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「人の愛」は隠されていると思います。
もしそれが顕在的だったら、世の中はもっとよくなっているでしょう。勿論「浄土」とはいいません。ここは現世ですから。

でもこのドライで、個人的社会的利益ばかり問われ、道を歩くのでさえスピードを求められ、民主主義(多数決主義)で皆多かれ少なかれもっているはずの「愛」は隠されていると感じます。

恋人同士「愛」を感じても、それが永遠の、真実の「愛」となるわけではない。本当の「愛」とは弱いものへの配慮?人類愛?それとも幻?いえ、形を問うているのではありません。なぜ皆隠そうとするのでしょうか?皮相的には文学、歌、芸術、密接な関係等では体現できるのに、リアルに「愛」をうたうと、人によってはピエロになったり、殉死しなければならないのでしょうか?

それを発掘するツールのようなものは、いかにして持てばよいのだろうか?真実を見る目を養うには、どのようにしたらよいか?同じ価値観を共有する人に出会うにはどこに行けばよいのか?

…と、いつものように悩んでいます。宜しくお願いいたします。

A 回答 (19件中1~10件)

frauさん、関東平野部でも真っ白になって雪が舞ってる中からこんにちは!No.7のvagabond_0710です。


お礼いただき有難うございます。こちらこそ、いろんなところでfrauさんの幅広い知識のご解答で勉強させていただいております。というのも、実はよくご一緒させていただいております。そこで僕もfrauさんといろんなことで深く、そして熱く語り合ってみたいです。「エロスやタナトス」のことや、「孤独や愛」について、「人生や感性」について、「虚無感」に包まれた日本についてなど論点は多くあります。それにしても芸術家?または心理学者?興味深いです。
また失礼ですが、回答が毎回長い辺りが僕とそっくりです。(笑)それに回答内容を読んでいて、偏らないスタンスの考え方を持っていらっしゃって個人的に魅力感じるし、ほんと"熱く"語りたいです。今度お会いしませんか?(笑)frauさんの恋愛や人生経験についても詳しく知りたいし、ほんと語りたいです。

もし、僕の恋愛に関する意見にご興味を抱かれたのであれば、是非過去ログに何か出会いがあるかもしれません。
質問:迷っています
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1202707)No.4が僕です。
質問:男性に聞きます、いい女の条件て何ですか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1201029)No.8が僕の意見です。
質問:惰性の友達付き合い
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1190214)No.3が僕になります。
質問:恋愛に告白は必須ですか
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1175200)No.5が僕です。
質問:なかなか結婚できず、ずるずるとつきあっています
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1149511)No.2が僕です。
質問:大切さの由来??
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1141525)No.10が僕です。
質問:「私」って誰なのでしょうか
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1123985)No.28が僕の意見です。

>今は恋愛お休み中ですから
僕も同じです。金なしのヒッキーですから。(笑)

>やはり「殉死」は素敵なことだと思う
「殉死」じゃないかもしれないけど、僕はあのとき死んだ感じです。それまで築き上げてきた自分の価値観が全て崩れて、今まで信じていたのが前面拒否をしました。徹底的な自己否定。まさに絶望と混沌で意味不明でした。そのことを乗り越えてからは、脱皮した感じでスッキリなんです。もちろん問題や悩みは日々襲ってきますが、それをひとつずつ乗り越えていき、時とともにより、透明になっていく感じです。新しい価値観を得るまで彷徨としました。とにかく今まで固定観念を持っていて、自分で縛り付けていたなぁと思います。枠の中であくせくしてても、枠の外に出なきゃ意味がないというか…。話がどんどんズレていくので戻しますが、「殉死」。僕は自分を殺した。つまり自分で自分を決め付けたり、縛り付けていた自分の背中を蹴飛ばしたんです。20年以上つきあっていた自分は手強かったです。(笑)でも、なんでそうなったのかはよくわかりません。なんでよりによって、就活で人生を左右するような時に、人に恋をしたんだろう?そして、自分の魂が導くままに生きようと決意して内定を蹴った僕はどうするんだろう?

No.16の回答のアースウォーカーのホームページ見ました。凄いですね!やっぱいるんですね、行動している人。理屈じゃないからこそ、感動ですよね。


>何故(Why)苦しまなければならないのか
と他の質問で見てこのサイトを見つけました。よかったらご覧下さい。心理学のサイトです。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/iyasi/1999/naze. …

