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成田空港ですが、都心から遠いし、内陸にあるので騒音問題もありますよね。

土地収用だったまだもめてるし。

なんでこんなところに空港を作ったんですか?

当時は羽田拡張という考えはなかったのでしょうか?

やはり政治の力ですか?

A 回答 (7件)

なぜ成田に作ったのか?は昔、ここに国有の土地が多かったせいです。


土地買収が楽だとたかをくくってたんですね。

今は那須にありますが皇族の食べ物を生産しているいわゆる御料地も
この周辺にありました。空港を作るのに移転させたんです。
今でもその名残で御料という地名が残ってたりします。

羽田は、いくら滑走路を拡張しても、航路に問題が生じます。
西方に米軍横田基地があり制空権だか領空権が制限され、
おまけに皇居もあるんで、渋谷上空から羽田に進入するルートも
検討されるけどだめなんだそうですよ。

政治的といえば政治的ですけど、成田に空港を作ったのは結局失敗
だったことは間違いなさそうですね。
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羽田を拡張する案も当然ありましたが、漁業問題・騒音問題と当時はいろいろな社会問題を羽田は抱えていました。


そこで、千葉県の成田が選ばれて国際空港をつくることになりました。しかし、いまだ成田も問題を抱えています。横風用の滑走路がきちんと整備されておらず実際は2本滑走路はありますが、1本の滑走路には大型の飛行機には対応できません。延長工事も早くから計画されていましたが、住民の反対で結果は北側に延長するところまで決まりました。飛行機は大きくなり
便数も増えてきました。国も一生懸命に努力をしていますが前進は遅々たるものです。
また、空港までのアクセスも東京駅から新幹線を走らせ30分で結ぶ案も今はそのままです。
外国からは成田へ降りる要求は多く、制限枠いっぱいのなかで、運用されています。
最近、羽田周辺の諸問題が少しずつ解決されて、国際線の枠が広がりチャーター便が飛ぶようになってきました。
更にくわしいことは書籍等をお読みください。
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羽田拡張は、このたびの沖合い展開の時代になって、技術的にも可能になったわけで、当時の羽田の騒音問題を解消するためにも、別の陸上空港を作ることが急務とされていました。

海上に実際、国際空港レベルのものをいきなり作ることは、現在でも、なかなか難しいでしょう。
それでも、羽田「拡張」では、とても需要はまかなえません。少なくとも羽田「倍増」くらいしないと。
で、候補地選定については、いろいろとウェブ、書籍にあるので、そちらをどうぞ。
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新空港はどの国でも難しい問題です、


実際にどの国も新空港は遠くなっています、
これは、騒音問題が大きくなってきたからです、
韓国の「仁川」香港の「新空港」パリの「CDG」等
成田だけでなく、新空港はどこも遠くなっています
但し、アクセスは成田以外は便利になりその距離
を補っています、成田も新幹線を走らせて、都心と40分で結ぶ予定でした、駅だけ作って線路は1メートルも進みませんでした、結果的に現在羽田が拡張により機能が強化されているので、当時の政治判断が間違っていたといえるでしょう、しかしNYCのように3つの空港
が必要な時代です、候補の横田を加え、3つの空港を
使い分けるよう、今度は間違えのない政治判断が必要
だと思います、
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 当時は今と違って、東京湾は工業地帯が


どんどん広がっていましたから、空から
見るとここに滑走路を増やすのには
無理があると誰もが感じていたと思います。

 そこで代わりのところとして千葉が
あがったのは、首都圏を千葉まで
拡張しようという目論見だったのだと
思います。

 第一候補は千葉県内の別のところだった
と思いますが、とにかく千葉に交通の
拠点をもうけ、都市機能発展の基礎に
しようといしていたのだと
思います。

 千葉にあるのに東京ディズニーランドと
いうのも将来的にはウソでななくなる
ということだったのでしょう。


>やはり政治の力ですか?

 べつに浜コウさんが独断と偏見で
やろうとしたのではなく、冷静な
判断の1つではあったと思います。

 東京は高度経済成長で、無理やり
急速に拡大したんで、都市としては
問題がありすぎるんです。

 例えば成田空港の後に動き始めた
東北新幹線計画ですが、一度に
東京まで開通できなかったのは、
土地の買収にとまどったからです。

 茨城には筑波学園都市がありますし、
都市機能を東北側に少しシフトしようと
しているんでしょう。東京湾
アクアラインなんかもそういった
理由だと思います。

 ただ時代のほうが重工業から
情報化社会に動いてしまい、
川崎の工業地帯からもかなりの
工場が消えてしまいまいた。

 そこで東京湾岸を情報化
社会に向けて改造するための
基礎が、青島前東京都知事に
よって止められてしまった
都市博及びお台場の再開発。

 規模は小さくなって
しまいましたが、石原さんの時代になって、
このIT化構想が進み、東京湾岸も
変わったことから、大田区の再開発と
羽田の復活となったんだと思います。
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霞ヶ浦を埋め立てて空港にしようと言う話がありましたが、漁民の反対が強く有りました。

 今の霞ヶ浦なら埋め立てて空港にしてしまった方がよかったかもしれませんね。 

それで選ばれたのが宮内庁のお狩場がある成田でした。 ところがそのお狩場が大して広くなく農地を買収する必要があったわけです。 当時は羽田空港の混み具合は異常な状態で、新空港の施工が急がれていました。 そこで国が行ったのが強制執行です。 それが原因でこじれにこじれて現在まで至っています。

果たしてそこまで無理して造る必要がある空港だったのでしょうか。 お狩場などごく一部だし、上空には乱気流が吹き荒れているし。 

確かに羽田沖を埋め立てればよかったのかもしれませんが、当時はその話は有りません。 漁業権の問題があttのかもしれませんが良く分かりません。
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当時は羽田の騒音問題の方が深刻だったようです



参考URL:http://park10.wakwak.com/~tamagawa/ref/ref-16.html
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