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正岡子規は、俳句の近代化を進めた、と言われます。(なんとなくそういうフレーズを記憶しています)
俳句における近代というのは、子規以前の俳句と比べて、どのような違いをもって言うのでしょうか。

A 回答 (6件)

どうでもいいんですが、クソ暑い中を労働してきて、すっかり煮えた頭でお礼欄拝見して、ぶっ飛びました(笑)。



>とすれば、十七音での完結というのは、どういう要素によってそう感じせしめるのか。その要素がわかれば、その要素をふんだんに踏まえた句が、子規の代表作になるのではないか。

結論的に言いますが、こんなむずかしいことは、わたしにはわかりません(笑)。

ただ、文学史的知識でお答えできる点だけ、いくつか。

まず、発句というのは、連歌のなかの句といっても、また特別なものなんです。
俳諧連歌は、個々の句を鑑賞するだけでなく、発句から終りまでを、移り変っていく物語として鑑賞していくものです。
そのために、いくつも約束事(式目)がある。
みんなで力を合わせて、おもしろい物語を作っていきましょう、というわけです。

なかでも発句は一巻の連句のなかでも、唯一の独立性を持ったものと設定されています(ですから、発句だけを集めた発句集というのも、芭蕉の時代から出されていたわけです)。そのために「や」「かな」「けり」という切れ字を、この句だけが持つことができます。

また、招かれた客が、一座へ挨拶する、という性格があるのもその特徴です。

これはわたしが学校の授業で習って、いまでも覚えているのですが、「古池や蛙飛び込む水の音」は、連歌の席上で発表されたときには、次の句(脇句)がつけやすいように「古池や蛙飛んだる水の音」というものだったようです。

「古池や蛙飛び込む水の音」
「古池や蛙飛んだる水の音」

こうやって並べてみると、どちらが一句としての完成度をもったものか、あるいは、どちらにつぎの句がつけやすいものか、非常にわかりやすいのではないでしょうか。

こういうことは、当時の人々もすでに気がついていて、蕪村が属していた「三菓社」は、いまの句会に近い、発句だけを詠む会などを催していたようです。

つまり、子規もある日突然そういうことを言い出したわけではなく、それにいたるまでの道筋というのは十分にあったわけです。


さて、そのうえで、この世界最小の短詩型である俳句、この魅力はどこにあるか、というのは実に奥深くおもしろいものがあるので、質問者さんもぜひ、今後もいろいろ読んでいっていただきたいと思うのですが、たとえば、たった十七音では、芸術かどうかなど判断できない、と批判する人さえいます。

フランス文学者の桑原武夫なんですけど。
桑原が批判したのは現代俳句なんですが。

桑原が東北大学で教官をしていた当時、一線の俳人の句を十と、素人の句を五、まぜこぜにして、作者名を隠して教官や学生に優劣をつけさせた。
すると、驚くべき結果、というか、句だけでは評価ができない、という結果になってしまった。

桑原は「ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。……作者の俗世界における地位のごときものによって決められるの他はない」と、痛烈に批判します。
そうして
「作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない」(『第二芸術』講談社学芸文庫)、として、俳句を「第二芸術」(一流の芸術に準ずるもの)というのです。

何か、近代から現代へ、という感じで後半は脇道へそれた感じもしますが、子規の「写生論」は、漱石の『写生文』にも影響を与えていますし(こっちのほうを書いたら良かったのかな)、子規自身、いくつかのエッセイも残していて、非常にこれがまたおもしろいものです。

あー、いっぱい書いたらすげー疲れました(笑)。
後半支離滅裂になりましたが、おもしろそうなところがあれば、そこからまた、質問者さんご自身で、いろいろ読んでみてください。
連句の項に関しては、高橋順子『連句の楽しみ』新潮選書を参考にしています。この本もおもしろいよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。暑い中のお仕事、熱中症などとなりませぬよう、ご自愛ください。

大変参考になりました。特に、桑原氏の現代俳句に対する批判のご紹介は大変興味深いものでした。私も、ぜひこの実験をやってみたい。芭蕉、蕪村の十句と、現代俳句十句を並べて、現代俳句とそれ以前に分けさせてみたい。どんな結果が出ることやら、とても興味深いものです。