>愛について
ただ僕が思う真理というか愛というものは、恋愛に限らないのでは?と最近思います。恋はたまたまそれが契機になっただけであって、本当になんでもいい。フとしたきっかけが出会いとなり、奈落の底に落とされる経験になって、そこでは今まで見てなかった現実を体験するのではと思うのです。それを乗り越えたときは、なんともいえない興奮と落ち着き、そしてひとつの真実。例えば、自と他の間にボーダーラインを引いていた常識に気づき、それを超えるのではないでしょうか。ただ、生きている。息を深く吸えば体内に酸素が満たされ、外を見れば雲が流れ、鳥がとまっている。それだけです。無償の喜び。そして自分の道を一歩づつ前進していくのではないでしょうか。とでも書けば、悟りをひらいたみたいですが、しかし問題も悩みも次々にやってきます。(笑)もちろんウソではありません。フリーターのたわごとです。
愛を発掘するすべは、やはり気づくというか感じるものだと思います。知るものではないし、感じる。それも自分の魂で。求めるものでもなく、与えられるものでもない。ありのままの真実を受け入れる状態だと思います。激しく興奮し陶酔してても、自分を宇宙から眺めているような余裕・遊びがある。時間も己も忘れ、何か透明な感じなときってありませんか?生と死が激しくぶつかり合い、そのエネルギーを内に包み込み、平気で乗り越えている状態というか。
何かの宗教で、自分の運命は全部自分が選んでいて、神様が試練として与えているというような思想がありませんか?確かにそんな感じもします。絶対観というか、偶然も必然も同じ心情の裏と表にすぎないし。つまり、他人と比べる相対的価値観に振り回されず、しかしそれも内包して、平気で目の前の自分の試練をひとつづつ超えていくしかないと僕は思います。試練の小さい大きいに価値を僕は置きません。言葉って難しいですね。相手の知識や気分によって捉え方が変わるし。やっぱ、告白は直接彼女に気持ちを伝えるべきですね。(笑)言葉でなくてもいいから。

>相手は「運命の女」として扱われる
日本だと結婚する相手のことを言うようですが、僕が思う運命の人とは、自分の運命を変えるほど影響を与えた人だと思ってます。

この回答への補足

お礼が長くなってしまったのでここからお読みください(笑)。

再登場ありがとうございます。また、お褒め頂いて嬉しいです。

>芸術家?または心理学者?

とんでもないです。今通信制の大学の心理学徒ですが、まだひよっ子です。ただ「芸術家的」とは言われてきましたけれど、自分曰く「中途半端な芸術家」は生きるのが難儀です(笑)。

さて、また熱いメッセージで私もノッてきました。

>悟りをひらいたみたいですが

いえいえ、vagabond_0710さんは悟っているのではないでしょうか?「>奈落の底に落とされる経験」をしたのでしょう?そもそも悟りとは個人的感覚に尽きると思います。偉人賢人が古代より悟りについて語ってきましたが、悟りとは言葉では表せられない感覚によるのではないでしょうか。悟りとは何か?とは言葉によって語ることができますが、実際それを経験するとなると、経験した人しかわかりません。でもそれを言葉にする術を持たないのならば、体感に尽きますし、言葉にするのは不可能なのではないでしょうか。ですからそれに代わる「感覚」があるのだと思います。
巷にはそれに近づこうと麻薬を用いる人もいますが、これは疑似体験だと思います。実際、ランナーズハイなどのナチュラルハイで放出される脳内物質は麻薬物質の何百倍もの快楽物質が出るそうです。それは副作用などはありません。「疑似体験」によるエクスタシーはその罰として禁断症状があるのでしょう。つまり物質に溺れたゆえの天国と地獄でしょう。「低レベルの悟り」、いや「悟りごっこ」ですね。

古代より偉人賢人の方々は「悟り」について考えてきました。私たちは先祖からいただく遺伝子のリンクによって肉体を持ちえますが、同時にそのような理性や意思の力、それへの思想も遺伝子の中に組み込まれてきたのだと思います。つまるところ、神にしか真実はわかりませんが、たとえそれが疑似体験であろうと、その体感(透明感)は、あなたにとって私にとって真実なのです。ではそれを何と称したらよいのか??「悟り」というべきしか既存の言葉では見あたりません。それでよいのだと思います。変に恥じることもなし、謙虚になるものでもなし。人は生きることを問い続けずにいられないのですから、「生きる実感」を体感したことに感謝だけすればよいのだと思います。その感覚に主観的でいながらも、問い続けることの姿勢は謙虚でいる、それが神に通じる近道かと思います。

苦痛が快楽と表裏なように、苦痛による「落ちる感覚」は快楽の「落ちる感覚」と、動機は違うが「行くべきところ」は同じだと思うのです。快楽と苦痛の道は違えど、その果てで落ち合う道は一つである、つまり感じる体感、また得たもの(悟り)は同じものであると思うのです。表裏一体とは画威厳として分離しながらも行き着く先は同じこと、つまりその二項対立自体、ひとつ(one)だと思うのです。

私も「無色透明感」を大切に大切にしております。その感覚とは例えば荒涼とした大地に立っているけれど、何故か苦しくも寂しくもない、温かく同時に涼しいのです。孤独やフワフワとした幸福に飢えた毎日による虚無感は日々感じるけれど、「その瞬間」はとても満たされていると感じる。でもそれはずっと続くものではなく、それがまた来るまで待たなければならない…。あたしはマゾかもしれない(笑)。

さて、現実的に話を戻しまして、私は今結婚についても執着はありません。「紙切れ一枚」とは厭世的に言っているのではなしに本当のことだと思います。結婚だけではなく「愛」のために「しがらみ」は日常茶万事ではないですか。でも幸福を追求するとしがらみも付録としてくっついてくる。
理想の結婚的生活、というか生活の中の結婚、というか良きパートナー探しというのは、例えばおばあちゃんになって男性の茶飲み友達ができれば、毎日縁側でお茶してるような仲になる。ハタからみれば「何十年連れ添った夫婦」のように見えるでしょう。そうしたらしめたものです。「戸籍」というIDを作ればいい。もっとも行政によって戸籍が管理され始めてから結婚によるIDも、私にとっては益々地に堕ちたものになりましたけれどね。結婚のための結婚ではなく、自然に成立した「つがい」関係がいいですね。

