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仏教について前にも増して疑問が深まったので質問させていただきたいと思います
まず仏教出現の意義というものは分かってきたのですがなぜ日本に仏教は出現したのでしょうか。バラモン教やヒンドゥー教もあったのになぜ聖徳太子は仏教を取り入れたのでしょう?1000年もの時間をかけて伝えたのはなぜでしょう?
そしてもう一つは仏陀と人間と神の関係とは明確に言うといったいどのような位置づけになるのでしょうか?

A 回答 (10件)

NO9です解かり難かったと思いますのでもう少し説明します。



「そしてもう一つは仏陀と人間と神の関係とは明確に言うといったいどのような位置づけになるのでしょうか?」

この事の説明をします。お釈迦様の悩みから入ります
悩みとは心の矛盾です。自分の心の矛盾です。心の中に死に対する恐れが在るときに、もう一つの心は永遠の命を希求します。その二つの考え方、言い換えれば二つの意識の食い違いが人間の心に「悩み」として感じられるのです。

二つの意識が有ると言う事の説明をします、自分では感じにくいのですが。「分離脳」の研究というものが、1,980年代にありました。その研究によって得られた結論が在ります。

人間の「左脳には一人の人格があり、右脳にも一人の人格がある。従って一人の人間には二つの人格が在る」

もう一つの結論「左脳は言葉を扱っている、論理、理知的なこと」「右脳は言葉では言うことが出来ない事柄、喜怒哀楽など」つまりそれぞれの脳は機能が分かれていて、直ぐにはお互いの機能を補って交代して代ってやる事は出来ない。但し片方の脳がダメージを受けた時に、ものすごい、リハビリによって新しい機能を身に付けることは可能という事例もある。

その事を端的に顕している居るのが「禅問答」というものです。これは分別を捨てないと解けない問題なのです。左脳の知識、論理では不可能なのです、そのためには「命がけの修行」が必要となります。今の意識左脳の意識を殺さないと解けない問題だからです。「我」を捨てろ。と言うわけはここに在ります。一度我が死んでその時に右脳の「仏性」が出てきてその問題を解いてくれると言う事です。

我を殺しきることを「大死一番」と言います。その時死んだ我「左脳の現意識」と無意識の中に在る「右脳」の意識「仏性」が出会う事になります。この事を「見性」をした。自分の性を見たと言います。禅宗では悟りが開くとも云います。他力宗では向こうからお助けが来たとも云います。右脳の意識は神と云っても良いのです。その事をお釈迦様は「仏性」という表現で残しているようです。

悩みが一人の人間の心の矛盾であって二つの心が起こしている矛盾なのですから、二つの心がどんなに、矛盾していたにせよ、「見性」することによって、その矛盾が解消されます。その事で解かる事があります。お釈迦さまの教えは、「宗教」ではないことを。悩める人達の究極の悩み解消法である事を。「禅」が精神衛生に良いと欧米では確たる地位があるゆえんはこういう事なのです。

人間と神の関係は人間の意識が左脳の意識が強く出ていて悩みを生じさせているから、右脳の「神、仏性」が出てこれるように、我が弱くなるように努力をしていきてゆくならば。「神」は感じられます。それは物は言わないけれどいつも、どこでも人間と共に居ます頭の半分は「神」そのものだからです。ただ気が付き難いという事がありますが。

そしてそのことを知っている人のことを、仏陀と本にはでていますが。
本人はとてもそんな事は無いと考えています。悩みは確かに無くなったと言えますが、そのことで能力が増したと言う事が無いからです。

今の自分は今までの積み重ねの結果であって、やった事が良くも悪しくも全部自分に返ってくる只それだけです。
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中国との交流の結果です。


聖徳太子は19歳の時にノイローゼになり見性した事によりノイローゼが完治した。そのことによって仏教の意義を知ったからです。
仏陀は最初は神経症になったと思われます。「一切皆苦」という言葉に集約されています。神経症は症状がひどい時には生活が出来なくなります。出家と言いますが良い精神科医を求めて在宅では生きてゆけなかったのではないかと思います。悩みは自分の左脳と右脳の二つの意識の矛盾です、悟りを開くと言う事は、今の現意識「左脳」が右脳の意識である「仏性」と出会うと言う事です。右脳は神そのものなのです。その出会いによって、左脳と右脳の意識同士の矛盾が解消されます。それが「絶対の安心」です。
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聖徳太子自体の存在も危うい状況だという話を聞いたことがあります。

対外的戦略としてのフィクション話が後に広がったとの説もあるようです。

仏陀と人間と神の関係ですが、ブッダは輪廻を脱出が決定している方、人間と神は輪廻の中にいる生命、天界は楽のカルマを消費するところ、地獄などは苦を消費するところ、人間界は両方消費しながら大量のカルマを生むところ。その上に瞑想の境地梵天界があったり。執着の餓鬼があったり、争いの阿修羅があったり。

こんな理解です。

参考になれば幸いです。
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聖徳太子が何故仏教を取り入れたか.