近代俳句と子規以前の俳句の違いが、完結した文学と連歌の発句という違いによる区分けであることが、理解できて来ました。

子規の書き残したものを少しずつ読んでいます。(『歌よみに与ふる書』なんていうのは、ずいぶん長い間読んでみたいと気にかけていた文章です。)子規はまさに明治の人なんだな、と思います。悪く言えば、言ったが勝ち。よく言えば、偉大な先覚者。私はその若々しさが好きです。
かたや、「薪をわるいもうとひとり冬籠」なんていう俳句を残している子規にも心惹かれます。

松山に行くのが楽しみだ。

ぜひまた、たくさん教えてください。本当にありがとうございます。

お礼日時:2005/07/22 01:52

すいません、えらくわかりにくい話をしてしまいました。


どうもダメだな~。自分の問題意識だけで書いてるな。困ったモンダ。

えとですね。書いたこと、簡単に説明しておきます。
つまり問題意識というのは、子規が「写生文」ということをそもそも提唱した。
身の回りに起こるできごとを、ありのままに写しとる。

ただ、これ、言ってるとおりに受け取っちゃって、いいんだろうか?
そういう疑問がずーっとあったんです。

なんでかっていうと、そこの間に漱石の『写生文』がある。
漱石の『写生文』というのは、ちっとも「ありのままに写しとる」なんてことは言ってないんです。

子規の理論を継承した、とされる虚子は、「客観写生」から「花鳥諷詠」を提唱するようになります。

花や鳥がいる。それを写しとる(客観写生)。

それを繰り返していけば、花や鳥が自分の心のなかに溶け込んでくる。

そうすると、心に映った花や鳥は、自分の心のままに、さまざまに動くようになる。

花や鳥の色を写すのであるけれども、同時にこれは自分の心を写すことでもある。

花や鳥を描きながら、自分の心を描くのだ。

とまぁ、こんな理屈です。
これは、漱石の言っていることと、ものすごくちがう。
漱石は、極端な言い方をしてしまえば、「見ている自分を見ろ」と言っているわけです。

胸の痛くなるようなことがあった。
虚子の理屈でいうと、こうなります。
胸が痛くなるようなことはちょっと脇へおいておいて、花や鳥をよく見ろ。陽の当たる様子、影の様子、風に揺らめく様子。
そのうち、見ている自分の胸の痛みが、花に投影されてくる。
白い花の白が、「悲しい」色を帯びてくる。その悲しみを帯びた「白」を詠え。
これが虚子のいう「写生」です。

漱石は、ちがいます。
胸が痛くなることがあった。
胸を痛めている自分がいる。
その自分を書け。書いている自分は、胸なんか痛くしてはダメだ。できるだけ冷静に、突き放して、胸を痛めている自分を見るのだ。そして、その「ありのまま」を写すのだ。
これが漱石のいう「写生」です。

虚子の方向なら、文学作品がどっさり書かれている。
読み方だってそうです。
わたしたちは高校まで、「この部分で作者はどんな心情でいたでしょう」なんていう質問に、うんざりさせられるくらいつきあわされてきたわけです。

だけど、虚子の理屈でいうと、その読み方だって意味がないわけではない。白い花を詠ったこの作者は、胸を痛めていたのだ、と読みとることに、十分意味がある。

ところが、漱石の方向なら、作者の心情を探ったところで意味はないんです。できるだけ冷静に、突き放して見ている作者がいるに過ぎない。

となると、読者は何を読むのか。それは、作者と作品を切り離し、徹底して作品と向き合うことしかなくなる。
そうしてこの態度は、えらくベタな言い方なんですが、現代的だし、漱石のこの問題意識は十分にいまに通じていくものだと思います。

で、ですね。子規はどんなふうに考えていたんだろう、ということなんです。
わたしもたいして子規は読んでないので、もうちょっといろいろ読んでみたいな、考えてみたいな、ということです。

紹介した大岡の本の冒頭に、松山城は「非常にきれいなお城です」と書いてあります。
子規がいたころの街並みとはずいぶん変わっているでしょうが、きれいなお城はそのまま残っているでしょうね。