補足日時:2005/03/08 03:43
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この回答へのお礼

巷では仕事をとるか、愛をとるかは恋愛にとっての課題のひとつになっていますね。「愛かプライド」かというテーマの名前がついています。さて、あなたは「愛というプライド」を選択したのですよね。あなた自身のひとつの力によって対象あっての愛は救われ同時にあなた自身の愛も、すべてのプライドも堕ちることなかった。それが素晴らしいと思います。このような結果とならしめるのはやはり「意思の力」によるのだと思うのです。私はどちらかというと人間嫌いなのですが、人間が最も人間らしくそれは皮肉ではなく純粋に感嘆するのはこのような力です。それは「理性」とも違うと思います。

ワーン、やっぱりまた長くなってしまいました(謝謝)。いい加減にしますね。ご紹介いただいた過去ログはこれからゆるりと読ませていただくことにして…。同志よ、とりあえずお礼まで!

お礼日時:2005/03/08 03:57

偽善と優しさのテーマについて、


優しさに溢れた細やかな回答を頂いたfrau様ですね。
kaiuと申します。

スレッドを立てておいて一度もこちらのカテゴリを
拝見した事がなかったものですから、
興味本位で覗いてみました。
おそらくfrau様はたくさんの事柄を言葉に置き換えられる
能力のある方だと感じておりますが、そんな方でも
標題について問われるのが少し不思議です。

目新しい事は書けませんが、それでも私なりに感じた事を
書かせて頂きますね。

愛とはまずとてもプライベートなものなので、
表には出ないものだと思います。
frau様は自身を信じ切れますか?
自身の優しさを信じ切れますか?
時が移り変わっても、自身の愛を信じ切れますか?
愛とは何?と問いかけ続ける者達にとって、
自身の愛を公言できるものでしょうか。
世に溢れている愛というものは、
私的な情熱であり、希望を謳っているに過ぎません。
リアルに愛を謳う人間がいたら、
私はそれはその人間の世界の中の愛の一端だと感じます。
ピエロに感じるとすれば、
自身の愛が万人のものと信じて疑わない、まさにピエロなのでしょう。

>それを発掘するツールのようなものは~
やはりご自身が「愛し続ける」事ではないでしょうか。
今居らっしゃる場所は、frau様ご自身が選ばれている場所だと
思います。動物は住処を選びます。今居られる場所が
間違いだと感じるならば、自意識などによって
ご自身を見誤っているのかも知れません。
また、その結果かも知れません。

以上のように感じました。
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この回答へのお礼

まずはお褒めいただき恐縮に存じます。

さて、「>愛とはまずとてもプライベートなものなので、表には出ないものだと思います」ということですが、巷ではやはり愛が溢れていると思います。例えばエンターテイメントの世界。歌の歌詞はほぼ99%愛について唄われています。万葉集から近代純文学もほぼ完全に愛を詠っています。たとえそれがレベル的には幼稚なものであっても、商売に用いられ低レベル下したものであっても、万人に受けいられず後世になって受け入れられるものであっても、「愛」は様々な形に変換されまたはろ過され、受け入れられ感動させ、影響を与えています。つまり原動力なのでしょう。純粋な愛を踏みにじる行為もそれは「自己愛」のためにでしょう。また自分を愛せない人は他人も愛せません。「愛」による「愛」のためのものはすべて、最も強烈かつ「プライベート」な領域から派生しているものだと思います。

…とそのような趣旨を前提に、しかしながらプライベートになると愛について堂々と語ることはどうして恥ずかしいと思うのだろう、また愛を語る人をヘンな人と見るのだろう、また現実的には利益や理性の方が優先されるのだろう、という疑問なのです。またおっしゃるように「>「自身を信じ切れますか?自身の優しさを信じ切れますか?」という問いについて思ったのですが、自分について不安定だからかもしれません。もし愛に満ち溢れた生活(人生)ならばこのような質問すらできなかったでしょう。生れ落ちたときから漠然と、そして鮮烈に感じていたたったひとつの疑問を誰かに訊きたかったのかもしれません。

>自身の愛を公言できるものでしょうか
そうですね、個人的にはリアルにはできないでしょう。
ただもし私が芸術家ならばそれをフィクションとして、また「言葉」によって変換しつつ表現することは可能かもしれません。しかし才能がないのでできないまでなのです(笑)。

>動物は住処を選びます
たしかに住処を知っていますよね。時に動物のように生きれたらと思います。おっしゃるように私は居場所をまだ確保していません。いつかどこかの地に根を下ろすときがくるのでしょうけれど、身も心も吹く風に吹かれるままです。とりあえず吹き飛ばされないようにするまでです(笑)。

抽象的なご質問でわかりにくかったと思います。でも参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/08 04:24

