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日中戦争というのは、行う必要があったのでしょうか?太平洋戦争については、東アジアに対する侵略戦争であったという側面もあったかもしれまんが(戦ったのは東アジアを植民地にしていた国)、同時に自衛の戦争だったという面もあって納得できます。しかし、日中戦争についてはわかりません。近衛首相は「蒋介石政権相手とせず」なんて何故言ってしまったのでしょうか? 
 歴史はそれほど詳しくないので、なにとぞよろしくお願いします。
 

A 回答 (5件)

人類の進歩が今後も続くとするならば、すべての戦争は必要悪だといえます。


戦争によって古い秩序は解体されましたし、化学と医療が発達し、蚤 シラミ 各種伝染病が激減しました。
日本と中国が戦う必要は無かったですね。
でも 共産ソ連にアジア侵略の強い意図があり、その緩衝地帯として満州を傘下に置くことを考えたのは その当時の軍部の選択でした。
中国が戦場になったのはそういう経緯があります。
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日中戦争という戦争はありません。

正しくは日華事変ですし、昭和16年12月8日以降、国民党政権が対日宣戦布告してからは大東亜戦争の一部です。

そもそも日本軍は、正当に駐留していました。ことの始まりは、明治37乃至38年戦役(俗に日露戦争とも言う。)の結果、南満州鉄道の経営権を日本が譲り受け、この鉄道の警備のため関東都督府がおかれ、警備のため軍が駐留しました。その後、辛亥革命により清朝が倒れ、支那全土が軍閥による騒乱状態になり、居留民の安全が脅かされたため、各国の軍隊が治安維持のため派遣されました。今ならさしずめPKOです。日本も山東出兵に始まり、斉南事変、満州事変、第1次上海事変など軍事行動をとりますが、権益保護のため各国が有力軍閥と手を結んでいたことにより、それを支援していたわけです。

このような経緯で日本軍は支那に派遣されていたわけですが、支那内部では各勢力が覇を競って争っていました。その中には日本と手を結ぼうとする勢力や、日本と対立して、親日勢力を追い落とそうとする勢力がいますから、それらの対立に巻き込まれたというのが実態でしょう。

盧溝橋事件で、最初に発砲したのは、国民党軍と日本軍を戦わせて勢力を削ぎたい八路軍の仕業です。また親日勢力は、長城以南にも日本の援助を受けて政権を築こうとします。

このように日本軍にとっては自衛であり、また親日政権は日本に援助を求めようとしますから、両者の利益があったのでしょう。

近衛首相の発言は、一つは親日の汪兆銘政権がすでに存在していたことや、上海において日本艦隊が蒋介石軍から理不尽な攻撃を受けた結果でしょう。

重要なことは、当時の支那に正当な統一政権がなかったということです。親日派もいれば反日派もいて、互いに抗争を続けていました。それぞれの勢力が、各国の後ろ盾の下で動いていたのです。このような状況では、侵略というものは成立しません。
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>近衛首相は「蒋介石政権相手とせず」なんて何故言ってしまったのでしょうか?



中国共産党と一緒になって抗日運動(戦争状態)を続ける国民政府(蒋介石)に代わる新政府=傀儡政権(蒋介石に反目している人物)を樹立してその政府を相手に交渉をする。


「何だよ、蒋介石! 
国民政府のある南京を占拠・占領したのに降伏せずさらに大陸中部の漢口に首都を移して抵抗するのかよ。
もう国民政府を政府と認めず、和平交渉もしない。お前を嫌っている者(オウ兆銘)に政府を作らせ彼と話し合うからな。」
(注意:オウはサンズイに王様の王です。漢字が無かったです)

こんな感じです。


「蒋介石政権相手とせず」は、事実上の対中和平交渉打ち切りの声明でした。


近衛首相はこう答えています。

もし仮に蒋介石がこの声明のあと和平交渉を言ってきたらどうするか、の問いに
「何でもないことだ。その時はそれでまた方針を変えればいい」、と・・。


【時代背景】

1895年の日清戦争の敗北により清国の弱体が表面化すると欧米列強の中国大陸進出は激しくなり、また日本も大陸への足がかりを一層強いものにしました。


1912年、孫文の革命勢力が決起して中華民国を樹立、ここに王朝・清は崩壊します。

この革命勢力は弱体なもので
封建的地主勢力や欧米列強勢力(もちろん日本も)と結びついた軍閥が中国大陸にいくつも点在。(冷笑を覚悟で言えば日本の戦国時代)


1919年、中国国民党結成
1921年、中国共産党結成

1927年、蒋介石が国民政府を樹立
1931年、毛沢東(中国共産党)が中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立

このことにより国民政府と臨時中央政府の衝突で激しい内戦状態になります。

1937年、内戦を停止して第二次国共合作成立
「国民政府と中国共産党は抗日に協力する」

1938年1月16日
対中和平交渉打ち切りの声明
「蒋介石政権相手とせず」=「以後国民政府を対手とせず」
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日本は八紘一宇、欧米列強による植民地支配からの開放を大義名分に軍をアジアに侵攻させていきました。

当然欧米諸国とぶつかりますが、日本には列強諸国と互角に渡り合えるだけの軍備はありましたが国力に乏しかった。すなわち資源です。そこで中国北東部に満州国という親日の傀儡政権をつくり、最終的には日本の保有していた満鉄の爆破を自作自演するなどの卑劣な手段で自ら戦線を拡大し、どさくさにまぎれてこれを実効支配しようとしたのですね。
当初は政府は何も知らず、一部軍部が独断ではじめてしまったことでしたが、軍の力は歯止めが利かないほど強大にそして政府内にも深く影響力が浸透していたので、天皇でさえこれを追認せざるを得なかったそうです。
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日中戦争は(太平洋戦争もですが)もともと戦略や見通しがあって始めた戦争ではなく、ちょっと強気に出れば中国側が屈服するだろうというなんともいいかげんな見通しで始めたものが、思い通りにならずにずるずると長期化してものです。


陸軍が独創したという面もあるのですが、それでいつまでたっても向こうが屈服しないためにやけくそになってあんなやつ相手にしないと言ってしまったのですが、かえって解決が難しくなりました。
今でもそうですが、日本の政治家や官僚には外交のセンスがなく、しなくてもいい戦争を長引かせてしまったものです。
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