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 西洋や中国では、何千年も前かから馬車が使われてたのに対して日本では明治時代になってからやっと馬車がつかわれるようになりましたよね?
 牛車でなく馬車があれば便利高速手段となったと思うのですが。
 なぜ日本では馬は武士や馬借、馬の背に荷物を乗せて使われることまでしかなっかったのかとても不思議なのですが、そのことについて調べていますがなかなか答えに辿りつけません(ToT)そのことでプレゼンをやるひが近づいてのですかこのままだと、ぜんぜん満足のいくプレゼンができないので、どなたかお答えいただけないでしょうか?
 また日本では手紙も馬を使わず、飛脚を使っていたのかも調べてるですが、そちらのほうもお教え願えないでしょうか?

A 回答 (8件)

 以下はわたしが書いたものの抜粋です。

テーマが少し違うため直接お役に立たないとは思いますが、もともととても長いものですので、ヒントになりそうなところだけをブツブツと切り取ったものをご回答として。。。
 
1.世界史から見た「車」

●紀元前1595年、ヒッタイトの軍勢が古代バビロンを攻略し占領した。この戦いでは木製の車輪を持ち2頭の馬に引かれた戦車が登場している。この時代に戦車として応用されていたくらいだから、一般の物資運送用には、さらに古くから「車」は存在していたであろう。
●ほぼ起元の頃に当たる古代ローマの時代にも一頭の馬に引かせた戦車(チャリオット・シャリオ)が戦争で使用されていたし、カルタゴの名将ハンニバルのアルプス越えや敗走のシーンにも戦車は登場する。古代ローマと言えば勇壮な戦車競争があるが、ローマ人はエトルリア人からこれを教わったという。
●10世紀以降の頃、わが国では「源氏物語」が書かれた時代、ヨーロッパの主要都市では馬に引かせる荷車が広く普及している。パリではゴミや水を道路に投げ捨て、これを豚が処理していたという。ここに荷車が通るから、道路は年中ヌタヌタ状態で悪臭もひどかったという。それが理由で、やがて道路には側溝と歩道が作られ、次第に石材で舗装されるようになり、さらに大規模な暗渠が整備されることとなった。
●1200年のハンザ同盟の頃のドイツ、わが国では平清盛全盛の時代、ここにも馬車が活躍している。1618年に起こった三十年戦争では人も乗る幌馬車が活躍している。
●18世紀から19世紀、イギリスで起こった産業革命では輸送力が大きく貢献している。また、乗用の辻馬車が生まれ、炭鉱の坑内でもトロッコが活躍している。これらはディッケンスはじめ多くの文学にも登場する。
●1818年、独立間もないアメリカで、開拓民のために土地を給付する法律が施行されて、民衆は新天地を求めて西へ西へと移動を始めた。2頭または4頭の馬に引かせる幌馬車や4頭の馬に引かせる駅馬車(ステージコーチ)などは西部劇でもなじみ深い。

2.日本史から見た「車」

●古墳時代の出土品のなかに円形で、中央に穴があり、穴から外周に向けで多数の線を刻んだものがある。これが「車輪」を模したものか、あるいは宗教的な宝具なのかは不明。
●奈良朝の時代(6~8世紀頃)、唐からさまざまな文化文明が流入している。「車輪」や「車」の概念もまたあったと思われるが記録に乏しい。
●平安時代(10世紀頃)、牛車(ぎっしゃ・御所車)が見られる。平治物語絵巻「六波羅行幸巻」にはこの牛車が克明に描かれているが、一部を鉄などで補強した直径の大きな車輪に特徴があり、ここに当時の「車」が置かれた環境を見て取れる。
●天正20年(1592)、秀吉が朝鮮に出兵した時代、大坂城の火薬庫に多数の荷車に積んだ火薬が搬入されたという記録がある。特に大坂、堺などでの荷車の普及は顕著というが、その姿は不明。
●天文、元亀(16世紀頃)から始まったいわゆる戦国時代、たしかに「車」に関する記述は少ない。まして「乗用」ともなるとまったく見当たらない。少ないこともまた、その理由の推測と考証の足がかりとなる。
●文久2年(1862)に発生した生麦事件に対してイギリスへの賠償が行われることになり、イギリス軍艦パ-ル号に積み込まれる賠償金を運ぶ多数の「大八車」の絵が1963年9月12日号のイラストレイテッド・ロンドン・ニューズ紙に掲載されている。

