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よく数学や理科については「社会に出ても使わない」とか「勉強しなきゃいけない意味がわからん」とかという話を聞きますよね。
でも、私がいちばん疑問だったのは国語の授業、特に現代文でした。小説を朗読して、登場人物の心理の変化をまとめる。作者でもない国語の教師が主人公の心情について説明し、正解を決める。評論文を段落分けして(これにも正解がある)、指示語の指す内容を答えさせる……。こんなことして何の役に立つんだろうって思いながら授業を受けていました。
大学入試対策以外で高校の国語の授業は何かの役に立つのでしょうか?

A 回答 (8件)

はじめまして。


非常に根本的な疑問と存じます。私も若い時にそんなことを感じたこともありますので、暇つぶしに読んで下さい。
 将来、どのような職業につかれるといたしましても、達意で論理的な文章を一定程度読み書きできなければ、さらに言えば、喋れなければ、信用されにくいというのが今の実感です。
 私は、非常に高学歴な人々がいる職場にいます。私はたいしたことはないのですが、その人たちの文章を見ていて、内容は大変高度なのですが、国語の素養というか、初歩的なテニヲハすらできていない文章を読むと、その内容すら、吟味することに躊躇いを感じます。
 従って、国語の授業は、大学で、法律をするにしても、経済をするにしても、何をするにしても、基礎の基礎と思われたら如何でしょう。
 只、小説の主人公の心情の変化等については、正解はないので、私は「こう感じる。思う。」ということさえ、しっかり持って、それを表現・発表できるようになれれば結構かと存じます。
 大きな大人でも、一つの小説について、何年か後に読み返しては、自分の解釈が変化するのを感じておられる人も多いのです。
 只、そうしたことが、良い・悪いは別にして、他人を思いやる、人の気持ちを察する能力と深いところで繋がっていると思います。
 文学者や国語学者になるのでなければ、突き詰めて考える必要はないでしょう。それより、ひとつでも、共感できる作家や小説にめぐり合えば、国語など参考書なしで得意になっていくものなのですが…。
 ご健等を祈ります。
 
 
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この回答へのお礼

ていねいな回答ありがとうございます。
たしかに普段から普通に本を読んでいれば国語の力なんて自然につきますよね。私の場合、読書をする以上のものを国語の授業で身につけられたな、という実感がまったくないのでこのような質問をしてみました。
いま考えてみれば、
>私は「こう感じる。思う。」ということさえ、しっかり持って、それを表現・発表できるように
これは教室でなければできませんね。ひとりで読書しているだけでは。もちろん私はそのような授業は受けられませんでしたが。

お礼日時:2005/02/07 21:00

再び#1です。



ysk26さんと回答者の皆さんとのやりとりを見る限り、国語教育の成果は十分発揮されていますよ。詰め込んだそれぞれのテスト問題はつまらない、苦痛なものであったかもしれませんが、そのことにより「ことば」でコミュニケーションをとる上での手続き(コンピュータ用語ではプロトコル、なんて言ってますね)が身に付いているのですから、(嫌われ役のセンセイには申し訳ないですが)それはそれで立派な教育だったのでは?

この回答への補足

実はこんな私が何の因果か高校国語教育に多少関係のある仕事をすることになってしまい、もう一生縁がないだろうと思っていた国語の授業の意義について改めて考え直したいと思い、質問させていただきました。
全員に「良回答」をあげたいくらい、とても参考になりました。回答いただいた皆さんに、失礼ながらこの場を借りてまとめてお礼申し上げます。ありがとうございました。

補足日時:2005/02/09 20:48
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
そう言っていただけるだけの力が身についているかどうか自分ではわかりませんが、ついていればうれしいですね。

お礼日時:2005/02/09 20:45

国語は役にたつと思いますよ。

学校でならってるのは
数ある評論や小説の中で選ばれたものです。そこにでてくる思想だとか心理描写は日本人として最低限知っておいたほうがいいのだと思います。将来仕事にでて文章に触れないことはないでしょうし、国語ができると理解力がまるでちがいますよ。ゲームや映画、小説おおよそ言葉にかかわること全般をより深く味わえるのではないでしょうか。
私も現代文の先生は好きじゃなかったです。毎年同じ教科書の内容を教えてるんですよ。正解なんて知ってて当たり前だし。愚痴になってしまいました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
全面的に教師のせいにするつもりはもちろんありませんが、国語にかぎらず、先生の影響ってとても大きいですよね。先生が好きだとその教科まで好きになったりして。
私も、もし先生が違えばひょっとして今ごろバリバリ文学の勉強でもしてたりして…やっぱり先生のせいにしてますね…。

お礼日時:2005/02/07 22:48

やったら頭が良くなるからです。


学問は役に立たないと切り捨てた結果、馬鹿が増えてしまいました。
社会がどうのという前に、その人自身を鍛えるために学問があり、その中の一つとして現代文があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
やはり私の受けた授業が特殊だったのでしょうか。何ひとつ身についた実感がありません…。

