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パウロII世っていうくらいですから、I世もいたんですよね?
じゃ~その前は誰ですか?
そもそもローマ法王っていつからある地位ですか?
それはどんな立場なのでしょうか?
マザーテレサみたいな存在?

まったく宗教に興味がなかったもので無知でございます。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

ここ数日の新聞には載ってますよ。

ちなみに1世は、即位後、33日で逝去しました。

法王というのは、カトリック教会の頂点に君臨する存在です。イエスキリストの使途、パウロから始まったのではなかったでしょうか。

私も詳しくはないのですが、キリスト教と呼ばれる(彼らが自らを呼ぶ名称は、イエスキリストの福音)宗教は、いくつもの分派を繰り返しました。比較的初期にはキリスト教という認識そのものがなかったでしょう。というよりイエスキリストそのものはユダヤ教のラビの一人という認識だったと思われます。もちろんユダヤ教からは異端者です。

その段階ですでにネストリウス派とかコプト教などの分派が生じます。確か二位一体の取り扱いによるものだったと記憶しています。キリスト教が宗教としての認識を得るようになるのはローマが国教化してからでしょう。したがってこのあたりでローマカトリック教会が形成されたのではないでしょうか。それ以前の法王の存在は果たして確かなものなのでしょうか。

その後、イスラムが分派しますね。あくまでもイスラムは、イサクの末の兄弟、イスマイルの子孫であるとされるムハンマッドが預言者という扱いですから、それから言うとキリスト教よりさかのぼるはずですけどね。

そしてローマ帝国の東西分裂により、東側は正教会の世界になります。西に残ったカトリックも、宗教改革によりプロテスタントの各派が分派します。イギリスは奥さんを新品に取り替えたい国王のおかげでカトリックから離れ、英国国教会が作られましたね。

このような流れの中で、常に主流としての立場を維持したのがローマカトリックだったわけです。先に述べたようにローマ帝国で国教となったために、西ローマ帝国滅亡後も西欧社会では、大きな権威と権力を手中に収めました。そもそもカトリックというのは、普遍という意味なのです。

この当時、まだ西欧には強力な王権は存在しませんでした。そしてそこにあるのは法王を頂点として、大司教、司教、神父などのピラミット型のヒエラルキーを持つローマカトリックだけだったのです。いわば国家のような力を保持していたのです。

西欧では810年にゴート帝国が成立し、統一がなされます。その後、二重権力の時代となり、さらに各王国が生じます。ドイツ三十年戦争によって1648年、画期的なウエストファリア条約により主権国家が発明されるまで、西欧は、法王と皇帝と国王や領主などの多重的権力社会だったのです。互いに自らが正当な統治者としての立場を争っていました。

その力バランスは時代によって異なり、時には法王が牢獄に収監されてしまうこともありました。カロッサの屈辱なんかがそれではなかったでしょうか。

主権国家が成立した後の絶対王朝時代も、精神的存在としての教会の権威は継続し、現在でも西欧を中心とするカトリック社会での地位はゆるぎないものとなっています。

確かに、世俗的権力からは、トマスアキュナス以降、だんだん離れ、主権国家の時代となり、最後には世界最小のバチカン市国の国家元首としての立場だけになりましたが、権威という点では、日本の天皇に近い存在かもしれません。

自信がないので、間違いが多いかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり、今の私の頭ではとても理解できない話でした。
せっかく一生懸命お答えしていただいたのに、本当に情けない話です。
もう少し、自分なりに勉強をしてからもう一度読み返してみたいと思います。

お礼日時:2005/04/11 12:11

ローマ法王として形をなしたのは中世期からイタリアでローマ周辺の法王領の君主としてでした。


それ以前の経緯はNo1のご回答のとうりです。
カトリック教の宗教界の最高位と同時に領土の君主を兼ねる存在でした。
従ってヨーロッパ全域から十字軍の召集、編成をする事も可能でしたが、周辺の国との領地争いも度々でした。
宗教革命以後次第に領主としては勢力を失い、宗教活動に重点を移してきたのが現在のバチカンです。

バチカンには銀行もあり莫大な資産も所有しています。 法王は宗教界の最高位でその下に枢機卿、大司祭、司祭などのピラミッド構造が形成されていて、法王の選出はコンクラーベという枢機卿からなる秘密投票会議で選ばれます。 コンクラーベは全会一致まで繰り返される決まりなので何日にもわたるものです。

法王は精神的なリーダーとして信者の敬愛の的であり、特に亡くなったパウロ2世はその信条、活動から慕われて居たものです。
その為宗派を越え、国境を越えて哀悼者が集まったのです。
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この回答へのお礼

ありがとございます。
好奇心で知るようなほど簡単なものではございませんね。
もう少し勉強してから、読み返してみたいと思います。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/04/11 12:13

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