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 お世話になります。

 よく思うのですが、「教育」は親と教師だけに任せておいていいものなのでしょうか。

 「最近の大人は、街で子どもを注意できなくなった」とか指摘されることが多々ありますが(そして私も特別未成年者を街頭で注意したりすることなど皆無ですが)、これは「古き良き社会」が、未成年者を社会ぐるみで教育していたことの現われではないか、と思えます。

 何らかの問題が起こり、社会が「病んでいる」などと指摘され、その具体的な事象に対する対応・対処はなされる(た)としても、社会が社会としてどうあるべきなのか、といった全体的、俯瞰的な議論はあまりなされていないように思ったりします。

 問題の根が社会構造にそのものにあるのだとしたら、もっと根本的、抜本的な議論がなされてもいいように思うのですが…。

 自分に子供がいようがいまいが最終的には「他者」との共存によって社会はなりたっている訳で…。

 こんなことを考えるのはちょっと時代遅れでしょうか。

 ご意見頂けると幸いです。  ( Age:25 Sex:非公開 )

A 回答 (5件)

 「最近の大人は、街で子どもを注意できなくなった」とは言いますが、その原因は何なのでしょうか。

日本人の気質がわずか数十年でまったく変わってしまったのでしょうか。私は、そうは思えません。No.1の方も仰られている通り、子供の友達や近所の子供は叱るでしょう。逆に言えば、自分の周りの子供たちが「知らない子供」になったということではないでしょうか。
 いわゆる「古きよき時代」では、自分の住む地域の人口は過密というほどではなく、誰もが地元の学校へ通い、親の仕事を継ぎ同じ家に暮らし続けました。故に、自然に周囲との関係は深まり、見かける子供は皆「知っている子供」となるため、叱ることができた。
 ですが現在では団地・マンションが乱立し、子供が遠く離れた私立の学校に通っていることも少なくなく、成人すれば親元を離れ別の町に住む。これでは深く密接な関係を周辺住民と結ぶことは難しく、子供を見かけても何処の誰の子かなどわからない「知らない子供」ばかりとなってしまいます。

 かと言って、まさか現代日本社会で「皆親の仕事を継ぎ、同じ町に住み続けよう」では馬鹿馬鹿しいにも程があります。
 ではどうすればいいかと言えば、親が子供にそういった環境を与えるしかないのではないでしょうか。周辺住民と密接に関わり合い、助け合い、育てあう。そんな環境を、生まれてくる子供たちのためにも親が作る必要があるのだと思います。
 しかし、これでは結局子供の教育は親しだいということになります。「地域社会」と銘打って国や自治体は何とかしようとはしてますが、最終的にはそこに住む親(大人)達にかかっているわけです。もはや自然には出来上がらなくなったため、意識して作り上げなければならなくなった。そして多くの大人たちには今のところ出来ていない。それが問題となっているのだと、私は思っています。

 地元に住み、地元に就職し、地元で子を育て、またその子が地元に残る。それを受け入れる地域社会があり、その地域社会ごとの格差がなく、それを誰もが魅力的に思う。そうなればまた「古きよき社会」が出来上がるかもしれませんが、それにいたる道のりは遠く長く険しいでしょうね……
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ふんふんと頷きながら読ませて頂きました。

「知らない子供」が「知っている」子ども、になる可能性を考えると希望が見えてくる気もしますね。

>地元に住み、地元に就職し、地元で子を育て、またその子が地元に残る。それを受け入れる地域社会があり、その地域社会ごとの格差がなく、それを誰もが魅力的に思う。そうなればまた「古きよき社会」が出来上がるかもしれませんが、それにいたる道のりは遠く長く険しいでしょうね……

課題は山ほどありそうですね…。

ともあれ、読んでいただき、ご意見いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/29 08:18

問題は、議論をすることではありません。



議論をすることで、世の中が満足をして動かない。
(行政が行うシンポジウムや各種会議は、会議が目標であって、実行動は、摩擦が起きるので行わない傾向がある。)

