して人間は 「人間が死ぬのを拒んで」 はいません。もし拒んでいるとしたら、毎日戦場とまでは言われなくてもイラク、パレスチナでの殺人は起きない筈ですし、交通事故を避けるため車の使用を止めざるを得ず、となるでしょう。その昔読んだ小話、「戦場を見た未開の食人種が、なんとまぁ文明人は大喰らいなんだ、と言った」 が象徴するように文明の発達の裏返しです。

単に、「自分の周囲の人間が死ぬのを拒んで」 いるだけで、「自分の周囲の人間が死ぬのは嫌」 なだけではありませんか。大脳が発達し、自然界を支配できるようになった結果として出てきた人間の特徴なのです。かと言って、人間も他の動物と同じレベルでの生存競争下に戻ることはもうできないでしょう。そこで倫理、宗教、思想などが、一つの制御機構として、現れてきたんでしょうが、それが殺人を正当化する手段に変質してきているのです。

生物学より哲学的命題であることは確かでしょうし、解答が得られる命題ではないと思います。深い思索の対象になる質問だと思います。
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>我々は家でゴキブリを見ると、それを殺します。

何の躊躇もせずに…です。

私は躊躇します。できるなら殺すよりも逃がします。

>しかし、同時に我々は人間が死ぬのを拒みます。

戦争を好む人々がいます。かといって彼らも誰彼かまわずではありません。仲間とは戦争をしません。仲間は同国民であったり、同じ宗教であるかなどです。

この仲間とは争わないという意識における、仲間の範囲に対する意識のずれが、さまざまな軋轢を生んでいるのではないかと思っています。
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