神道系に属する者が”和を以って尊しとなす”社会の創造の為にと言って,人々に無我,無欲,無所有になる必要性を主張しても説得力はなかったのではないでしょうか.

自分達が他の豪族達を支配したいが為に
そう言っているだけではないのかととられても不思議ではない.

技術が二面性を持つことによって.

だからこそ同系統,相似形を成す仏教を導入し,自らがその立場に立ちそれを広める事によって無我,無欲,無所有への道を開こうとしたと考えられなくもないです.
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仏教における


無我の境地
空観が
日本の神道と相似性があることによる.

相似形をなす2宗教が混在すれば,1宗教が衰退する傾向にあっても,残ったもう一方の宗教から民族としての再生の希望は残る可能性がある.

無我なる境地は治世の担当者達に必要不可欠な境地だろう.
幸福な社会の実現を目指そうとしても障碍はありえる.

神は平和の希求の祈りの対象である.
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課題レポートの延長上の質問として答えますね。



>かってきたのですがなぜ日本に仏教は出現したのでしょうか。

細かい言葉遣いで申し訳ないですが、日本に仏教は「伝来」してきたのですね。


>バラモン教やヒンドゥー教もあったのになぜ聖徳太子は仏教を取り入れたのでしょう?

バラモン教(ヒンズー教)も仏教も、もともとはインドの宗教ですが、仏教は中国や朝鮮半島に伝わったのに、バラモン教(ヒンズー教)は中国や朝鮮半島に伝わっていません。聖徳太子の時代、朝鮮半島および中国から、文化は入ってきました。インドとの直接の交流はありません。したがって、聖徳太子はバラモン教の存在をほとんど知りません(お経に出てくるので、そういう宗教があるという知識くらいはあったでしょうけどね。教えの内容は知らないのです)。

説明が長くなりましたが、要するに、答えは簡単。バラモン教(ヒンズー教)を知らなかったから、です。これらの宗教の経典は、基本的に中国に入っていないので、太子が目を通すこともないのです。

聖徳太子は、進んだ朝鮮半島の文化や中国文化を輸入しようとしたのです。ですから、儒教は政治道徳として、やはり輸入しています。仏教だけを輸入したわけではありません。ただし、特に仏教を信仰されたのは、日本の文化を担った帰化人(朝鮮半島から来た技術者、当時の一流文化人)達の信仰していた仏教にとくに触れることが多く、これに目を付けられたという経緯があります(太子の母方の親戚である蘇我氏は、帰化人とも親しく、仏教信仰を勧めた家柄)。



>そしてもう一つは仏陀と人間と神の関係とは明確に言うといったいどのような位置づけになるのでしょうか?

日本人とインド人では、位置づけが変わってきます。
本を読んで理解できないのは、詳しすぎて理解できなかったのですね。

では、基本だけ申します。

仏教で言うところの「神(神々)」とは、人間より優れた存在ではあるけれども、完璧な存在ではありません。欠点もたくさんある存在です。迷いの存在です。キリスト教の神様を想像してはいけません。

仏は、覚ったものです。最高の存在です。

したがって、こうなります。

仏ーー神(神々)ーー人です。


仏が一番上。仏は教えを説きます。
神は、仏を信仰して、仏の教えで自分も修行します。
と、同時に後輩にあたる人間を守って、ともに仏道に向かうように助けます。
人間は、この中では一番下です。神の助力を受けながら、修行して仏になれるように頑張ります。

これが基本の形です。
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この回答へのお礼

やはりみなさんの総合的にみると仏教が一番日本の理想にありなおかつあまり選択肢もなかったんですね(^^;
進んだ朝鮮半島の文化や中国文化は日本に取り入れるのに申し分なさそうですしね
仏と神と人間の関係に関してはそんな位置どりだったんですね!
てっきり神が一番上だろうと自分の先入観だけで判断するところでした(^^;
わかりやすい回答ありがとうございます!

