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こんにちは。

世の中には汚い手段を用いて人に損害を与え、何らかの利益を得ようとする人間がおります。また、それが罷り通ってしまう場合もあります。

彼らの行動の目的は「幸福」である場合が多いように思いますが、私の感覚では、そのような仕方で、例え何らかの利益を得られたとしても、心が満たされるとは考えられず、幸福になれるとは思えません。それどころか、酷く惨めな気持ちを抱いてしまうと思いますし、自分が損害を与えた相手に仕返しをされる可能性も高いと思いますので、心が安らぐ暇もないように思います。

人によっては、または、考え方次第では、そのような人生でも幸福だと感じることができるのでしょうか?

宜しくお願い致します。

A 回答 (14件中1~10件)

参考に


幸福にもいろいろな段階があるのですね。
例えば幸福というビルがあったとします。そのビルは地下3階地上5階のビルとしましょう。地下に住む住人は、盗んだりだました金で幸福に済んでいます。地上階の人は自分で稼いだ金で幸福に住んでいますが地上の上の階に行くほど幸福についての考え方が違ってきます。地上2階のかたは一生懸命働いて楽しく暮らすことにに幸福を感じる方々が住んでいます。例えば3階には仕事が何よりも好きな方々が住み、4階には知識がお金より価値があるというかたが住み、5階には人のために身命を惜しまないことが幸福だというかたが住んでいるとしましょう。また、上の階から下の階へはいけますが下の階から上の階へは原則いけないようになっていて、しかし1階だけは誰でも入れるようになっているとしますね。一階には5階の住人も地下の住人も同時にいます。例えば、4階の住人は地下の住人を観て、盗んでそれで幸福なのかなと考えます。地下の住人は、5階の住人をみて変った人間もいるもんだ、何が楽しいのかと考えますね。つまり、どの階に住んでいる方もそれぞれに幸福感がありますね。どの階に住めるかは心がけと努力しだいですね。上の階の住人が増えるほど国は豊かになり、地下の住人が増えるほど国は貧しく荒廃していくということですね。そのように幸福感は、幸福ビルの住人のように多様なものなのですね。本人が気付かない限りわからないのですね。だから1階がないといけないでしょう。この1階が実はこの世なんですね。だから生まれてくるということでしょう。逆にいえばそれこそ多様な価値観、幸福があることの証明なのではないですかね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

おっしゃる通り、段階の違いなのかもしれませんね。

私が深く考え過ぎていたのかも知れません。

もう少し考えてみます。

お礼日時:2005/05/11 03:08

>彼らの行動の目的は「幸福」である場合が多いように思いますが、


>私の感覚では、そのような仕方で、例え何らかの利益を得られたとしても、
>心が満たされるとは考えられず、幸福になれるとは思えません。
その時点で既に目的が達成されていないんでしょう?
幸福というのはあくまで心が満たされ幸福感を感じる時であって、後ろめたさを抱いていては目的達成となりませぬヨ。
とまあ、屁理屈は置いておいて。

人によっては。
幸せだと思いますけれど。

ぼくは幸せだと思いますよ。例え誰かが死んでいく、という『汚い手段』と犠牲を払ってでも僕は幸せになりたいです。
一瞬でも良いけれど、できれば長めに。

結局、今だけが大事、ならばあとのことなんてどうでもいいもん。今さえ楽しければ。
損害を与えた相手が仕返しをするというのなら、その相手を押しつぶせばいい。先手、先手をうって楽しむ。ソレが例え汚かろうと。それで自分が幸福になるのならば。
でも、幸福になるのってそう簡単じゃないですしね。だから犯罪者は少ないんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/11 04:14

なれると思います。


いま幸せを感じている日本人の多くは、いろいろな
犠牲の上にり立っていると思うのです。
 例えば、日本は基本的には戦争放棄の姿勢をとっておりますが、そんな事ができるのは、アメリカの軍事力があってのことですし、アメリカが軍事力をたてに世界でやっていることは、汚い手段で利益を得る事と考えられると思います。日本人の安定した生活の裏には、アメリカの世界戦略のおかげです。
 そういった意味で知らないだけで、人間の幸せは、
汚くない手段のみで成り立っているものではないと思います。知らないか、普段は気にして無いだけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

できれば、汚い手段に直接的に関与しているケースについて伺いたかったのですが、参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/05/11 04:14

