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南九州の縄文時代について、今勉強しています。縄文土器は私達の生活に何をもたらしたのでしょうか?いろんなサイトを調べてみたんですけど、どれもいまいちで。。縄文土器のことや、縄文のことならなんでもいいので、ぜひ教えていただきたいと思います。縄文時代のトイレもどんなものだったのか、誰か知っていたら教えてください!!よろしくお願いいたします。。

A 回答 (4件)

神武天皇は九州出身です。



天孫降臨の地の高千穂も南と北に二つあります。

南九州はかつては現天皇の発祥の地でした。

縄文時代より黒潮などに乗り、四国、近畿、東海、関東を行き来した船の運航技術にたけた民族でした。

当然、日本国内はもとよりお隣の中国とも早くから交流がありました。

古代日本は結構な文明国だったのです。

卑弥呼の時代にも日本は帯姫(神功皇后)の国として有名でした。
帯方郡って聞いたことありませんか?
あれは帯夫婦のいる方角の郡と言う意味で公孫氏が名付けた郡なのです。

三韓征伐も本当の事です。
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 南九州の「縄文時代」の研究はまさに始まったばかりではないでしょうか。

現在までの縄文時代という「括り」が果たしてこれからも妥当であるかどうか、と発掘現場からの意欲ある発言が奥ゆかしく様々になされているように、
漠然と感じます。
 出土土器だけをもって時代を画然とするのではなく、その交流をこそ考えていこうと言う潮流があります。その基本は縄文時代といわれた時代の、南西諸島から南九州を経ての貝殻装飾品の伝播にあると私は思います。
 つまり、現在の段階で南九州独自の「文化」という前に、「縄文時代」とは誰が何のために名付けたかを再確認し、その「便宜上」使われている土器とは私たちにとっていったい全体どういうものなのかを考えることが、ひいては南九州の独自性へのアプローチへと至る道と考えるものです。
 見れば見るほど面白いのは落語や演劇だけではなく、訳が分らんほど色んな人があ~でもないこ~でもないと真面目に論文を書く考古学です。
 ちょっとサイトでチョッとでは中々「縄文」は「一筋縄」ではいかないとじょおもうん、よね。
 いっぱい個性的な土器を見てドキドキするのが近道です。まずそっからね。
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 初めまして^^えっと、どれくらいの詳しさで書けばいいのか判りかねますが、(縄文時代∧南九州の範囲で)手持ちの本や覚えていること等を書かせて頂きますね。

(大学で専門的に勉強してらっしゃるのなら到底私の回答は参考にならないと思いますので 汗)
 
 縄文時代は草創期(12000~10000年前)、早期(10000~6000年前)、前期(6000~5000年前)、中期(5000~4000年前)、後期(4000~3000年前)、晩期(3000~2300年前)の6段階(年数は放射性炭素14年代測定法によります)に分けられます。
 その草創期の頃は晩氷期と呼ばれ、激しい寒暖を繰り返しながら次第に気温が上昇し、海面の上昇(温暖化で大陸の上の氷河がとけたためです。)が起こった頃です。四季の季節変化が始まったのも縄文時代からだそうです。
 先日、NHK「日本人~はるかな旅」によると東南アジア系の人類という港川人が黒潮に乗り九州南部に移ったということが言われておりました。この港川人と縄文人の骨格が似ていることから、港川人のような先土器時代人が縄文人になったと言われています。同様に紹介されていた「上野原遺跡(鹿児島県国分市)」は縄文早期初めに50軒近い竪穴式住居や集石・土坑などが多数発見された日本最古級の定住集落です。耳飾や土偶も発見されており、非常に注目されております。
 これも紹介されていたのですが、約6400年前頃、鬼界カルデラ(巨大噴火で海底に沈んでしまった鹿児島県屋久島の北にある火山)で縄文時代最大の大爆発があり、火砕流体積物が薩摩・大隈半島まで達し、火山灰は関東地方まで降り注ぎました。これによって草創期・早期に開花した南九州の文化は壊滅し、自然の回復後北九州から来た別系の縄文人が移住するまで一時無人化しました。(この間1000年程度。その他にも桜島や富士山etcの噴火もあり、それぞれに縄文人に多大な影響を与えたと考えられています。)
 トイレはちょっと知識ないです((シ_ _)シ)是非、専門的に勉強なさっている方がいらしたら回答お願いしたいです。私も興味あります^^
ただ、縄文人が何を食べたかは炭素と窒素の安定同位対比(説明すると長くなりそうなので・・w)を使ったり、貝塚から推測しているところを見るとトイレはなかった(もしくは未発見なのではないでしょうか)
縄文人の主食は種実類や根菜類を中心とした食物です。ですが、身近にあって食べられるものは何でも食べていたという感じです。動物は骨の髄まで食べたそうです。 
 えっと、最後に土器について。
土器の出現理由は様々なものがあげられていますが、土器が持つ大きな意味は「煮る」ということでしょう。貯蔵や盛り付けよりも先に「煮る」という機能を持った道具として普及していきました。「煮る」ことによって、食物が柔らかくなったり灰汁が抜けたりして食べやすくなり、食べられるものの範囲が広がりました。これによって寿命が伸びるなどの効能がありました。
草創期(丸底深鉢形土器が多い。後半期には押圧縄文・撚糸縄文が施されています。)
早期(尖底深鉢形土器が多い。押型文、沈線文、貝殻条痕文が施されています。)
前期(円筒形の丸底・平底深鉢形土器が多い。縄文文様の最盛期。)
中期(円筒深鉢土器が多い。関東~北陸にかけて立体的装飾のある厚手の土器が現れる。火炎土器。)
後期(深鉢形・浅鉢形・注口土器が一般化。磨消縄文・沈線文などがある。)
晩期(東日本を中心に亀ヶ岡土器が出現。)
こんな感じです。

 かなり広く浅く(凸凹してますな 汗)書きましたので判りづらいかと思います。もし、補足等がありましたら、今度はもう少し的を絞って回答したいと思います^^ 
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たしか.沖縄-九州-中国(以東略)で.文化の切れ目があったと記憶しています。


沖縄人は.体格・服装等がまったく異なる別文化の人々です(たしか漢書?)。
中国では.壱岐経由で朝鮮半島との国交があり.対馬経由で朝鮮半島と国交のあった.九州地区とでは文化が異なります。

又.奈良地区の相続争いで負けた一族が.南九州に逃げてきたものの.天皇一族による追手によって殺されたという神話があることから.南九州には近畿地区に敵対する勢力があったことが想像されます。
最後に.古墳時代には.奈良地区と異なった巨大古墳群が九州地区にあり.奈良地区とは異なった部族がいたことが推定できます。

現在の日本史は.天皇の行動を正当化するという研究が主体ですので.天皇とは異なる勢力については.その存在を消す動きがあり(例として有名なものは.アイヌの部族長).歴史から抹消されていますので.注意が必要です。
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