お礼日時:2005/01/24 02:36

本当のことを知りたいということでしょうから、その意味での参考程度に


聖徳太子が当時の最先端の学問である仏教を導入したことは皆さんのおっしゃるとおりです。仏教には多少の秘密の部分があるのです。それは釈尊が晩年、再誕の地は東の国、東の都といったことに関係するのです。仏陀の転生は、3000年に一度咲く優曇華の花に例えられます。2500年から3000年後に東の国に再び生まれて法を説くというのです。つまり玄奘三蔵がインドから東の中国に伝えたのですが中国の僧はこのことを知っていたので更に東の国に伝えていく義務があったのですね。恵果和尚は、日本からきて1年も満たない空海に最初のいんぜん(法を継ぐものの認定書)を渡していますし、鑑真和尚においては、ぜひとも東の国、日本にいって再誕の仏陀にあいたかったのでしょう。まだ早すぎましたがね。結果は、中国の仏教はすたれ、日本に残ったというべきでしょうか。
仏陀と神と人間の関係ですか。霊界の話だから難しいよね。
根本仏の下に神々の霊がおり、神々の霊の下に数百億の人霊がいるのが霊界の構造です。その霊界から地上に生まれているのが人間です。だからみんな人間としての経験はあるのですね。根本仏が人間として生まれてその使命を悟った時、仏陀と呼ばれるのですね。根本仏のすぐ下の神々を救世主といいますね。神々には個性がありますね。神々が一杯いるといったら宗教にならないので私のみが神とみんないいます。そのようだから神々なんです。仏陀は全てを知っているのでそんなこといいませんよね。だから神々の長なんですね。ということで信じられるかどうかになっちゃうね。
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この回答へのお礼

またまた回答ありがとうございます!聖徳太子が仏教を選んだという他にもそんな理由があったんですね!
仏陀と神と人間の話は答えを出すのがとても難しそうですね(^^;
深いです・・・

お礼日時:2005/01/24 02:29

大乗仏教の基本的な教義から。



迷いの六道

地獄 餓鬼 阿修羅 畜生 人 天

悟りを開かぬものはこの迷いの六道で輪廻転生を繰り返し、苦しみ続ける。神々の世界「天」もまた、迷いの六道の一つ。超越的な長い寿命を誇りますが、晩年にはいわゆる「天人五衰」を示し、死すべき運命です。

そして、輪廻を断ち切った悟りへの道が、

声聞 縁覚 菩薩 仏

これをあわせて十界といいます。
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この回答へのお礼

これは先程の質問とどのような関係があるんですか!?
難しいですね。。(^^;

お礼日時:2005/01/24 02:26

 なぜ聖徳太子が仏教に目をつけたか?


 当時の日本の文化程度を考えてみてください。
 土着の豪族があっちで威張り、こっちではびこると
 いった具合で、
  民衆はそのはざまで苦しめられるばかりでした。
 宗教の状況はというと、古来伝わる土着の神への
 信仰があるだけ。
 豪族の専横を抑え、国民に善政を施すべき天皇家も
 ほとんど名ばかり。
 何の力もありません。
 そんな日本に対し、中国では1000年も昔に
 理想的な政治のあり方をめぐって諸子百家と言われるぐらいの
 思想が開花し、文化的、技術的、経済的にも大変な先進国でした。
 さらに遠くインドでは、同じく1000年前ごろ
 アショカ、カニシカといった名君が輩出し、
 人心の安定、民生の向上のために尽力しています。
  聖徳太子は日本をこうした理想的な国家とするために
 若い頃から思索、探求を重ねますが、
 そのために土着の宗教的指導者に答をあおごうとしても
 先ほど言ったようにせいぜいが土着の
 霊媒者の集団であるため、
 何の答も得られません。
 そこに政治経済、人間の存在理由に至るまで
 あらゆる問いに明快に答を
 与えてくれたものが当時の日本では超先進国の中国で
 盛んだった仏教でした。
 (実際に聖徳太子にそのヒントを与えたのが
 誰かは私には分かりません。
 高向玄理あたりだとは思いますが、この辺の歴史に
 詳しい方に確認してみてください)
 そこで聖徳太子は仏教を熱心に探求し、ついには
 自ら経典を講義するほどの大学者となるのです。
 
 なぜヒンドゥ教(バラモン教)ではないのか?
  ひとつの宗教というのは、その教えの本質が永遠に
 色あせずに伝わるというものではありません。
 ピークがあれば必ず衰退が始まるのです。
 したがって人に影響を与えるのはその後継者しだい。
 当時の日本(その手前の中国)で最高水準の普遍性を
 もって真理を語れたのが仏教であったということです。
  (現に、釈迦生誕の地のインドでは当時すでに仏教の
 衰退が始まっており、ヒンドゥ教(バラモン教)への
 回帰が始まっていたもののようです。)

 仏教と神の関係。
 前回のQで答えましたが、仏教は(人格を持った)根本存在としての神を
 立てません。 
 より詳しくと望まれるなら、すみませんが別Qを立てていただけませんか。
 (これは相当に議論が紛糾する部分ですので)
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この回答へのお礼

仏教が選ばれた理由はやっぱりそのあたりにあるんですね。。。仏教においての神はやっぱりいろいろな議論があるんですか(^^;
難しい学問なんですねぇ
回答とてもわかりやすかったです!ありがとうございました!