お礼日時:2005/02/07 22:44

 『国語』という教科には大きく二つの面があると思うのです。

一つは、#2さんが「初歩的なテニヲハすらできていない文章」をお嘆きになっているような、日本語を学ぶという面。もうひとつは今までの回答者さんがそれぞれに取り上げていらっしゃる文章読解の面です。(もちろん、相互に関連していて、特に前者の能力は後者に大きく影響し、はっきり二分出来るものではありませんが。)
 余談になりますが、私はそういう意味で、ここのサイトのカテゴリの『国語』と『文学』との分け方に疑問を感じています。『国語』を『日本語』とすべきではないかと考えているのです。(お上の御政道をとやかく言うのはよくないかな?)
 私は、日本語教育の面においても、また、文章読解においては、#3さんが最後におっしゃっているような点で、国語教育は「役に立つ」と思います。
 問題は、文章読解において、どれだけの客観性を求められるか、といういことだと思います。もちろん、この客観性のあり方は、記録や評論のたぐいと文学作品とでは異なってくると思います。以下、この客観性について述べてみたいと思います。

 まず、極端な例から言いますと、パソコンの操作マニュアルの文章。記録や評論のたぐいの方に近い文章だと思います。
 この種の文章は、きちんと書かれたものなら、所定の操作は一通りで、解釈の揺れはないはずです。
 次に、記録や評論のたぐい、ここにはまず、書き手の思想や価値観という、とらえ方があいまいなものが入り込みます。
 書き手側の問題に加えて、題材が、自然科学の対象ならまだしも、人文科学の対象である場合には、さらにあいまいさが増加するでしょう。
 第三に、文学作品。これが一番あいまいさを内包しているといえるでしょう。「国語科不要論」も文学作品の読解に端を発するのではないでしょうか。
 しかし、私は文学作品を「できる限り客観的に」読むことは可能だと思っています。

 と、書き連ねてみましたが、上の「まず、極端な」から始まり「しかし、私は」までの六つの段落を大きく三つに分ける「段落分け」の作業には「正解」が存在しませんか。

 もう一つ例を挙げてみましょう。この「教えて/OKweb」には「評価」という制度があります。そして、「良回答」が自分の回答につくことを好ましくないと思う人は、まず、いないと思います。しかし、「良回答」を付けられて腹が立つ場合だってあるはずです。後で誤った内容であることに気付いた回答に、皮肉混じりに「良回答」を付けられた場合。他の回答には丁寧なお礼が書いてあるのに、自分の回答には一字のお礼もなく、「良回答」だけが付けてある場合、等々。そういう特殊な事情が文章に書き込まれていないのに、「主人公は、『良回答』を付けられて、腹が立った。」という選択肢を正解にするのは無茶な話です。しかし、文章のどこかに書かれてあるその特殊条件に気付くことを前提に、先の選択肢を正解にすることは、妥当なことではないでしょうか。

 毛利小五郎や目暮警部が見落とした、わずかな手がかりに気付いた名探偵コナンが真犯人に迫るように、文章にちりばめられた手がかりを拾い集め、筆者の書こうとしたことに迫ろうとするのは私は不毛な作業だとは思いません。この作業こそ、人の心を知る作業だと思うからです。 

 確かに、入試問題などを解いていて、「これはないだろう」という出題に出くわすことも時にあります。しかし、一部の不祥事を起こした職員の存在を理由に、その組織に属する全職員を問題視するようなとらえ方を私は好みません。(この例は適切さを欠きますね。現実には、その組織の体質こそが問題なのですから。)

 また、国語の問題作成者の立場に立つと、「次の文章を読んで」の「次の文章」を選定する際に、客観性が得られないために採用できない文章がどれほどあるか、ということも想像してみてほしいと思います。(それだけしっかりした書き手が少ないということでもありますが。)
 一枚の問題用紙の裏側には、捨てられた本、捨てられたページが死屍累々として横たわっているのです。
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この回答へのお礼

非常にていねいにお答えいただき、ありがとうございました。段落分けの宿題の答えを一生懸命考えていたというわけではありませんが、お礼が遅くなり失礼しました。

日本語教育としての国語教育という面、これはよくわかりますし、どうしても必要だと私も思います。ただし高校の授業になるとこちらの比重は軽くなってくるように思います。

私が疑問に思っていたのは、文章読解の面のほうです。私がどちらかというと理系だからかもしれませんが、(文章読解指導という面においての)国語という教科はいまいちシステマチックでもなければ「そうだったのか!」という発見も特にない退屈な教科だったような気がしています。たまたま教科書に載っている、ある小説なり評論なりの内容はとりあえず読解しても、それはそれで終わり。ほかの文章の読解にも応用できるような公式やテクニックなどがあるわけでもありません(べつにそんなものを求めているわけではありませんが)。そもそも文章読解力なんて、普通の読書生活を送っていれば教科書に載っている程度の文章なら困らないはずだともいえますよね。そんな傲慢ともいえる認識を覆すような収穫、たとえば数学でいえば、無味乾燥だと思っていた三角関数や微積分や複素数の概念で、実は高速道路の渋滞予測から楽器の腕前の上達度合いまで説明できるんだ! この授業を受けられてよかったな! というような感動・発見・刺激が、国語化には乏しい、というか、正直申し上げてまったくなかったわけです。
そんなわけで、いまだに高校の現代文の授業に「自分で勝手に本を読むこと」以上の意義があるのかどうか疑問に思っている次第です。
もちろん人によると思いますから、「私はこんな感動を味わった」みたいな体験があればぜひお聞きしたいと思います。

