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藤原氏は奈良で活躍し
平安京を制圧した貴族ですが
その祖中臣氏は茨城の鹿島がルーツとの説があります。

当時の鹿島は、蝦夷に対する大和政府の前線基地
だったことは地理的になんとなくわかるのですが
それでも、田舎ですよね。

なぜそんな土地で中臣氏は発祥したのでしょうか

A 回答 (4件)

蝦夷との国境線、鉄の産地、利根川などの水利、広大で肥沃な耕作地、


そういった意味で「茨城」の地は当時、大和政権にとっては地理的にみて、
非常に重要な拠点だったことは理解できますよね?
いつ「蝦夷」がこの地に襲ってくるかもわからないような場所ですから、
外交的にも平和と安全を維持しなければなりません。

一方中臣鎌足が誕生年は公言しても、発祥地や素性を公言していないのは、
なにか訳があると思いませんか?
立派な場所で生まれたのなら、これだけ有名な人なのですから、
産まれた時と場所は、ハッキリと記録しておくハズです。
そう考えると、発祥地を言いたくなかった理由があったのではないでしょうか。

ここからは私の推測です。

現代でも例えば、他国語を話すことができる日本人の方って、
ある意味、尊敬されますよね?
両親が別の国籍だったりして、環境的にも2カ国語が話せるような
生活を送ってきた。

中臣氏は、その「中臣」という言葉から推測すると、
天皇と家臣との中継役(勅命役)を担っていた、あるいは、
天皇と他の国との中継役(通訳)を担っていた。と言えます。

どうしたらそんな風な立場になれるでしょう?

仮に「中臣」氏が茨城地域で産まれたと仮定すると、
彼はその地域の安全保障政策上、蝦夷との政略結婚があり、
蝦夷と大和の混血として産まれてきて、蝦夷語と大和語の双方を学ぶことができ、
その後成長して、その才能(特技)と地の利を充分に発揮したのだと思います。

勅命を受けられる立場の人間が、他国との通訳ができるとなれば、
即戦力として役立つと考えるのが普通ですし、さらに当時、
青銅器が主流であったこの時代に、鉄製の武器で他を圧倒していた強固な
「鹿島」軍を引き連れていたら(でしょう)、天皇だって彼を重用はしても
敵に回すわけにはいけません。

大化改新の功績により、茨城県の北部である久慈川流域を領地として
認められた鎌足が、「中臣」氏を名乗る(賜る)ことができたのは、
彼はもともとこの辺りに住んでいて、その周りの地域を非公式に制圧していた。
それを大化改新の功によって、正式にこの地域を所有することを認められた。
そんな理由ではなかったのではないでしょうか?

sqi622さんも下記URLを読んで、いろいろ推測してみて下さい。

参考URL:http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/
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この回答へのお礼

拝復
有り難うございます。
やっぱりロマンですね、古代は。

あと
蘇我蝦夷というのは
なぜそんな名前をつけたのでしょうか?

蝦夷勢力をバックにつけていたからかな

お礼日時:2001/09/10 09:29

中臣鎌足の素性については全く別の考えですが、それは置いておくとして、蘇我蝦夷の名前の由来についてですが、



馬子にしろ蝦夷にしろ入鹿にしろ、時代を席巻した一族の名前にしてはあまりひどいと思うのですが、本名じゃないでしょうね。馬に蝦に鹿ってみんな人じゃないし。
本当は多分もっと立派なありがたそうな名前だったと思いますよ。
歴史の敗者の宿命でしょうか。

しょせん偽名ですから蛙でも蛆でも何でもよかったんじゃ…
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以下は、私の想像でしかありません。



蘇我氏についてわかっていること?は、祖先の名前に当時の朝鮮に由来する名前が多いことや、熱烈な仏教信者であったことを考えれば、当時でいえば「海外の人」ということでしょう。
あるいは、そういうイメージを誰かがつけたかったのかも知れません。

「蝦夷」「入鹿」という名は、「日本書紀」で正当者が勝手に?つけた後付け名である可能性が高く、「あだ名」という可能性が高いです。
「蘇我蝦夷」の本名は「豊浦大臣」とあります。
「蝦夷」=「毛人」、=「やたらと強い」、「山海経」では「怪人」、あるいはそれ以外では「恵美氏」とかありますね。
「蘇我蝦夷」は「朝鮮」の人たち以外に「蝦夷」の人たちとも積極的に交流を深めていたようです。
それ以外の書物に蘇我氏に関しての完全な資料はないのですが、外国人だからこそ、外国の人と積極的に交流したがったのでしょう。
当時にしてみれば、非常に斬新で画期的な行動だったと思いますから、保守的な反対勢力にしてみれば煙たいものです。

入鹿は、「大郎」あるいは「鞍作」という名前であり、「林大郎天皇」と名乗って天皇になったとも推測する人がいますが、その可能性もあると考えています。
そう考えれば、別の国の人がすごい武力を背景に、現政権とは全く別の社会を作ろうとするのは自然な流れでもあり、のちの人たちがそういった行動を否定したがるのもわかる気がします。

これだけ嫌われていたら、大化改新後、完全に蘇我氏が作った墓や建造物を壊してしまうのが普通ですが、けっこう国民に支持をされていたということもあってか、いっそのこと遷都してしまおうと考えたのでしょう。
書物だけ編纂しなおせば、安上がりですし、こじつけしやすいですからね。
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当時蘇我一族と中大兄一族という二大勢力が熾烈に日本王の座を争っていたのは間違いないでしょう。


そんな中突如として日本の歴史に登場した中臣鎌足は中大兄派についてクーデターを成功させるのですが、そんなことができるのは鎌足が外国の要人であったからではないかと思っています。
蘇我王権とは利害が対立し、中大兄王権とは利害が一致する某国の要人。「海外の人」は実は藤原氏の方ではなかったかと思います。
その後の歴史書は必死にそれを隠したでしょう。
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