いいなぁ。わたしもどこかへ行きたいなぁ。
仕方がないので、『移民の歌』でも聴きながら、仕事に行ってきます("Our only goal will be the western shore")。
それでは、Have a nice trip!
読んでくださって、どうもありがとう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「写生」ということでも、虚子や漱石のようにさまざまな方向に発展して行くものなんですね。なかなか奥深い。

大岡の本は、本屋さんで検索してもらったところ、「入手困難」ということでした。残念。
松山城を楽しみにしていきます。

たくさん書いていただいて、本当にありがとうございます。私のほうに、なかなか理解する素地がなく、心苦しい限りです。前回のご回答いただいた文をもう少し読み直して見ます。

お礼日時:2005/07/28 13:43

こんにちは。

まだ閉じられてなかったので。
前のときに書くのを忘れていましたが、子規の業績を多角的にとらえた本、というか、入門書として最適なのが、大岡信『正岡子規 ――五つの入口』岩波書店です。これは読みやすいし、実に子規が、わずか三十六年の生涯しか生きていないなんて思えないくらい、精力的に、たくさんの仕事をしたか、解説されています。加えて、詩人であり評論家の大岡の目を通した子規の句の解釈も、いくつか読むことができます。これはおすすめです。

えーと、これだけでいいんですが、ちょっと余談を。

漱石との関連ですが、子規と漱石は学生の頃から仲が良かったんです。
加藤周一は『日本文学史序説 下』のなかでこんなふうに書いています。

「子規は、日本の文学的伝統を対象化して再評価するために、漱石を通じて、特定の文化を超える「文学」の一般的な概念を学んだのかもしれない。もしそうであったとすれば、漱石がその「文学」概念をさらに精密に定義しようと試み(知的欲求)、俳句と和歌の枠のなかで子規が発揮しつつあった創造力を、文学のより広い領域にまで拡大しようと考えたのは(自己表現の欲求)、おそらく不思議ではない」

つまり、子規が俳句を文学の枠内でとらえようとしたのも、ひとつには漱石の影響があったのではないか。
そうして、漱石なのですが、まず彼の『吾輩は猫である』や『草枕』、これは子規の「写生文」、「ありのまま見たまま」にその対象を模写するという手法を応用したものだったわけです。

のちに(明治四十年)漱石は『写生文』という文章を発表します(以上引用はすべて青空文庫)。
当時、漱石は全然文豪ではなくて、大学の先生が余技で小説を書いている、ぐらいに思われていたわけです。
当時の文壇のメインストリームは、勃興しつつある自然主義文学。近代日本の文体の基本形が、田山花袋なんかを中心とした自然主義文学として、できあがりつつある時代です。
まさにそういうときに、「普通の小説」=自然主義文学に対して、漱石は「写生文」を提唱する。

そうしてこの「写生文」というのは、
「かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たものである。泰西の潮流に漂うて、横浜へ到着した輸入品ではない」

漱石は「写生文」を説明するとき、おもしろい喩えを使っています。
子どもはよく泣くけれど、親は一緒になって泣いたりしない。写生文家の態度はそうしたものである。
いっぽう、「普通の小説」というのは「隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる」

「そんな不人情な立場に立って人を動かす事ができるかと聞くものがある。動かさんでもいいのである」
この文章は「写生文」ということを考えるときのポイントだと思います。

つまり、ひとつの文学作品を鑑賞するときのポイントとして、未だに言われてるんですが(で、そういうのを見るたびにわたしは内心「けっ」と思うんですが)「人生の真実」が描かれている、みたいな評価のしかたがある。作中人物が泣き、作者が泣き、読者が泣く、未だにこうした作品が評価されたりしているわけです。

漱石は、そんなことはしなくていい、と言う。
じゃ、どうしたらいいのか。

「彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫も凡衆と異なるところなくふるまっているかも知れぬ。しかしひとたび筆を執って喧嘩する吾、煩悶する吾、泣く吾、を描く時はやはり大人が小児を視るごとき立場から筆を下す。平生の小児を、作家の大人が叙述する。写生文家の筆に依怙の沙汰はない。紙を展べて思を構うるときは自然とそう云う気合になる。この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である」

つまり自分のことを書いたとしても、書く自分と、書かれている自分の間に分裂をさせていく。
「写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる」