また、どう考えてもよいことなのに、議論をしたばっかりに他者の横槍によって動けない。(郵政民営化なんてそうですよね。)

そういうことが積み重なって、いまの日本が起きている。

議論することで、これからの行動を決めるのではなく、まず、よかれと思ったことをそれぞれの個が自分の責任でやってみる。その中から、有効なものが世の中に広がっていく。

そういうことがあるべきすがたです。

最近は、近所のつながりがなくなった。とか、他人のこどもを怒らなくなったとか、いいますが、まず自分がやることです。

わたしはそのほとんどを実践していますが、現実は、ああ、実際にやってもだめなんだ…。ってこと。

問題は、それぞれの個が集団にまけずに独立して行動する勇気を持つこと。

それは、こどもだけの問題ではなく、教員だけの問題ではなく、社会の構成員全員の問題なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

Community の需要、というのはいつの時代でもあるのでは、と思います…。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/30 17:35

とても興味深く拝見させてもらいました。

私も、circumさんとほとんど同様の意見を持ちながら、街をよく散歩しているもののひとりです。私自身は子供はいませんが、はっきりいうと、今自分の住んでいる地域で子供を育てたいという環境にはないと思え、まだ子供を産んでいなくてよかったなあと思っています。というのも、私から見ると、妙に外見だけ大人びた真似をした子供が増え、言っていることも、どこかで聞いたことのある、言葉ばかりです。これって、社会がどんどんステレオタイプ化してきているんですかね。態度だけでコミュニケーションをとろうとするせいか、大人の私も含め、自分の気持ちを素直に言い、またそれを素直に受け入れる人が少なくなってしまい、本音を言っても、冗談としてかわされてしまい、相手と対等に揉み合って議論(ケンカ)する風潮が、あまりに欠けてしまった結果のような気がしてなりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>本音を言っても、冗談としてかわされてしまい、相手と対等に揉み合って議論(ケンカ)する風潮が、あまりに欠けてしまった

ある、思います。「雨降って地固まる」を実感する場(機会)は確かに減っているような…。勿論喧嘩、は良くない筈ですが(と思いますが)、本音の議論、というのも減ってきているようにも。

下でも述べましたが、

「大人」の場合:「親」になって、教育を意識する。→教師に対する期待と不信感

「未成年者」の場合:教師に対する不信感 → 大人全般への不信感

といった図式が多々あるのでは…と。

悲劇、は起こる前、に食い止めたく思える今日この頃…。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/29 14:59

あなたの考えはもっともだと思います。


いつの間にか、「個」の集団になっています。

他人の援助を必要としない裕福(中流思想?)な家庭が問題なのか・・・

この回答への補足

>あなたの考えはもっともだと思います。

ご批評、ご批判もあれば重ねてお願い致します。

補足日時:2005/05/28 21:04
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「親」になって教育を意識する。
「社会人」になって社会を意識する。

それが当然と云えば当然なのかもしれませんが、問題に対する対応が後手後手になってしまうのであれば、それはどうなのか、と考えたのでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/28 21:04

8歳7歳子供の父です。


私は教育は
学校、家庭、取り巻く環境で決まると考えています。
その2つが欠けたらだめになるような気がします。
特に、家庭と取り巻く環境が大切だと思います。
取り巻く環境とは友達、友達の親、近所の人、塾や習い事の教師などなど。
ご指摘の通り街で大人が子供をしからなくなったことは事実です。私も町でみかけた子供をしかれないです。
へんな親が出てきたり、子供でもなにか武器もっていて刺されるなんてこともありますしね。
でも子供の友達や近所の子供はしかります。
世の中の人が近所のこどもしかればよくなるんだろうって期待しています。
それと大切なのは親だとおもいます。
子供には注意するくせに自分がだらしなかったらいけませんよね?
難しい問題です。
一向に動こうとしない国をあてにするより近所の、友達の子供から変えて生きませんか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あまり偉そうなこと云える身でないのでコメントできる部分、少ないのですが、仰る「環境」がどうあるのがよいのか、なんてことを考えたのでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/27 19:42

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