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1936年に復活しましたよね。これが日本の暴走を許したというのは定説だと思います。で,疑問です。
なんで内閣はそんな危なっかしいものを認めたのでしょうか。

絶対認めたくなかったはずですよね。誰のどんな意志が働いて,やむを得ず認めたのでしょうか。当時の首相(広田ですよね)が賛成だったとも考えにくいのですが。

当方,歴史は好きですがど素人です。的外れな質問だったらごめんなさい。

A 回答 (3件)

 歴史を見ると、民主主義が未発達な国が国家的危機に直面すると、国民の側から国をまとめる力が不足します。

 そして結果的には、実力と危機対応システムを持った国内最強の組織である軍隊が実権を持たざるを得ないこととなります。

 当時の日本を考えると、5・15や2・26事件などで内閣を担えるような有力政治家が、一部軍人のクーデターで殺されるなど、内閣による軍のコントロールが十分でないことが現実になっていました。

 軍を内閣に従属させようとすれば、軍は当然反対しその総理大臣は殺されかねない、このような時代背景の中で取られた政策が、大臣の現役武官制だったわけです。 
 内閣を構成する政治家の立場から見れば、大臣が現役武官であれば、内閣が軍をコントロールする力が強くなると言えます。
 逆に軍の立場からみれば、内閣に対する発言権が強くなることになり、反対はしません。
 つまり、この2つは同じことの裏表なのです。

 当時の政治家は、統帥権の独立を盾に内閣のコントロールに従わない軍を統卒しようとして、あえて毒になるかもしれない薬を飲み、毒に当たったのです。

この回答への補足

群→軍 です。失礼しました。

補足日時:2005/06/25 23:41
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この回答へのお礼

とても興味深い内容ですね。「同じことの表裏」というのは気づきませんでした。でも結局力関係で群が強かったということでしょうね。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/25 23:32

2・26事件後、「軍を統制しようとすると暗殺される」という感覚が文官の間に出来上がったから仕方なかった、というのは既に皆さんも回答なさっていることですが、蛇足ながら似たような回答を付け加えたいと思います。



2・26以後、広田は軍を抑えるべく、寺内寿一陸軍大臣に軍の過激派(皇道派と呼ばれます)を一掃させます。多くの陸軍大将・中将が予備役(引退して後輩の指導にあたる人たち)になりました。
しかし、軍も黙ってはいません。
「せっかく予備役にしたのに、そいつらが陸軍大臣としてカムバックしてはいけないだろう」という理由をこじつけて、「軍部大臣現役武官制」を復活させたいと言ってきたのです。
これは「騙し」というより、むしろ「交換条件」ですね。
軍部内の過激派を辞めさせたぞ。だからそっちも言うことを聞け、という感じです。

広田は元老・西園寺公望に相談しますが、「もし断ったらまた何か別の方法で内閣をつぶしにくるだろう」ということで西園寺も認め、現役武官制の復活を渋々承知したのです。危険な決定であったことは広田も重々承知だったと思いますよ。

結局その後広田の次の首相になるはずだった宇垣一成が、さっそく「現役武官制」でつぶされましたね。

この回答への補足

3人のご回答を通して読むと,実によくわかります。軍部がどんどん力を付けていったのですね。

もし皇道派が主流になっていても,たぶん戦争に突入していたと考えられますよね。

それにしても,国民は戦争を望んでいたのでしょうか。いったん始めれば国民みんなで盛り上がるでしょうが,始まる前はどうだったのかなと。

ある本で読んだのですが,当時は日本の景気がどんどんよくなっていて,だから政治がおかしい方向に向かっていたのに国民が「これでいいんだ」と思うようになったのだと。それが軍部の暴走も許したのだと。
ひとつの見方としておもしろいと思ったのですが,どうなんでしょう。

補足日時:2005/06/25 23:37
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当時は2・26の直後であり「粛軍」がスローガンとなっていました。

とはいっても、軍の政治不干渉を求める主張に対し、軍部は表向きこれを受け入れるように装いながら、2・26を起こした皇道派を押さえつつも政治への関与を強めていきます。

広田弘毅も組閣当初から軍の政治介入を許します。吉田茂外相就任が内定していたのに「自由主義者はけしからん」という軍の横槍をやすやす受け入れ、吉田を外しているのです。軍や右翼に敵視されると暗殺されるかも、という当時の雰囲気に屈したのかもしれません。

こうした軍に対する弱腰の流れで決ったのが「軍部大臣現役武官制復活」です。表向きは「現役を入閣させ内閣による軍の統制を強め、また皇道派の首班である真崎らの予備役大将を大臣にさせない粛軍策」という理屈での寺内陸相らの提案でしたが、これがまったく逆の結果となるのはご存知の通りです。

広田が、結果をまったく予想できず軍に騙された、とは考えにくいので、やはりこれも軍に屈した決断だったのではないでしょうか? 朝日新聞などはコロッと騙されて、この決定を大喝采する社説を書いてますが・・・

「落日燃ゆ」では「戦争責任が無いのに処刑された悲劇の政治家」という描かれ方ですが、実際は、日本の軍国主義化を決定付ける、取り返しのつかない失敗を犯した人物だったと思います。その辺の「日本人のための歴史の清算」をまったく怠ったままで続いてるのが、今の靖国問題です。

この回答への補足

広田は死刑になった唯一の文民ですよね。だからよけいに悲劇の政治家として扱われやすいのでしょうか。ただ,「取り返しのつかない失敗」とまで言えるのかよくわかりません。

広田には他の選択肢もあったのでしょうか(少なくとも命がけなら)。わかっていても逆らえず,後で責任をとらされたから「悲劇の政治家」のイメージが強いのではないのですか。もしよければもう少し教えていただけますか。

補足日時:2005/06/25 23:32
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