お早うございます!お久です。


例のあのスレッド御閉じになられて、御返事のなかで何やら御心配のおことばをいただきましたので言い訳かたがた・・・。
この哲カテに出没できなくなりそうなのは間違いないいんですが、ちょっと予定が狂ってしまいまして。思いがけず猶予期間ができたってことで・・・。
ほんで私が立腹しているというのは御安心ください。ちょっと悪乗りし過ぎでしたね。私はfrauさんと違って根が不まじめなんでしょう。最近空腹で怒りっぽくなってるのは多少ありますが。「らーめん」の質問なんか覗いたから余計ですわ、ずるずる~

さて、この御質問ですが私自身が聞きたかったことでもあるので、どんな答えがあるのだろうか、分かったら、こっそり流用させてもらうべ、うっしっしと遠巻きに見ておりました。
ですから、これは「回答」では絶対ありません。
個人的にはNo.11のかたの御意見が「オッサレ~」と思ったのですが。

>「愛」を発掘するツールは、「愛」ではないでしょうか。
>「愛の経済活動」を活性化させるには、「愛」の投資が不可欠なのではないでしょうか

そう信じたいです信じたかったです。
でも現実は・・・。
ここで言う現実とは「私個人の」現実です。所詮、人並みの人生じゃないので一般的な公式から外れてますから参考にはなりませんが・・・。

私は世界が全滅しても母が傍にいてくれさえしたら私も生きていけると思うほど母だけが、この世との絆でした。他の誰も信頼に値しなかったのです。母より大事に思うことができたのは一人だけです。あとは正直お遊びです。ところが私の母は私をこの世に送り出すに当たって、ある目的があったんですね。その目的を果たすためには、どんな手段も躊躇しなかったかも知れません。その目的とは、まあ一言で言ってしまえば私の父親と一緒になり家のなかの独裁者になることだったんですが・・・。うちは非常に人間関係とかが複雑で、そういった様々な障壁を乗り越えるために私という存在が必要だったんです。と言うと父にべた惚れのような印象でしょうが父に言わせると「いや、お母さんには俺の他に目的があったんだよ」って言うのです。本人は激怒して否定しただろうと思いますがバレバレなんですよ、「思い込んだら命がけ」って性格でしたから。

話せば長~くなるので、ものすごく端折ると要するに母が一番愛していたのは自分、その次は父、その次は叔母かな私かなってことで私にとっては自分よりも大事な存在だったんですが母にとっては私は、いいとこ3番目なんです。ひょっとしたら5番目?父親違いの姉なんか6番か7番かな。本人の自覚はなかったと思いますけど自分の内面を覗き込んだり反省するってことが金輪際できない人だったんで。

もちろん単純に娘としての私を3番目なりに愛してくれたとは思いますが、もし私が先に死んだりしても3ヶ月もしたらケロッとしてたろうな・・・という気がします。ホントですよ。なぜかと言うと有形無形にかかわらず自分の役に立たない(特に名誉の)者には冷淡でしたから。何度も言いますが本人は気づいていなかった、気づこうとしなかった。

母は私にとって独裁者であり暴君であり、そうあり続けるためには私の障害をも利用しました。(これも本人は認めないでしょうけど)死んだ後も、その地位を手離そうとしませんでした。そして或る日のこと、とうとう発覚してしまったんです。私が生を受けてから、こんにちまで、ずうっと裏切り続けていたのだということが。目の前にいたら引っぱたいてやりたい。そうしても本人は自分の非を認めなかったでしょうね。いまはもう泉下の人、何もかも終わってしまったのだから怒ることすら空しい。来世とやらがあるのなら私が今生で出会った人間ども、ただ一人も他人としてでも出会いたくはない。それだけ。

でもね、夢のなかでは私は相も変わらず臥せっている母を気遣ったり遠くへ歩いて行く母の背中を「お母さん、どこへ行くの待って待って」って追いすがったりするんです。ああ情けない、恋しい、憎い!憎い!

私の気持は誰とも共有できないから独りで泣き、独りで納得するしかありませんでした。どうやって納得したかって、こういうときこそ「輪廻」思想の出番ですね!ホントにうまいことできた思想だなあと思いました。

「愛」が欲しい。そりゃそうでしょうとも。自分が与えた分くらいは返ってほしい。でも、そうは問屋が降ろさない。「愛」以外の、どんなことでもそうじゃないでしょうか。「友情」とか「健康」とか「お金」とか・・・。
「価値観」にしてもそうです、同じ価値観の人と歩んで行けるなら、どんなにいいでしょう。でももし、かなえられるなら、そこがそれ、「停滞」かも知れない。他人と摩擦し合うのは、まあ当然だとしても親みたいな一等血の濃い相手でも、「一緒に地獄に落ちてもいい」と思えるほどの恋人でも摩擦し合って摩擦し合って血が吹き出さんばかり。そこがそれ、例のアレですがな、アレ。「二律背反」「二項対立」「反応せーよ」「変わっていけよ」ちゅうことじゃないでしょうか。
まあ摩擦が激しい人ほど「そこに留まっておるな!」という天命なのかも知れませんね。