「汚い(手段)」の定義の問題だと思います。

言葉としての定義ではなくて感覚的な定義です。

アメリカ人の狂信者には鯨なんか取って食うやつは悪魔だと言う連中がいますが、彼らは同じ口で牛と豚は人間が食べるために神様が遣わしてくれた生き物だから屠畜して食ってもいいんだと言います。何の合理性も無い考え方です。

しかしどんなに可憐なお嬢様でも、豚や牛のことを想うと哀れになってハムもソーセージも食べることができないなんて人は変人です。

では、生まれてから毎日世話をして育てて呼べば寄って来るほどなついた子牛を、縛り付けてハンマーで眉間を叩き割って殺して、皮を剥いでジャケットを作って、解体して焼肉にして食べられるのか、といったら、大の男でも多くの人は「可哀想だ」と感じるでしょう。

豚や牛のことを考えてあげれば、ぼく達は殺すのは可哀想だ、ということに異議は無いと思います。
しかし、じゃあ豚も牛も鶏も食べずに、つまりこれから一生、牛丼も豚丼も、焼肉も唐揚げも、ハンバーガーも、ハムもソーセージも、鶏がらやトンコツでスープを取ったラーメンも、一切口にせずに生きていけるのかといわれると、それは物理的には不可能ではないかもしれないけど、殆ど無理です。
そこまで神経質になる必要はない。仕方無い。殺されるのが嫌で屠畜場で悲鳴を上げる豚や牛のことを思えばそれは可哀想なことかもしれない、道義的には悪いことかもしれないが、そんなことを言っていたら50億の人類は生きていけない。豚や牛を哀れんで餓死するわけには行かない。必要悪だ。そう結論するでしょう。

ぼく達は、殺されていく豚や牛の気持ち、苦しみ、なんてことには思いもよらず、松坂牛のフェレステーキを食べ、鹿児島産黒豚のトンカツを食べると「幸せ」です。「可哀想」と「幸せ」の間には通常はリンクが張られていません。
そういう意味ではアンチ捕鯨の博愛主義者を狂信者と言うような合理性があるわけでもない。程度の問題でみんな合理的ではないんだと思います。

ことの本質は、何がどこまでどうであれば「汚い」と考えるのかという、程度の問題でしかないと思います。
そしてぼく達が思っている以上にぼく達の常識は一般的ではない、全然違う感覚で生きている人は思うよりたくさんいるようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>ことの本質は、何がどこまでどうであれば「汚い」と考えるのかという、程度の問題でしかないと思います。
>そしてぼく達が思っている以上にぼく達の常識は一般的ではない、全然違う感覚で生きている人は思うよりたくさんいるようです。

おっしゃる通りだと思います。
以前、私は全てのことにおいて「人間は万物の尺度」と考えておりましたが、最近、尺度がそれぞれの人間にある部分と、全て(或いは殆ど)の人間が同じように持っている部分があるように思えてきました。まして、それが同じ時代の同じ日本に生きている人間であれば重なる部分も多いように思えたこと等もあり、汚い手段を用いて生きている人間が、その人なりに幸福だと感じていても、それは、汚い手段を用いずに生きている人間が感じる幸福とは異なるのではないかと思うようになり、ご質問をさせて頂きました。少なくとも私の感覚では、汚い手段を用いて得た幸福と、汚い手段を用いずに得た幸福とでは「物が違う」と感じました。今となっては、当時、汚い手段を用いて得た幸福などは、幸福とは呼べない代物だと感じています。

また、自分が人間である以上、動物に対する感情と、人間に対する感情とでは異なると思いますので、当質問は人間に対する汚い手段に限定した質問とさせて頂きます。私の文章力が至らず、申し訳有りませんでした。

宜しくお願い致します。

お礼日時:2005/05/10 17:08

犯罪を犯してでも金を得ようとする人は、かつては止むにやまれず仕方なくやってた人も多かったでしょうが、昨今の振り込め詐欺なんかを見ていると、完全にゲーム感覚で犯罪を犯しているとしか思えません。


もはや、贖罪や罪悪感を求める事自体、難しい犯罪者が横行しているということではないでしょうか。
知り合いにヤ○ザのせがれがいましたが、話せば話すほど「こいつは人間のクズだ」と思ったものです。
彼らに「心は寒くならないのか?」とか詰問したところで「はあ?」とか返されるのが関の山でしょう。
「なんでそうなったのか?」とか「彼の更正はいかにすればよいか」とか考えるだけでも、私には時間の無駄であるような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