3.構造と機能から見たわが国の「車」(あまり関係ないので1項のみ)

●路面からのショックを吸収するサスペンションバネの概念の遅れもまた、乗用の「車」の普及度の低さに関係しているかもしれない。とかくのんびりと進む牛車(御所車)の場合はともかく、バネを介在させない「車」では今日の舗装路でも、とても長時間は乗っていられたものではない。

4.中世までの環境から見たわが国の「車」

●これまでに述べたように、「車」というものは、過去、人の力、あるいは家畜の力を利用して運行できるものでなくてはならなかったし、また、その車輪の仕様や車体の寸法が当時の道路事情に合致していなくては利用度が低かったはずである。
●馬は長距離に適しているし歩行速度も速い。その点、牛は長距離には適さないし、その速度も遅いが、根気が良く、短距離かつ長時間の労役には適していた。いわば高回転高トルク型エンジンに似た馬の特性、低速トルクの高いエンジンに似た牛ということになろうか。
●戦国の世には、長距離に及ぶ街道はまだ完全に整備されてはいなかった。
●多くの軍勢は表立って街道筋を通ることを避け、山野を横切ることで、その実勢力を傍の目から隠し、同時に移動距離を縮めていた。そして戦場となるのは自然のままの原野である。このような戦術と環境では「車」は利用度が低かったはずである。
●馬、れん台、輿、駕籠などはこの点、地形やその他の環境に対して対応性と踏破性が高い。
●当時の道路事情といえば、例えば大坂、江戸、京など大都市の市中においてはかなり整備されていたはずである。しかし、ヨーロッパと異なって舗装が遅れたわが国では、一旦雨が降れば車輪がスタック(頓挫)して、そこから引き出すのにさぞかし難渋したことであろう。
●当時の都市計画から見ると、例えば大坂や堺、江戸などでは市中に物資運搬用の船が往来できる堀や運河を縦横にめぐらせることに重点が置かれていた。「車」の積載量に比較するとまさに桁違いに運搬効率の高い船への依存度が高かったからであろうし、大八車などは近距離用として副次的に使用されていたと考えられる。
●中距離、遠距離まで大八車などが引き回されることは、一部の地域や方角を除いて少なかったものと考えられる。一方、乗用ともなると、近距離なら駕籠や馬の方が地形や道幅に左右されない分だけ有利で、利用度の高さで勝っていたはずであり、ここにも乗用の「車」の普及が遅れた理由があるのではないだろうか。
●堀や運河、川などの多い大都市では当然のことながら橋が掛けられている。当時の木橋ではアーチ型に構造材を組み合わせていたことを考えに入れなくてはならない。万一、橋の上り勾配で力負けして「車」が止まってしまうと、「転がり抵抗」も加わって、再度発進させることには大変な労力を要する。坂の多い地域もまたしかりである。物資運搬用の大八車なら丁稚などに手伝わせることもあったであろうが、このような環境においては人力はもとより、牛馬を使う「車」が乗用の営業運行にまで発展しなかった理由がここにもありそうである。
●都市間の移動となると、とかく問題となるのが箱根、山科といった山道、峠道、そして、当時は橋がなかった一級クラスの河川であったろう。たとえ大名行列といえども、そして大人数のお供がいるにしても、「車」はとかく不便であったに違いない。ここでも駕籠、馬、れん台の方が利用度の高さではるかに勝っている。
●当時の街道を考えてみるにつけ、現存する旧東海道(横浜市戸塚区、保土ヶ谷区内)の道路の幅員の狭さに驚かされる。車幅1700ミリの5ナンバー車が一台やっと通過出来る程度の道幅であり、大八車などが頻繁に往来するにはあまりにも狭い。
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この手の話を以前本で読んだことがあります。