お礼日時:2005/01/24 02:25

こんにちは。


百科事典ではこんな感じですね。
もう少し詳しく知りたいのでしたら、
専門書を見ることをおすすめします。

【仏教 ぶっきょう】
紀元前5世紀ころインドに出たシャーキャムニ,すなわち釈梼(しやか)によって創唱された教えで,キリスト教,イスラムと並ぶ世界三大宗教の一つ。--中略--

 また,釈梼は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題(たとえば世界の有限・無限とか,創造因とか)については質問されても解答せず(無記),判断を中止している。この点,釈梼は実務的で,自らの立場を病いに応じて薬を施す医者にたとえている。すなわち,苦悩を観察し,その由来するところをつきとめて,これを断つべく,その方法を教えるのがその任務であるとする。これは,(1)苦,(2)苦を集めるもの(原因),(3)苦の滅,(4)苦の滅に至る道という四つの項目(四諦(したい))にまとめられ,仏教の基本とされる。
 この知的・合理的方法の行き着くところ,仏教では真理を悟ることに直接の目標が移行し,悟りの完成者たるブッダ(仏陀,仏,覚者)がその理想像となった。同時に真理こそ永遠不変の絶対的価値で,釈梼はただそれを発見し,人々にそれに至る道を教えた仲介者にすぎない。--中略--
執筆:高崎 直道

【日本】
[仏教の渡来と飛鳥の仏教]  仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに6世紀の初めに信奉されていたと考えられるが,公式の伝来は百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときとされる。この仏教公伝の年について538年説と552年説があるが,今日では《上宮(じようぐう)聖徳法王帝説》や《元興(がんごう)寺伽藍流記資財帳》により前者の538年(宣化3)を公伝の年と考える学者が多い。公伝当初,蘇我稲目(いなめ)は崇仏を,物部尾輿(もののべのおこし)は排仏を,天皇は中立の立場をとったといわれるが,仏教はいくたびかの迫害をうけながらも,蘇我氏を中心に渡来系氏族が多く居住していた飛鳥の地に最初に根づいた。そして,587年(用明2)の排仏派の物部守屋(もりや)滅亡を契機に,用明朝つづく摂政聖徳太子の推古朝に,仏法興隆の道がひらけた。この時期の仏教の中心は飛鳥と斑鳩(いかるが)だった。飛鳥では6世紀末,蘇我馬子が百済系の技術を取り入れて日本最古の伽藍とされる法興寺(飛鳥寺)を建立し,そののち当寺はこの地域の仏教の中心として栄えた。蘇我氏とともに仏教興隆に尽くした聖徳太子の事績も大きい。太子は仏教に深く帰依し,法華・勝鬘(しようまん)・維摩(ゆいま)の三経の注釈書,いわゆる《三経義疏(ぎしよ)》を著した。594年(推古2)有名な三宝興隆の詔が出され,これを契機に臣(おみ)・連(むらじ)などの豪族が競って寺を建て,またその第2条に〈篤(あつ)く三宝を敬え〉の有名な文言がある十七条憲法は今日偽斤説が主張されるが,それでも太子の政治思想が,仏教を根幹に置いて,その普遍的な教理思想のなかで国家統一を志向したことは確かであろう。太子は605年(推古13)斑鳩に移り,この地が飛鳥とならんで当代仏教の中心となった。斑鳩には前後三つの法隆寺が存在したと考えられる。在地豪族の膳(かしわで)氏が建立した第1次の寺,太子が建てた第2次の若草伽藍,そしてその再建の第3次の寺である。こうして推古朝期,中央豪族の私寺建立が多くなった。
--以下略--
執筆:藤井 学

出典:平凡社世界大百科事典第二版
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます!仏教の教科書では少ししか触れられてなかったんですがこんなに深い事情があったんですね!参考にさせてもらいます!

お礼日時:2005/01/24 02:21

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