おっしゃる通りなのかも知れません。

もし宜しければ伺いたいのですが、汚い手段を用いて生きている人間が感じる幸福と、汚い手段を用いずに生きている人間が感じる幸福とは、同じもの、又は、同じレベルのものである場合もあると思われますか?(勿論、汚い手段を用いずに生きてさえいれば幸福を感じることができるとは限らないので、一概には言えませんが)

お礼日時:2005/05/10 16:12

 【汚い手段】に対する罪悪感の大小、また、


【損害を与えられた相手】に対する感情の持ち方で変わってくるでしょうね。

 相手のダメージを「屁」とも思っていなければ、得られた利益で幸福感を味わうことでしょう。また、そんな人でも相手の気持ちになって考えることが出来るようになった時、罪悪感にさいなまれ、苦痛を感じるのだと思います。

 【心が満たされる】という感情はとても難しいですね。物欲や金銭欲が満たされることで【心が満たされる】と感じてしまう、または感じる人もいると思います。この辺になっちゃうと、【幸福】や【心が満たされる】の定義とは?なんて話しになってしまいそうでこわいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


>相手のダメージを「屁」とも思っていなければ、得られた利益で幸福感を味わうことでしょう。

そのような人間が感じる幸福は、汚い手段を用いずに生きている人間が感じる幸福と同等の幸福である場合もあるのでしょうか? 私の感覚では、幸福の質やレベル等が異なるように思えた為、ご質問をさせて頂きました。

お礼日時:2005/05/10 15:58

私は先日振り込め詐欺に合い、多額のお金をだまし取られました。

さるサイトで論争になったのですが、彼ら詐欺師の多くは、たとえ捕まってもせいぜい2~3年、それで数千万稼げるならこんなにわりのいい商売はないと断言し、出所後は新たな詐欺のタネを探すとうそぶいています。

彼らは相手を不幸にすることで、自分が幸福になろうとする人種です。しかしその事実を突きつければ決して心は満たされないと思います。相手の顔が見えない詐欺だから「そんなこと考える機会もないし、考えたこともない」というのが真実ではないでしょうか?

性善説を唱えるつもりはありませんが、相手の苦しむ姿が見えるか見えないかで、悪事に対する後ろめたさは違ってくると思います。自分の犯した罪で相手が苦しむ様子を見て、それでも金を得たことが幸福だと思える人は、そう多くないと信じたいです。

被害者や弱者の姿が見えない(またはあえて見ようとしない)からこそ、良心が痛まず、お金がもたらす幸福感に酔っているのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

今回は、とんでもない目に会われましたね。全く酷い話ですね。


>自分の犯した罪で相手が苦しむ様子を見て、それでも金を得たことが幸福だと思える人は、そう多くないと信じたいです。

最近、私も同様に思えるようになりました。汚い手段を用いている人間が幸福を感じていたとしても、それは私達が感じている幸福とは異質のものではないかと思うようになりました。

お礼日時:2005/05/10 15:41

ホリエモンが、こんなことを言ってますね。


「好きなことをしたければ、好きなことを最初から仕事にするのではなく、
お金ができれば何でも好きなことができる」というようなことでした。
手段は問わず、お金ができれば何でもできるぞ!!という
ことですね。
多くの人は、金があれば幸福なのだとモレは思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/05/10 15:30

仕事をされておられるかどうかわかりませんが、


経験上、製造業なんかだと公害問題など全て法律にふれるギリギリのところで、やっておるのがほとんどだと考えます。中には新聞沙汰になると代表者が人事異動になるのが通例になっておるところもあります。
どんな職業であれ小さく問えばそういうところがあります。
 ご質問の手段ということですが、社会通念上のやっても自然な領域はやむをえませんが、どう見てもいいことではないと80%くらいの人が思っている場合はいずれバチがあたるでしょう。
 仕事上、人は7人の敵がいるといいますが、それは競争相手が多いということでやみくもに方法論もとわず勝てばいいということではないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/05/10 15:27

 人それぞれの定義があるから分からないと思います。

十把一絡げには出来ないですよ。
 汚い行為の定義や幸福の定義の違いですね。悪こそ美学な人を悪は悪だと思う人には理解できないでしょう?

 >人によっては~の答えですが・・・。

 幸福だと感じることは出来るでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

以前は、私も同様の考えを持っておりましたが、相対的な部分だけではなく、絶対的な部分もあるように思えてきた為、ご質問をさせて頂きました。

また、汚い行為を用いても幸福だと感じることはできるのでしょうが、それは、私の感じている幸福とは異質のものだと思えてきた為、ご質問をさせて頂きました。

お礼日時:2005/05/10 15:19

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