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アジアでは,1975年に,インドシナ三国で,革命勢力が勝利をおさめた後  (1)  政権のカンボジアとベトナムのあいだに戦争が始まるり、数十万人の難民が  (2)  の国境地域に流出した。また同じころ、ベトナムでは,経済を制する  (3)  系ベトナム人に対する弾圧がはじまり、多数の  (3)  系および親サイゴン政権派のベトナム難民が海外に出た。こうした緊張下に、1979年2月~3月には、  (4)  とベトナムが戦火をまじえた。

 

 これは,高校1年の現代社会の宿題で,本を調べてもわかりませんでした。どなたか、教えてください。  

A 回答 (2件)

(1)ポル・ポト


(2)タイ
(3)華僑
(4)中国
で、正解です。
1975年にクメール・ルージュ(ポル・ポト派)を中心とする解放勢力がプノンベンに入城しますが、ポル・ポト政権の極端な社会主義政策に反対して、シアヌーク殿下は北京へ亡命します。
1978年末にベトナム軍はカンボジアへ侵攻し、ポル・ポトはタイ国境へ逃げます。
シアヌーク派は、そのときに誕生したヘン・サムリン政権を認めず、殿下の息子のラナリットがヘン・サムリンと戦闘をはじめます。
シアヌーク、ポル・ポト、ソン・サンの三派連合は中国・アメリカ・日本・東南アジアが後押しをし、ヘン・サムリンはベトナムとソ連が後押しをして、1989年のベトナム軍撤退まで戦闘が続きました。
一方、1976年にベトナム社会主義共和国となったベトナムは、1955年の中国共産党との華僑に自由権限を与えるという合意を破りさり、1976年~1977年には、華僑に対し、ベトナム国籍を取るか、国外退去かの選択を迫りました。また、1978年には外国人の就労禁止、民間企業の廃止、商業資本家の排斥、余剰資産の没収などの政策を行い、多数の華僑が中国へ帰国しました。それにより、ベトナムと中国の関係は悪化し、1979年2月の中国人民解放軍のベトナム侵攻を招きました。この戦争はわずか1ヶ月で終結しましたが、1991年のパリ協定調印までの間、中国とベトナムの関係は非常に悪化したままでした。
簡単に解説してみました。
以上Kawakawaでした
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この回答へのお礼

 お忙しいなかありがとうございました。
 私は,今日はじめてパソコンをつかってみました。なかなかうまくいかず、ここまで来るのにだいぶ時間がかかりましたが、その甲斐がありました。
 kawakawaさんの 丁寧なご回答うれしく思います。 

お礼日時:-0001/11/30 00:00

間違っていたらごめんなさい 1 ポルポト


2 タイ 3 華僑
4 中国
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この回答へのお礼

 お忙しいところ、ありがとうございます。
助かりました。

 今日初めてパソコンをつかってみて、良い人に出会えて良かったです。

お礼日時:-0001/11/30 00:00

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