縄文人について
1.縄文人とは後のアイヌ(あるいは夷と呼び習わされる人たち)のことですか?
2.縄文人たちも氏族や部族のような共同体をつくっていたのではないですか? とすれば、これを国家と呼んではいけないのですか?
以上2点について教えて下さい。または、この辺のことが書かれている本を教えてください。
縄文人とは弥生時代に先立つ縄文の文化を担った人たちの総称です。縄文文化は北は北海道から南は九州まで、日本全国に広がっていましたから、縄文人も日本全国に暮していたわけです。
本州に弥生文化が広がったころ、稲作が不向きだった東北や北海道で、縄文文化を受け継いで成立したといわれるのが続縄文文化です。続縄文文化を担った人々の内、東北に暮した人々はその後、蝦夷などと呼ばれる様になりましたが、平安、鎌倉と時代が進むにつれて蝦夷とは呼ばれなくなります。
北海道に残った続縄文文化は、その後本州や大陸からの様々な文化を受け入れて、12世紀頃、今日まで続くアイヌ文化になったと考えられています。
このように縄文文化からアイヌ文化へは一定の流れがあり、縄文人の一部がアイヌ人へと繋がっていると考えることはできると思いますが、それは縄文人のごく一部にすぎません。
国家と呼ぶ場合、普通は支配組織と領域が明確な近代国家につい言いますが、近代以前についても国家という言葉を使わないわけではありません。ただ、近代以前での使用については明確な定義がなく、その点では縄文時代の共同体は国家とは定義し得ません。
ただ古代で国と言った場合でも、王などの支配者の存在が前提となると思いますので、集落共同体や氏族共同体を国家と呼ぶのは無理があると思います。
縄文人というより蝦夷、アイヌ関係の本ですが・・・
「蝦夷」高橋崇著、中公新書
「アイヌと日本」佐々木馨著、山川出版社
この回答へのお礼
ご回答、ありがとうございました。
参考にさせていただきますm(_ _)m
こんばんは。
顔の復元によると縄文人の顔は彫が深く、弥生人はのっぺりしているようですので、アイヌの人たちの顔立ちに近いかもしれません。
私は、先住民族である縄文人が渡来した弥生人に駆逐され、中央の支配が及ばない東北(夷=蝦夷)や九州の端(熊襲)に移動した(若しくは残った)と考えています。
青森の三内丸山遺跡はかなり規模の大きい縄文集落で、調査では長期間にわたって定住したことがわかっており、共同体として成立していたと思われます。
ただし、国家という定義を中央集権的なものとして捉えた場合、縄文人の国家があったかは疑問です。
時代が下って西暦789年から803年にかけて朝廷軍と戦ったアテルイ(阿弖流為)は蝦夷全体の長ではなく、蝦夷の族長連合の長だったことを考えると、部族の連合国家みたいなものはあったかもしれませんね。
本ですが、朝日選書の「縄文人の世界」なんかはいかがでしょう。
この回答へのお礼
アドバイス、ありがとうございました。
ご推薦の本、読んでみたいと思います。
こんにちは。
そのあたりは実は近年いろいろ発見があり見解が分かれています。
1.縄文と呼ばれる時代に集落や富の蓄積も見られる。
2.縄文と呼ばれる時代の遺跡から弥生式土器も出土している。
以上のことから土着の民族を「山の民」と呼び弥生式を持ち込んだ渡来系の民族と区別するやり方もあります。(戦に負け山に逃げたと考えられるから)
当然かぶっている時代もあれば、アイヌのように遠くへ逃げた人もいます。
ですから時代を分けること自体ナンセンスになってきているのですが今でも小学校では教え方は変えていないようです。
本は分かりません。済みませんm(_ _)m
この回答へのお礼
早速のアドバイス、ありがとうございます。
大変参考になりました。
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