ここまでくると、ナラティヴの問題とか、わーっとわたしは自分の問題意識でアタマがいっぱいになってきちゃうんで、もうやめますが(ごめん、いらないこと書きました)、単に「写生」――ものごとをありのままに写す、という立場ではなくなってくるんです。少なくとも子規を受けて高浜虚子が進んでいった方向とは全然ちがう。

そういうところで、子規は実際「写生」ということをどんなふうに考えていたんだろう、と思うんですね。
寝たきりになっても、子規は死の直前まで仕事をする。句を詠む。
寝たきりですから、題材なんてあるわけがない。
なのに詠むんです。妻の話まで出てくる(もちろん結婚なんかしてません)。空想で書いてるのね。

そういう子規の「写生」っていうのは、ほんとうに、ものごとをありのまま写す、ってことだったんだろうか、そんなことを考えながら、もうちょっと子規はいろいろ読んでみたいなと思っています。

松山へ行かれるんですか?
いいなぁ。わたし、四国も九州も行ったことがない。
いろいろ見てきてくださいね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

うーん、難しい。何度も何度も読み返してみます。申し訳ありませんが、しばらく理解できないかもしれません。

大岡信『正岡子規 ――五つの入口』は、ぜひ松山に持っていって、道中読みたいと思います。

全然関係ないんですが、日本全国都道府県めぐりというのをやっています。通過した県も含めて、ともかくその県の風景を感じた(飛行機による上空通過はダメ、夜汽車でも、ともかくその県を電車、または車で通過した県はOK。)、県はカウントします。生きている間に、47都道府県を制覇したい。
現在残っているのは、九州(鹿児島、宮崎)、四国(4県)、本州(鳥取、岡山、兵庫、三重、和歌山)の11県です。今回、四国の香川(金毘羅様)、高知(多分桂浜)、愛媛(松山もちろん道後温泉)をカウントする予定ですので、これもうれしい。(たぶん最後に残るのは、和歌山か、三重じゃないかな)
これとは別に、好きな町番付というのもやっています。西の横綱は、山口県の萩なのですが、これは変わりそうもないので、松山が西の大関、あるいは、高知か、そんな楽しみもあります。

お礼日時:2005/07/26 01:20

司馬遼太郎「坂の上の雲」


正岡子規を含む3人の男を主人公にしたお話です。
子規がどんな人で、どんな時代に、どういう風に生きたのか。
非常に簡単にだけど、うまいこと書いていると思います。
途中で死んじゃうので最初の3巻くらい読んでみたら?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

読んだのがだいぶ前なのと、秋山のお兄さんのほうに心惹かれていたので、この作品中の子規についてのことは、不確かな印象しか残っていません。(男の子は、いくつになっても軍記物に魅かれちゃうものですね。)
読み直してみたいと思います。

お礼日時:2005/07/25 01:52

正岡子規は、俳句と和歌に革新をもたらしたのです。


子規の登場以降、和歌ももちろんそうですが、とりわけ俳句という形式は、劇的に、根本的に、まったく変わります。
そもそも「俳句」と呼び名そのものが、明治以降の、近代の産物なのです。

以下、子規の革新の内容を、簡単に見ていきます。

1.俳句を、俳諧の発句としてではなく、独立した短詩型文学として考えたこと

今日、わたしたちが「俳句」として理解している芭蕉や蕪村の俳句は、俳諧連歌の発句として詠まれたものです。
もちろん、当時から、この発句だけを集めた「発句集」を鑑賞することもありましたが、あくまでも、連歌の一ジャンル、正当な連歌からは一段下がった、いわば庶民の遊びである「俳諧(そもそも、ユーモアとか、滑稽の意)の連歌」であったことには変わりありません。

芭蕉はこうした庶民の遊びとしてあった「俳諧連歌」を、芸術の域まで高めた人物であったわけですが、あくまでも、その句は「発句」でした。

子規は、そうした「俳諧連歌」の「発句」を独立し、それだけで完結したものとしたのです。
通常「近代俳句」ということばが指すのは、江戸時代の俳諧連歌の発句ではない、明治以降の独立した五七五形式のもの、という意味です。

2.俳句を文学の一部と位置付けたこと
「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり」(正岡子規『俳諧大要』、『日本』連載:引用は加藤周一『日本文学史序説 下』ちくま学芸文庫)