お礼日時:2005/02/07 22:40

まずそもそも社会に出て「そのまま」つかえるような学科なんぞ高校の授業にはほとんどありません。


自分の中で何らかの消化がなされてはじめて実用されるものが高校や大学の多くの学問の特質なんじゃないでしょうか?
さて、文章を解析することはたしかにビジネスそのものに限っていえばやはり役にたたないでしょうね。
でも「人はパンのみによって生くるにあらず」なんで、たかが小説の登場人物の心情も理解できないとしたら(たいていは作者によって何らかの形で表現されている)めのまえにいる現実の人たちの心情なんてまるで理解できないんじゃないかな、と。
また世の中には人の言葉尻をつかまえて難癖をつけてくるような輩もいるわけで、さればこそ正確な言葉遣いというものが重要だとおもいます。
まあこういうと実用のためにもなる、という話ですが、そもそも本を読むときそこに書いてあることがちゃんと理解できないとこまるんじゃないでしょうか?
本なんか読まない人も増えてますけどね、本によってこそ人間の多くの文化と文明がひろげられてきた、と思うのですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>自分の中で何らかの消化がなされてはじめて実用される

たしかにそのとおりですね。消化のしかたがわかっていないのかもしれません。

ただ、私自身と私の周りの人たちのことを見ると、人の気持ちを正しく推し量るとか本に書いてあることを正しく理解するとかという能力と、高校で受けた現代文の授業の内容が何の関係もないように思えたものですから…。

お礼日時:2005/02/07 21:29

国語教育を専攻していた者です。


現場教育には携わっておりませんが、何か参考になればと思い書き込ませていただきます。

基本的に国語での作者の心情解釈は多くの問題をはらんでいます。
高校だけではなく、小学校から連綿と続いている問題です。
基本的に小説や作品といったものは人それぞれの読み方があります。
解釈も人それぞれです。
それを画一化するのはいかがなものか?というものです。

大学の、将来国語の教員を目指す学生たちの間でもずいぶん討論されてきています。
ひとつの作品のひとつの言葉の解釈ですら、何時間もかけて話し合うことがありました。
大学の教授間でも論争になっているようです。
国語科不要論というものも出てきています。

ただひとついえるのは、自分の解釈以外の読み方を知ることで、他人の心を推測する力が身につく、ということです。
読書が好きな人は、日ごろの読書から学ぶことができるかもしれませんが、嫌いな人にとってはなかなか学ぶ機会の持てないものです。
人間の心がむき出しになった小説(高校現代文では人間の心を扱った作品が多いです)に触れることで、人の心のあり方を学ぶ、というより「感じる」ことができます。
難しい評論を解読することで、社会に出た際に多くの人がどこかで触れるであろう専門的な文章を読む基礎的な力を得ることができます。

相手の主義・主張・気持ちをどこまで感じることができるか、のトレーニングが現代文だと考えれば、それは社会生活にとってじゅうぶん有意義ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ていねいな回答ありがとうございました。
解釈を画一化するのは誰が考えてもおかしいですよね。私には国語科不要論まで主張する勇気はありませんが、そんな考え方まで存在するということは参考になりました。
ところで、他人の気持ちを感じる、というのは国語科でトレーニングすることでしょうか? まったくそうでないとは思いませんが、本なんかまったく読まないような人でも、普通に恋愛をしたり、友達と喧嘩したり相談に乗ったりしていた友人がたくさん思い浮かびますが。
評論について言えば、たとえば小林秀雄の「無常ということ」ってありましたよね。あれが論理的な文章であるとは私にはとうてい思えませんが、授業で何時間もかけてこまかく読解してもなお意味がわからないようなこういう文章を読まなければいけない意味が、私にはどうしてもわかりません。

お礼日時:2005/02/07 21:22

作者しか本が読めないとしたら、味気ない世の中ですよね?



「現代国語」で解答が一つしかないシステムは間違っていると思いますが、仮説を立て、推し量る作業は決して無駄ではないはずです。そうすることによってしか、他人を理解する(しようとする)ことはできませんから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私の受けた授業は「仮説を立て、推し量る」ような高度なものではなく、教師の指導書に書かれている“正解”を推し量るようなものだったので、疑問に思っていました。たしかに本来はそういうものじゃありませんよね。

お礼日時:2005/02/07 20:52

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