脳死臓器移植を哲学的、宗教的観点でどのように判断していますか?
脳死臓器移植にはいくつかの意見があるようですが、医師や法律家が肉体の死を検討するだけでは、不十分と思います。哲学的、宗教的観点からのご教示お願いいたします。ちなみに私は肉体と魂は別と認識しております。
回答(2件)
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No.2ベストアンサー20pt
hw4183さん、こんにちは。
人間という生命の本体は、魂すなわち心であり、
肉体は魂を入れる器であるわけです。
「死」とは、
魂が肉体から離れて、霊線が切れた時をいうそうです。
よって、脳死は人の死ではないわけです。
ですから、昔から人の死は心臓が止まった時とするのが、
僕たち地球人にとっては、誰にも解りやすく、
本来の自然なあり方だと思います。
人間の様々な欲望と死に対する恐怖心から、
(もちろん当事者間の人間愛に基づくものもありますが)
心で感じず、頭で難しく考え、
脳死を人の死と定義しようとしているのだと思います。
本来、人間の肉体は、
その肉体に宿る生命のために与えられたものであり、
その生命がその肉体から離れ、次の時空に移行する時に、
感謝と共に自然に返すべきものと思います。
「死」とは肉体を脱いで、
次の修行の場に移行する旅立ちである、
と多くの地球人に正しく理解されてくると、
脳死臓器移植ということはなくなってくると思います。
この回答へのお礼
大変ありがとうございます。
非常にすっきりしたお答えをいただきました。
本来このような社会的問題に対して、答えを出していくことこそ、哲学、宗教、の公に対してのあり方と
思います。
宗教的真理が多くの方に少しでも広がる事が21世紀、唯物の闇夜に灯る大きな灯台としての使命であろうと再確認させていただきました。
誠にありがとうございました。
No.1ベストアンサー10pt
ご教示というほどの者ではありません。
唯の意見です。 しかし、こういうことは一人一人の個人
がどう考えるかということが全体として尊重されるべきで
す。
そこで、わたしは以下のように考えます。
死人に口無しですから、死にゆく本人の意思が脳死寸前
まで不明と考えれば、その状態での本人の意思は結局無視
されることのなります。 特に、死に到る寸前に於ける
その死に行く個人の意識する時間は長大なものかもしれません。 これは、何等かの生死の危機に遭遇した時に、たった 0.1秒程度が1分以上に感じられることを体験した人も多く客観的事実です。 ましてや、本当に死ぬ時と
いうのは想像を絶するほど長大な時間かもしれません。
たとえ遺言があったとしても気が変わることは頻繁に有り得ることです。 従って未知なる領域を合理性のみで判断するのは”おごりたかぶり”です。
この回答へのお礼
早速のお答え大変ありがとうございます。
お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
このような現在進行形で起こりえる社会問題に対しまして、今、宗教、哲学がその本来の影響力として、具体的な問題解決能力がありや、なしや、まさしく問われていることである、と思います。
>>未知なる領域を合理性のみで判断するのは”おごりたかぶり”です。
現代社会に巣食う誤った悪想念、唯物思想と合体した合理主義はまったくつまらない世界観であって、最近の中国の死刑囚臓器売買に日本人が関与していた事や、世界各地での人身売買が臓器売買にもかなりつながっている事など、大変危惧しています。
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