いわゆる哲学ですとか人生論、は、まだオッチャンたちの好きな話題だとしても「愛とは」などと深刻に考えたりする人をピエロのごとくあしらう風潮が世間一般に見受けられるのは日常と言う川の中を流されている人々から見ると青臭いんですよ、きっと。ホラ、「考える葦」流れる水に飲み込まれまいと川辺に立ち尽くす青い葦。今にもポッキンと折れそうなのに「いやだ、流れてなんか行かない!」

>マザーテレサは自分が他人に必要とされなくなったらおしまいだって言ってました。

こうしたお話を聞いても私などは、うらやましいと思います。私は正直もういい。必要とされたくない。私を必要としたのは私を利用しようとした人ばかりだから。私を必要としない人なら安心するんです。

「情熱のない愛は愛ではない」
私の経験では
「愛のない情熱」だってある。

私は恥知らずのすれっからしですよ、frauさん。私は「愛」なるものに助けてもらったことがない。恐らく本当のそれを知らないかもしれない。だから「愛より金がいい」です。ロマンチストで女らしい貴方は、きっと眉を顰めておられるでしょうね。

私は3歳までの、きっかり一年半で天国から地獄かという境遇の変化がありました。人生最初の一年半は親の記憶ゼロ。でも可愛がってくれた御近所の人たちは大勢覚えている。
その一年半から後は怒涛のような親の記憶と共に暗黒時代の幕開け。frauさんは心理学を学んでいらっしゃいますから、もしかなうなら分析していただきたいものだと思うのですが「三つ子の魂何とやら」って言いますね。3歳までに天国と地獄を味わったものは、どんなことになるのでしょう?いまんとこトンデモナイことになっちゃってますが。

ほらまた長くなったでしょう?frauさんの御質問は避けて通るべきでしょうね。鬼門ですよ鬼門!(くっ苦笑)

その手に発掘ツールを、その目に真実を見抜く視力を得るまで「二律背反」し続けるのじゃ~、飛ゅう馬!じゃなかったfrauさん!(バックミュージック:巨人の星 関係ない!)

あ、それはそうと私は神様がホントにキライですよ~ん。
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「無償の愛」および「本物の出会い」について


 
 ポール・コールマンというイギリス人の小柄な老人がいます。
 アイスランド紛争の地で15年前に神の光を見たそうで、
 それ以来世界中を植林しながら歩いています。
 それに南アフリカで出会ったのが中渓君という30代前半の
 すがすがしい若者で、商社を辞めて一緒に歩いています。
 去年九州地方を歩いている時に出会いました。

 どちらも無欲恬淡、「100年後に木の下で遊んでいる子供達の
 笑顔を想像するだけで楽しい」と屈託なく語ります。
 
 宿を提供してくれる人に出会えばその行為に甘え、それが
 得られなければ神社などに野宿するそうです。
 彼らは「全ての存在をあらしめる」神の無償の愛や、絶対善など
 簡単に分かります。
 
 earthwalker で検索できます。地球日記に二人の旅の模様と
 プロフィールが紹介されています。
 
 その気になって探せば結構出会いはありますよ。
 求めよ、さらば与えられんです。

 
 
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この回答へのお礼

このようなお話を知ると感動、感激です。

世の中には啓蒙された人がいる。でもそれは奉り上げられていたり、簡単に会えなかったりする遠い存在です。でも市井の中にも神の代理人のような人はいるのですね。

欲という服を脱ぎ捨て、必要最低限なことを手にし、肉体が維持できる限りのものを口にし、時計を持たず生きていく。余計なものを削ぎ落とした生活にはそれ相応の魂の性質も反映するのではないでしょうか。

技術がない分、大変なこともあったでしょうけれど、私たちの最も古いルーツであった先祖たちは、私たちが今捨てようとしても容易には捨てられないもの、得られようと思っても得られないホントの贅沢をかつて得ていたかもしれませんね。

田舎では旅人に対してはオープンであると勝手に想像していましたが、某チャンネルの田舎で泊まり歩く番組を見ていると都会的だなあなんて思います。

「求めよ、さらば与えられん」。確かに。高次の「需要と供給」ですね。

参考になりました、ありがとうございました。地球日記、ぜひ見てみます。

お礼日時:2005/03/02 02:56

>「人の愛」は隠されていると思います。



人間はもともと愛を持っていないと思います。
だから愛は隠れているのではなく、人から人へと
広がっていくのではないでしょうか?

愛に触れ、愛を知る。

今の社会が愛のない荒んだ世界だとするならば
それは、愛を人に与える人が少ないのでしょう。
私の好きな映画に「ペイフォワード」というのがありますが、まさにこれが質問者が欲している方法なのでは
ないでしょうか?
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この回答へのお礼

映画「ペイフォワード」、私も見たことあります。

「世界に広げよう、幸福の輪!」ですね。メールなどない時代、私が小学生のころでしたが友人同士回したチェーンメールを思い出しましたがその幸福版ですよね。あんなふうに小さな親切が時と数を得てどんどん大きくなれば世界は幸福でしょうね。

方法でいえば…確かにこの映画のような技術も有効なのかもしれません。でももっと皆が皆、それを自発的に掘り起こせばよいのになあと思います。
愛に臆病になっている私です(笑)。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/02 02:44

