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義経と頼朝は生い立ちが全然違うので言葉も随分違っていて,実際には会話が難しかったのではないかというようなことは考えられますか。この兄弟の不仲の原因には意思の疎通が悪かったこともありそうに思えるのですが・・・。また木曾義仲などもいかにも土着語しか話さなかったような印象ですが、当時同じ源氏といってもコミュニケーションを取るのが大変だったのではないでしょうか。

A 回答 (3件)

頼朝が伊豆に流されたのは10歳前後で、それ以前は「京都で生活」。


義経の場合、「京都の鞍馬」を出て行ったのは15歳のころ。

こー考えると「二人とも京都育ち」なので、「言語的に意思の疎通に問題はなかった」のでは?

また、義仲自身は関東生まれ木曽育ちですが、「親の代までは京都で生活」していたようなので、「普段の会話は京言葉」だったでしょうからこれまた問題ないように思えます。
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この回答へのお礼

早速明快なご教示を頂き有難うございました。会話はまったく問題ではなかったということがよく分かりました。

お礼日時:2005/05/12 16:01

この兄弟の不仲の原因>



この兄弟が不仲になったのは、源氏の台頭を牽制しようとした後鳥羽上皇の謀略にまんまと義経がのせられてしまったのが理由であり、会話ができなかったからではありません。
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この回答へのお礼

どうもご教示有難うございました。二人の間の意思の疎通も良くなかったとは思いますが・・・

お礼日時:2005/05/14 09:23

 


 
 当時、読み書きのできる人のほぼ100%の知識人が「漢文」を使いこなしています。それは「論語」や、「お経」などを通じてです。

 もちろん書物にはまだ不自由していた時代ですので「共通語」などはなく、「一山こえたら外国語」の地方も少なくなかったことでしょう。

 そこで、当時の知識人たちの共通語のようなものが漢文だったのだと思います。特に男性の場合はその傾向が強いようです。

 「太平記」の原文は漢文で、会話も当然「書き下し文」で会話しています。(実際は口語ですが)ぐっと時代が下がった幕末でさえ手紙のやり取りは漢文が多いです。

 もちろん、生まれ育ちの方言はあったでしょうが、格式ばった場や手紙の場合は、そんなこんなで何とかなったように思います。
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この回答へのお礼

義経や頼朝の真筆が残っていますから教養があったわけですね,ご教示有難うございます。

お礼日時:2005/05/12 16:46

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