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和宮の降嫁するさいの行列が50Kmにもなったといわれえいます。
これは事実なのでしょうか?
50Kmは半端な距離がありません。
宿に泊るにして、とうてい一箇所ではすまないでしょう。
行列のに人数はどれくらいだったでしょうか?
1万人いたとしても、数Kmもあればよい気がします。
またそんな人数は必要ないのではないでしょうか?
お供が千人いたとして、それの警護が3千人で事足りるのではないかと思いました。
50kmは話が大きくなってしまっただけでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

 yoshinobu_09 さん こんばんは、参考までにご覧ください。



 皇女和宮の降嫁は、舟による渡河がない中山道を使いました。ただし、諸荷物
道具の類は、出立に先立ち、東海道を経由して別途輸送されました。

 従って、行列はある程度の荷物は軽減されていました。とは言え、舟を使わず
といえども、中山道は、中部山岳地帯を貫く街道で難所も多く、例えば、当時の
和田峠など、人のすれ違いがやっとというような険阻な山道もありました。
 そもそも、五街道が制定された当時、道幅も決められたのですが、宿場内はと
もかく、山中では馬のすれ違いが出来ない箇所までありました。
 そういう所を、とんでもない人数の行列が通ったのです。

 加賀前田家(初めの頃は木曽路を通っていた。)など、大人数の大名行列も同
様でしたが、行列の先頭から最後尾までが数珠繋ぎに列を組んでいたわけでは
ありません。

 先ず、宿泊場所の確認・手配に始まり、先触れ、警護、本隊などに分かれ、そ
れぞれに人足・荷駄が加わるわけですから相当の人数・行列になりました。
 このような人数を受け入れられる宿泊施設といいますと、「大概帳」によります
と、当時、木曽路で比較的規模が大きかった妻後宿であっても、旅籠の数は大
小あわせても31軒しかなく、相当手際よく各宿場に手配できたとしても、行列の
大半は野宿をせざるを得なかったと思われます。

 では、どれくらいの人数であったかといいますと。文久元年(1861年)10月20日に京を出立し、草津から中山道経由で江戸に向かったとき、その行列
の規模は、朝廷方数千人、幕府方1万5千人、人馬の継立て1日平均2万5千人
が動員されたといいます。

 実際の行列の長さを正確には存じませんが、こう書いてまいりますと、50キロ
という規模は、あながち誇張ではないであろうと思いますが、如何でしょう。
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 #3の更なる追加投稿です。


 
 小生の投稿は、記憶に基づくものですが、#2の方が人数の出典を
求めておいでですので、以下のURLの記述が参考になると思料され
ます。

 この様な資料を確認したうえで投稿すれば、小生の記述内容少しく
趣が変わったと思いますが、大湫宿の記録など、小生の記憶と近似の
数値ですので、大筋、この様な感じではなかったかと思います。

参考URL:http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris …
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 #3の補足です。



 編集中に送信し、読みずらくなってしまいました。すみません。

 文中、「人馬の継立て1日平均2万5千人」の次に「馬750匹」を追加
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別に知識があるわけではありませんが、目に付いたのでコメントします。



50キロはさすがに誇張じゃないですか?50キロの行列って事は2メートル間隔で一直線に並んでも2万5千人ですよ。実際は密集したり横にも広がるでしょうからそれ以上になるでしょう?

降嫁行列50キロに関しては、私としても気になるので出典が知りたいです。差し支えなければ教えてください。
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あくまで想像ですが、行列の規模は随行するものが6千人、諸藩の警備陣が5千人規模で、1万人規模の人数が往来することになります。


日本最大の加賀前田家の大名行列が、最大時で4千人、普通は2千人といわれますから、それに比べても桁外れの規模の行列で、そもそも1万人の人間の宿の確保も大変で幾つかの宿場に分宿しますし、道も当時は狭いので先頭から時間差をつけて徐々に出発せざる得ません。
また密集してるわけでもなく、偵察隊、本隊、後衛などに分かれれば、あながち50kmになっても不思議は無いと思います。
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