こんばんわ、またお邪魔しますm(_ _)m


私なりに乱文で理屈っぽく説明させていただきたく、お付き合い下さい。


まず、私達の脳の中は「古い脳(感情脳)」と「新しい脳(知性脳)」があります。
古い脳(感情脳)だけの生物の代表選手がオオトカゲの「コモド・ドラゴン」です。
SEXして獲物捕って寝て縄張り争いして、またSEXして・・という生活をしています。

感情脳の主な仕事は「好きか嫌いか(渇望・嫌悪)」の決定です。
逆説的に、ここが壊れると、天敵をも恐れなくなってしまうんです。
生き残りのための好き嫌いの判断も出来なくなってしまうんです。
そして、この渇望・嫌悪の判断に基づいて知性的な役割を果たしているのが知性脳です。

ですから、端的に人間とは『大脳新皮質というヘルメットをかぶったコモド・ドラゴン』だと想います。

この極みが人類を何回も破滅させるほどの<道具>「核爆弾」ですよね。。。
これもヘルメットをかぶって、道具を扱えるようになったコモドドラゴンの為せるワザなんです。



これは仏教の三毒「貪(とん),瞋(じん)、痴(ち)」に、そのまま言い換えることが出来ます。
「貪(渇望)」「瞋(嫌悪)」・・感情脳の仕事
「痴(おろかさ)」・・・・・・・感情脳の奴隷になっている知性脳の仕事

そのほかにも、例えば「学識」という<道具>で縄張り争いもします。
「私の見解のほうがより正しい」という知性による縄張り闘争もするんです。
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/ronsou.htm
(私も反省しなければなりません。。。)

 >>人によってはピエロになったり、殉死しなければならないのでしょうか?
この理由も「知性>優しさ」の理由も、此処がヘルメットをかぶったコモドDの世界だからだと想います。
(ですから以前の投稿は撤回させてくださいm(_ _)m)


で、frauさんの言われる「愛」は、仏教の「慈悲」に近いと解釈します。
なぜならば、仏教では「愛するな」というからです。
ヘルメットをかぶったコモドDが愛するということは、大変怖いことだからです。
花を愛する人が、同時に雑草を抜く人でもあるからです。
ナチスドイツのコモドDだって、ドイツ人の血と尊厳という愛のために、
精神病患者や障害者への強制不妊手術、安楽死を行ったり、いろいろな諸行を為してきたんです。


で、この「慈悲の心」を掘り起こすツールは「気付くこと」だと想います。
具体的にヴィパッサナー瞑想です(以前もご紹介しましたね しつこくってすいません(_ _;)

何をするかというと「気付く」ということをします。

感情脳が嫌悪の判断をしたときに「あ、私は今、嫌悪している」と気付くことが出来るのは知性脳だけです。
「気付く」ということは、感情の奴隷にならずに自己認識を可能にすることであり、
自らを躾ける自浄能力でもありますので、人類の持つ最高の能力だと想います。
(個人の持つ「心」のレベル・メーターのような気もしますが・・)


気付くために必要なのは「平常心」です。
「平常心」なくては気付くことも出来ません。
感情の奴隷になって放逸に耽っていたんでは、気付くことも出来ないんです。
ですから、貪瞋痴に続く第四の能力ということも出来ると想います。
まさに「目覚めた人(ブッダ)」です。

この気付きの能力の開発は、平常心を養うことでもありますから、八正道でいうところの正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念も自然と実現できるようになって、さらには「智慧」「慈悲」というものも生まれてくるんです。(・・なんだ、そうです)




私達は「鏡」がなければ、一生、自分の顔も解らないような生き物です。
「鏡」は逆にしか写りませんから、VTR、写真がなければ、今だって、正面から自分の顔を見ることも出来ないんです。
ですから、過去の人類のほとんどは、自分の顔を知らずに生きて、死んでいっているんです。

ましてや、自分の成育歴から、自分に何かが起こって自分がどうなってしまっているのかは、絶対に解らないんです。

その【解らない自分】を「私」と名づけて、守ろうとか、幸せになりたいとか、私は治りたりと言っているんです。
【解らない自分】のために、ありとあらゆる行為が行われているんです。
だから、おかしくなるんです。

「私」に対する根本的な無知、本能的な無知をなくして、
正しく自己認識をする「気付き」こそが、真実を見極める眼を養う最高のツールであろうと想います。
(乱文&仏教バカですいません・・・m(_ _)m)

この回答への補足

(長くなってしまったので、ここにお礼をします)
お久しぶりです!
Syo-yaさん、また新たな見解をお持ちのようですね。でも原始的、圧倒的であるその「コモドD」の脳の上に3mmもの薄い大脳新皮質が多い被さってしまったせいで、これまでに世界は秩序を失ってしまったのですね。私自身も劣性ながら新しい脳を持っている生物としてたまに憂います。

おっしゃるように私の「愛」とは「仏様の愛」のことです。私は私自身のプライベートな「愛」の欠乏状態のために「愛」を望むのではなく、なんかもう、そういうの求めても仕方ない、つかもうとすると消えてしまう幻のようなので、求めるのは辞めました。なんというか…。「この私」も含め、というか包んでもらいながら、超越的、普遍的な「愛」を知りたいのです。男女間とか、親の愛とか、この世で最も大切なものだと謳われている「愛」とはしばし「しがらみ」ということと同義語だと思います。私もかつてはその「しがらみ」の中に四苦八苦しておりましたが、なんだかもういいやーって思えてきました。疲れたというよりも、たとえ掴んだところで離したくないという、これまた「しがらみ」ですね。それに囚われるのはもううんざりなんですね。