本では「去勢技術が日本には無かったのが原因」として取り上げていました。それが伝わらなかったのか途絶えてしまったのかは解らないようですが、とにかく無かったようです。
 個人的にも一番の要因は去勢技術が無かった事だと思います。他の方が取り上げられている道が狭いなどの理由は一理あるかもしれませんが、根本的にずれているとおもいます。道が狭いから馬車が無かったのではなく、乗馬や馬車が普及しなかった為に、道が狭かったと考えるのが筋だと思います。日本の馬がいくら小さいとはいえ乗馬や馬車の有用性を否定する程の理由にはなっていないと考えます。
見解をまとめると
「去勢技術がなかった為に普及出来なかった。普及しなかった為に街や街道整備、法度、社会などに影響が出た。」
と私は考えます。
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道路事情もあるでしょうが、車輪も関係ありそうですね。

ヨーロッパでは16世紀から金属の車輪が使われていました。後は歴史的に、人の乗ったものを馬に牽かせるというのはやはり馬の大きさによるんでしょうね。

だから飛脚も、馬に人間が乗って早く走れないのだから、人間が走った方が速いと。それとやはり、日本が山の多い国だったからでしょう。チベットだかヒマラヤだかの郵便屋さんは今でも何日もかけて人が歩いて山間部の村々へ郵便を届けるそうです。あれってほとんど飛脚ですね。馬に乗って通れないような山道でも人の足なら通れますから。
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皆さんのおっしゃる通り、日本は山が多いので馬車はやくに立たないと思います。

現在、自動車で走れるのもトンネルがたくさん掘られているからだと思います。トンネルが無い時代には車の通行は不可能でしょう。

また、日本は海の近くに市街地があるので船が使われたのだと思います。
むしろ馬車より船のほうが大きな荷物を運ぶのに適していると思います。馬車は船の使えない大陸で代替的に使われていたのではないでしょうか?
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まずは馬車に適した街道事情ではなかった。

(勾配が多い、平野が少ない割には河川が多くい)それに馬は家畜と言うよりも財産や家族に近い扱いで、耕耘で扱われていた。(東北地方の曲り屋の構造を見れば同じ屋根の下で人間と馬が同居している)更に日本固有の馬は長い距離を走るよりも力仕事に向いていた。などがあげられそうですね。
また農耕民族で各地を移動する理由もなかったので大量輸送の発想がうかばないのではないですかね。

ただ馬が全く運搬に使われていなかったというわけではなく街道の峠越え等には馬を運送に使っているはずですよ。
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あまり自信はないですが困り度3ということで・・



#1・2さんのおっしゃる通り道路事情だと思いますよ。

狭いし、デコボコだし、山も多いし。

江戸時代は防衛上、川に橋はNGでしたし。

それより「馬」ですよね。日本馬は小さいでしょ?

映画とか大河ドラマとかあんなカッコイイものじゃなかったと思いますよ。

それと日本はなぜか馬の去勢をしなかったです。
やはり馬は武士専用の道具だからかなぁ?

途中で交換したりとかも必要だし、金がかかる割りに
「そんなに速くはなかったのでは?」というのが私の答えです。
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日本産の馬は使い物にならなかったでしょうね。

大陸産に比べ小さく、弱く。
義経ブームで、一ノ谷の戦いの検証がよく出版されていますが、そのころの馬を担いで崖を下った武将がいたそうで、担げるほどの馬だったそうです。
大陸に比べ山の多い日本では車はたいへん難儀なものでしょうね。中国でもヨーロッパでも、見渡す限りの平原でないと、車はむしろ不便でしょう。
この二点から、日本では、馬車があまり使われなかったのだろうと思います。
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馬車が通ることができる道がそんなに整備できていなかったのと馬車をつくる職人や材料を加工する技術が発達しなかったから

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