明治に入っても、俳諧を続けている人々が「俳壇」を形成していましたが、彼らは自分たちなりの、きわめて独特な評価基準を持っていました。それに対して、子規は、俳句は文学の一部であることを主張し、そして、俳句や和歌を素材にし、文芸批評の形式を作り出したひとりでもあります。

3.芭蕉の否定と蕪村の再評価

子規は、俳句を、「うつくしい自然を『写生』することを通じて、作者の感情をつたえるもの」と規定します。
当時の俳壇は、芭蕉を偶像視し、その模倣に終始していました。
それに対し、「過半数、悪句駄句をもって埋められ」と酷評しています。「芭蕉は総て理屈的に作為する癖あり、為に殺風景の句を見ることしばしばなり」(『芭蕉雑談』、『日本』連載)
一方、当時顧みられることの少なかった蕪村を再評価します。その著書『俳人蕪村』のなかで、蕪村の句を題材にしつつ「客観的美」「主観的美」「人事的美」「理想的美」「複雑的美」「精細美」と、さまざまな美について説きます。
こうすることを通じて、子規の「写生」論は深められていき、当時の俳壇に衝撃を与えます。

こうした子規のもとに、高浜虚子や河東碧梧桐らが集まって、雑誌『ホトトギス』が創刊され、このグループはやがて俳壇の指導的役割を果たすようになります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

1について
実は、子規と芭蕉の句を比べたときに、発句と俳句の違いということがあるのではないのか、と漠然と思っていたのです。

芭蕉の業績を「連歌の発句としてあった五七五の十七音を独立した文芸へと高めた」というふうなことを習った記憶があります。
私は、連歌というものを体験したことも、読んだこともないのですが、芭蕉の『奥の細道』の中に出てくる例えば、「アラウミヤ サドニヨコタフ アマノガワ」は、これだけで出てくるわけですから、連歌の発句ではなく、独立した文芸なんだと思っておりました。
ところが、子規の俳句、例えば、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」と読み比べてみると、芭蕉のほうは、次に七七の十四音をつなげてみたい衝動が沸き起こり、子規のほうは、その衝動がない、これで完結している、そう感じたわけなのです。
それで、芭蕉は十七音を独立した文芸へと高めたとはいえ、やはり連歌の発句としての性質を引きずってしまっている。子規はすっかりそれを断ち切った、だから近代俳句といわれるのかと思った。

とすれば、十七音での完結というのは、どういう要素によってそう感じせしめるのか。その要素がわかれば、その要素をふんだんに踏まえた句が、子規の代表作になるのではないか。

2、3もありがとうございました。

お礼日時:2005/07/21 01:10

 あまり大きくは変わりません。

子規自身、近代俳句を主張する一方で芭蕉・蕪村を高く評価し、理想と考えていたわけですから。
 ただ、創作のうえで、題にもとづいて頭で想像した世界を詠むことの多かった江戸俳諧を否定し、「写生」(目の前にあるものを言葉で写しとる)という観念を掲げた点で独創的であるといわれています。また、芭蕉・蕪村の末流である江戸俳諧が、ある部分では芸術性よりも、先例を墨守し(月並俳句)、社交や機知、うがちに終始する低俗なものになりはてている状況をきびしく批判し、対象の切り取りかたの清新さ(先例や通例にこだわらない)をつよく主張した点も注目に値します。
 ただしこうした子規の方向性が俳句の芳醇な味いを失わせた部分も多くあり、「近代俳句」という概念には賛否両論があります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私は、俳句のまったくの素人です。中学高校の国語教科書に載っている俳句を読んだ程度です。とんちんかんなことを書くかと思いますが、お許しください。

>芭蕉・蕪村を高く評価し、理想と考えていた
このことは、子規は俳句の復古運動をした、とは言わないのでしょうか。

今夏、松山を訪ねる機会に恵まれました。仕事ではなく、観光旅行です。漱石も日露戦争の秋山兄弟もおりますが、やはり子規かなと思うのです。彼は、日本の文学の歴史の中で、どのような位置にあるのか、そんなことを考えての質問となりました。ご回答ありがとうございます。いろいろと教えてください。

お礼日時:2005/07/20 00:59

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