うーん…やはり出家するしかないかなと一瞬考えたりもしますが(笑)。しかし真面目にに考えて、「俗」の全てを知りもせずに「聖」も知ることはできないと思い直しました。いや、これは煩悩への飽くなき執着への言い訳かもしれず…。ですね。お釈迦様には叱られますね、きっと。そんな心持ちで出家しようなどとご大層なことではありますけれど。

「鏡」についてなのですが、ふたつ、みっつ思いついたことがあります。テレビで私の好きな三輪明宏さんが人生相談の回答をなさっていました。「鏡を見なさい。そこにはどんなことも乗り越えてきたあなたが映っている。それを見なさい」とおっしゃってました。三輪さんはなんというか、超越している方、この世とあの世の中間にいて、自由に行き来している方というあくまでも、イメージですが、そんな雰囲気がとても好きなんです。「性」を超越している方でもありますし。
またナルシズムの語源となった神話のナルキッソスは神の怒りに触れ、水面に映った自分の顔に一目ぼれさせられるという罰を与えられました。
また「他人は自分の鏡」とはよく言われることですよね。鏡に映る自分は本当の自分ではないかも知れず、ウラの顔が映っているかもしれません。またナルキッソスのように都合のよい自分しか映らないかもしれません。

「>【解らない自分】を「私」と名づけて…」。鏡には映らない自分ということですよね。人や世界の不完全さが未完成のパズルのようなものだとしたら、破片を捜し求める旅なのでしょうね、人生とは。その隙間を埋めるのは、他人のパズルの、補完された破片なのでしょうか。

「気づき」に至る道、というより問われる「姿勢」とは「無知の知」の姿勢なのかもしれません。つまり「謙虚さ」が知への一番の近道なのかと。己れに対してまず一歩下がって内部そして外部を観察すること。ナルシキッソスが与えられたその呪いとは、現代人が忘れている自己への近視的な距離感、そして同時に他者への遠距離感ともいえるかもしれませんね。

参考になりました。いつもありがとうございます。

PS.これからも賢い「仏教バカ」でいてください(笑)

補足日時:2005/03/08 02:16
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>「洗心する」こと、すなわち逆行するような形で、かつてまっさらな状態だったときにもちえていた「愛」という落し物を探しているのでしょうか。



「愛の心」はこの大宇宙を御創造された「大叡智者」から、
一個一個の生命体に分かち与えられた根本生命波動で、
それが僕達の本体の中心の心なのです。
ですから、元々あなたも、僕も、
「大叡智者」の一部で「愛」そのものなのです。
どこかに落としたのではなく、自分自身の中にあるのです。
古来よりそれを見つけるために
表面意識や潜在意識を浄化し無にするべく、
座禅や瞑想が行われてきたのでしょう。

この世もあの世も、
「大叡智者」から分離された無限数の自分達
(自分とは読んで字の如くみづからをわかつ)が、
相対的に「他者」として
大叡智者の部分である生命達を観察し、認識を得、
「自分」をより大きく成長させていく為の道場です。

この世もあの世も相対的認識の世界です。
この世は比較的固定化された「物質」の表出を観察して
認識を得る世界です。
あの世(霊界)は、その人(霊魂)の想った事が、
速効的に表出する「霊質」の変化を観察して認識を得る世界です。
僕達はこの世とあの世を往復して進化するように計らわれています。

さて、僕達は進化の段階において自由意志を与えられたものの、
経験不足で生命進化の方向(大調和・統合)と逆行する心と行動をとることが今までの常だったわけです。
すなわち、我欲を増強させ狭小な自己の分離・分割に
想念を使ってきたわけです。
ですから、これだけ汚れてきた訳です。

自ら進んで汚れを取るのが「洗心」であるわけです。

さもないと、強制的に進化の方向に向けられます。
この方法で汚れをとるのには痛みを伴います。
病気であり、事故であり、天災に巻き込まれたり、であるわけです。
偶然はありません。
これもまた、必要な体験ではあったわけです。

でも、もうあなたも僕も強制的な進化は、
卒業しなければならない時期にあるのであろうと思います。
ですから、「洗心」が重要なわけです。
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この回答へのお礼

前回「愛」とは落し物と申しましたが、生きていく過程で色々なしがらみやなにからで「忘れていく、でも決して無知になるのではない」との意味でした。

「大叡智者」とは特定のそして不特定の神であると思いますが、その方から一人一人手渡されているのですね。

普段「自分」と無意識に使っていますが、改めて字を遠視的に見つめますとなるほど、名前も哲学していますね(笑)。

あの世とこの世は合わせ鏡のようであり、でもまったく同じものが映る「反映」ではないのですね。

「自分」→「自己を分かつ」とはそもそも「ひとつ」であることの理想の極端にあるわけですが、それがもともとの人の宿命であり不幸の原点でもあるわけですよね。
その「自分」を「洗心」させないと「進化」つまり成長に向かうこととなる。偶然というのは存在しない、すべては必然であるという法則はここでも出会えました。

