プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

梅原史学で有名な「隠された十字架」についてですが、あの学説というのは、今はどのように評価されているのでしょうか?
発表後30年も経って新しい史実はかなり出ていると思うのですが、多少の事実誤認はあるものの、内容としては一応支持されているものなのか、それとも、学者の間ではほとんど否定されて無視されて、素人だけが驚いているような感じでしょうか?
個人的には、予備知識があまりにもないので、違うと言われればそのような、でも、多少は真実みもあるような、微妙な感じです。
今の動向を教えていただければありがたいです。

A 回答 (3件)

梅原氏は夢殿の救世観音像は聖徳太子がモデルと考えていますが、あらゆる方角から検討すると、救世観音像のモデルは長屋親王です。

斑鳩の寺院配置は、長屋親王邸を中心に構図が決められた証拠があります。また、聖徳太子の子である山背皇子殺害は、長屋親王殺害の事件がモデルと考えられます。

聖徳太子の正体は小林惠子説のように突厥(トルコ)なのですが、突厥自体が南ユダ王国のベニヤミン族の別名なのです。
    • good
    • 0

情報として確実なソースがあった上での回答ではなくて申し訳ないのですが、



「梅原日本学」などというように言われることもありますけれども、梅原氏は結局のところ、歴史においては素人であると思っています。大前提は哲学者ですし。
法隆寺論を発表した当時の状況はよく知らないのですが、センセーショナルな書き方だっただけに、一般受けが良かったということではないでしょうか。おそらく歴史畑の学者さんで、言い方は悪いですがまともにとりあった方は少数だったのでは。
なので、

>素人だけが驚いているような感じでしょうか?

だと思います。わたしは梅原氏の本を「トンデモ系」に分類しています(^_^;)。

とはいえ、面白くて好きだったですけれどね、歴史関係の一連の著作。今数えたところ、20冊強持っていました(^_^;)。下手なミステリよりずっと面白かったです。ちょっと怖くて。
ただ、梅原氏は多分に陶酔系の人(ご本人の言い回しを借りれば”デュオニソス的人間”)だったと思います。それが文章の熱を生み出していたのは長所ですが、「説」部分になると、どうも自らの思いつきで突っ走ってしまっていたかなー。
自分の説(思いつき)を補強するような事物のみを採用するような傾向はあったような気がします。(普通の学者さんでもその傾向から完全に自由にはなれないとは思いますが)

法隆寺論発表から三十年も経ってますか。
何年前か忘れましたが、梅原氏が新聞に書いていたエッセイか、あるいは対談で、「(法隆寺論に関して)私も当時とは考え方が違っているが……」という言い方をしていました。具体的にどういう変化をしているのかには言及していませんでしたが、ちょっとがっかりしたのを覚えています。お年を召されたんだろうなあ……と。

ただ、個人的には「法隆寺は聖徳太子の成仏を祈っての寺である」くらい考えるのは許されるんじゃないかと思っていますけれどねー。
不幸な死に方をした人が手厚く葬られる傾向があるのは確かでしょうし、聖徳太子本人の死はまだしも、その子孫たちの死は人々の哀れを誘ったでしょう。
そういう場合、そのことに対する哀悼の心は自然に湧いてくると思います。
しかしそれを「怨霊鎮護の寺」とまで言ってしまうと、ちょっと言葉が過ぎるのではないかと……過ぎるくらいの言葉だからこそ、世間の注目を集めたのでしょうが。

梅原説をスタンダードだと思わない方がいいと思います。面白がるという程度のスタンスが正解ではないかと。

ほとんどが私見で、客観的な回答ではありませんので、その辺りをよろしくご判断いただければ幸いですm(__)m。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご丁寧な回答、ありがとうございます。
やっぱり素人筋にだけウケる話なんでしょうね。
周囲から薦められて読んでみたんですが、どう評価してよいのか見当がつかなかったもので。
精読していくと、内容に矛盾がある箇所がややあり(例えば、最も山場である救世観音について、最初の方の橘寺の説明の部分で、橘寺に同じ名前のものがあると記されていますが、この点について最後の畳みかけるような議論の中ではフォローし切れていませんし、同じものだとすれば彼の解釈と矛盾しています)こういう細かい矛盾が積み重なってプロには否定されているのか、もしくはこのあたりは目をつむって論旨は尊重する、という評価なのか疑問でした。
しかし、歴史の研究とは難しいですね~。

お礼日時:2005/05/16 10:40

梅原氏の法隆寺論に限らず、古代オリエントとの関係を無視した考察は非常に古いと言わざるを得ません。



法隆寺の7つの謎の中に、中門が42尺とされるが実際にはそうでないとするものがあります。この真相は、42センチの尺度ならば割り切ることができるというものです。要するに、52.5センチの神聖キュビトで8寸の42センチを暗示するために、42という数字が使われたのです。なお、割り切れるという意味に端数が1/3尺や2/3尺も含みます。

高松塚や藤ノ木古墳の棺がクフのピラミッドと同じ神聖キュビトで造られていたように、法隆寺も古代オリエントの尺度で造られていたのです。また、法隆寺は、子午線に対して9度の角度で左に回転していますが、これは斑鳩の鳩、厩戸皇子のキュウと同じく、救世主のシンボル数9を連想させるためです。それで救世観音像が安置されているのです。

ソロモン神殿も造った神聖キュビトが法隆寺に用いられていることから、法隆寺は原始キリスト教のテラ(ヨセフの孫娘セラのラテン読み=セラピストの施設)の条件を備えていることになるのです。梅原氏の考察は怨霊鎮魂に偏っていますが、タイトルの十字架だけは皮肉にも的を射ていたのです。なお、仏教もイスラエル12部族のダン族から出ており、それでダンナ(檀那=ダンの)と言うのです。


法隆寺と藤ノ木古墳が原始キリスト教のシンボルで彩られていることは、参考URLのエフライム工房より、『私だけの古代史・酒船石編』第6章「イスラエルの足跡」から4項の原始キリスト教ほかをご覧下さい。なお、古代日本ではメートル法が使われ、それを太陽角度でシンクロさせたものが古代尺の本質なのです。神聖キュビトもその一つに過ぎません。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!