No.5ベストアンサー
- 回答日時:
平家物語からですが。
関東武士でありながら、平家の武将として戦って、見事な最期を遂げた斎藤別当実盛は外せないでしょう。
彼は関東の上野の嵐山にいて、木曾義仲の父が、頼朝の兄、義平に攻められ、殺された時、その2歳の子(後の義仲)を伴って、木曾谷に入った人物です。
彼は都に出仕して、仕事をしていましたが、時の全盛を誇った平家の軍に組み入れられました。
富士川の合戦にも平家方として敗戦の憂き目に会いました。
源氏の回し者という噂も立つ中で、今度は義仲との戦いに平家方として、また噂を断ち切る覚悟で、武士の本分として参加しました。
「篠原合戦」で、平家軍が敗走する中で、老体に鞭打って、白髪を黒く染めて一騎だけ残り、討たれてしまいます。
「従者も連れず、立派な鎧で、声は関東訛りのだみ声の不思議な武将」と討った手塚太郎は言っています。
義仲はその首検分の時に号泣しました。
この話は、古くから「実盛の最期」として知られ、実盛塚とか色々と史跡が残っています。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/05/18 15:39
ご丁寧な解説を有難うございます。現在でもありそうな話しかと思いました。あるひとが移民した国が母国と戦争になって,母国を敵として戦うようなものでしょうか。
No.3
- 回答日時:
誤解があると思われます。
俗に源平時代などといいますが、事実は「清和源氏のうちの一部とそれを頭領とする武士団」と「桓武平氏の清盛につながる一統」の争いが中心になっているだけです。桓武平氏といっても他の流れ、事実上別の家といってもいい連中もいて(たとえば平将門などの一族)そのなかでもっとも成功をおさめたのが北条氏です。さらに清和源氏以外の嵯峨源氏や村上源氏、また桓武平氏以外の平氏もあります。そういう賜姓王族のなかの比較的下位のいわば疎外されていた一族こそ特に清和源氏なんで、しょうがないので地方官として関東の在地の武士団と手を結び・・・といった経緯があります。
まあそんなわけで例えば北条氏(天皇の前ではたとえば北条時宗はたいらのときむね)など清盛一統とは「同じ平氏」だなんて思っていないでしょうね。同じ賜姓王族だとは思っていたかもしれませんが、それなら清和源氏とて同様です。
No.2
- 回答日時:
源平時代でも、もう平氏の誕生から300年以上、清和源氏の誕生から250年以上が経っているわけで、遠い一族にとっては本家同士の争いで本家につかなければならないなんて義務感はありませんよ。
源氏一族の主導権争いもありますし、北条、千葉、上総などの関東の平氏系にとっては清盛たちが一族なんて感覚があったかどうかは、はなはだ疑問です。北条と千葉の間にすらそんなものがあったとは思えません。
この時代を理解するには、源氏だの平家だのという問題より、朝廷や平家から使用人同然の扱いだった東国武士団の東国独立戦争として見ることが大事ですよ。
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