「洗心」で私も早く淘汰されたいです。

敬虔な気持ちで読ませていただきました。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/02 02:38

僕達の心を単純にモデル化すれば、たまねぎのようであります。


この世にいて、肉体を纏っている為、
その表面は多かれ少なかれ汚れています。
人は誰でも、
心の中心は美しい「愛」すなわち「まごころ」が核になっています。
心の表層付近の顕在意識や潜在意識は、
人それぞれに程度の差はあれ、幾度も人生経験を重ねてきた為、
「我」と「欲」で分厚くコーティングされてしまっています。
この表層を洗うこと(洗心する)、
即ち我欲を捨て去る方向へ努力することによってのみ、
ただ、これによってのみ、
少しずつその人の「愛」の心が発現し、
光輝を発することとなるようです。

ツールは我が心の強力なる意志力以外にありません。
洗心に対する強力な意志力が信念と化し、
理念が啓発され、真理に近づいていくそうです。
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この回答へのお礼

玉ねぎに喩えられたこと、とても参考になりました。
「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説がベストセラーになりました。私は原作を読んでも映画を見てもいないので、その「世界」とは何のことかわかりませんが、その「核」のところからの叫びなのかなあと漠然とですが思います。

人は純粋な魂で産まれ落ちてから生きていく過程で「垢」を身にまとっていきますが、それを「>洗心する」こと、すなわち逆行するような形で、かつてまっさらな状態だったときにもちえていた「愛」という落し物を探しているのでしょうか。

私も人間が素晴らしいことであるひとつの証として「意志」であるとつねづね思っています。「強い意志」がなければ、それ相応の「強い愛」もまた、発掘できないのでしょうね。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/24 03:47

「愛」を発掘するツールは、「愛」ではないでしょうか(照)



こんな言い回しを嫌う方もいて、語弊のあることを承知で言うのですが、進化論的に、他者を大切にし、親切にする心が発生して現存しているのは、それが生存に有益だったからでしょう。

比較するとこれまた叱られそうですが、貨幣を流通させるのに貨幣を用いるのと似たところがあると思います。「愛の経済活動」を活性化させるには、「愛」の投資が不可欠なのではないでしょうか(再照)

デフレスパイラルに入っちゃって、不景気なのでしょう。ここでタンス預金になって出し惜しみされているのが「愛」なんだとしたら、経済学的には「愛」の価値は上がってるという理屈が成り立つわけで、ピエロになるかも、殉死してしまうかも、と恐れながら発動された「愛」の威力・影響力は大きいと信じています。

「愛」が怒涛のように飛び交うインフレ状態(?)というのは、ちょっと鬱陶しいイメージもありますが(笑)、親切にするのが当然、それに対する感謝も当然、文字通り「愛の溢れる世の中」です。

ここで逆転現象が起きて、人の親切に仇で報いることが有利に働くようになってしまい(ゲーム理論参照)、裏切りの価値が上がります。

散文的になってしまいました。「愛のインフレ」も「愛のデフレ」も、振り子の両端の一番高いところであって、世の中はその間を振れているもの、そんな理解をしているのですが、いかがでしょうか。

コンビニで、見知らぬ人と同時にレジに並ぼうとして、「あ、どうぞ」「いいっすよ」と譲り合いになって、喩えようもなく満ち足りた気分になったりしてしまったのでした(*^^*)
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この回答へのお礼

照れてらっしゃいますが、とても素晴らしい言葉だと思います。でも「クサイ」「恥ずかしい」などの言葉で人は人の「愛の主張」を揶揄しますが、この風潮もおかしい。「愛」だけではなくて「人生」とか「夢」とか、抽象論になるとなぜ皆避けたがるのと思ってきました。皆それぞれ愛をもっているのになあ、ラブストーリーはヒットするのに。リアルに耳に入ると、なぜ聞いたその人が照れるのでしょうか?

経済に喩えられたこと、すごく面白い。あなたは詩人ですね。現代の小林一茶のようです。

確かに…お金と同様、不景気に例えられるように、そして本当にそれが現実に人の心に作用してしまうのならば、この「>デフレスパイラル」から離脱するための「投資」が今こそ必要になるべきときでしょう。

>インフレ状態
バブル時代のお金のように、愛もそこらへんに吐いて捨てられるような安っぽさになってしまえばそれも憂慮すべきことですよね。

あ、でもこんなように比喩はできても、愛はお金では決して買えませんが(笑)。

>散文的になってしまいました
いえいえ、申し上げたとおり、充分「詩的」です。

>譲り合い
街角で見られる小さな愛、ですね。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/24 04:02

確かにお互いがお互いを必要とし合っている.



まるで縁という網の様に.

そして時が満つる時

自性は自分の方から真我の経験と解脱のために自らを展開する.

ありがとうございました.


 
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この回答へのお礼

>時が満つる時

この「時」とは、向うから自然に来たる「時」のことなのか、人がすべきことを成し遂げた「時」なのか?

そのときこそ「自性(自我?)」はその扉を解脱のために開く「時」であるのでしょうか?

興味深いですね。詩的なご回答ですよね。ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/24 04:10

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