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某掲示板で「神風特攻隊は日本の恥だ。自爆バカ。」と書かれていていました。神風特攻隊とは誇れるものではないのですか?僕は今まで日本国の為に犠牲になり、そのように戦ってくれた事を誇りに思っていましたがそれは、間違いなんですか?

A 回答 (21件中1~10件)

(1) 特攻という戦法は、本来は、レイテ沖海戦の際に「何としても敵空母を叩かねばならない。

非常の戦法として体当たりを」ということで発動されたものです。この背景として「米軍との戦力差が開き、通常攻撃(爆撃、雷撃)での生還率がほとんどない状況。どうせ帰れないのなら、いっそ体当たりしよう」という悲惨な戦況がありました。

(2) 第一航空艦隊司令長官として、レイテ沖海戦時に最初の特攻を命じた大西瀧治郎中将は、終戦の詔勅が包装された翌日に自決しています。特攻隊の犠牲者に詫びる遺書を残しています。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-oonisi …

(3) 残念ながら、レイテ沖海戦の後に特攻が通常の戦法になり、志願ではなく命令によって特攻隊が編成され、特攻が行われるようになりました。下記のようなことも残念ながら事実です。

* 残り少ないベテランパイロットが、教官配置から動員され、旧型の飛行機に乗って特攻。この人たちは、最新鋭機に乗れば敵艦を攻撃して生還可能な人たちでしたが、旧型機ではどうしようもありません。

* 練習機や旧型機に、ようやく単独飛行ができる程度の未熟練パイロットを乗せて特攻に出した。途中で針路を見失って燃料切れになるか、途中で敵戦闘機の好餌になるだけだったでしょう。

* 陸軍で特攻を主導した富永恭次中将は、フィリピンのルソン島に米軍が上陸すると、部下を置いて飛行機で台湾に逃亡しました。前記の大西中将と比べると、その卑劣さが際立ちます。他にも、戦果を期待できない特攻を命じ、戦後に生きながらえた指揮官は万死に値すると言えましょう。

(4) 「僕は今まで日本国の為に犠牲になり、そのように戦ってくれた事を誇りに思っていましたがそれは、間違いなんですか?」
間違いではありません。質問者様の考え方で正しいと思います。
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私は、特攻を手放しで賛美する気にはなれません。

無論、犬死だったなどと言うつもりも毛頭ありませんが。

特攻を賛美する神風特攻観は、敷島隊を送り出した201空司令部の参謀猪口大佐と飛行長中島少佐が戦後に出版した本「神風特攻隊の記録」によって作り出されたものです。この本はベストセラーとなり、一時期神風ブームが起きました。
特攻は表向きは有志による志願制でした。つまり上官は一切関知せず、兵が勝手にやっている攻撃だったわけで、これが「特攻は統率の外道」と呼ばれる所以です。
猪口や中島を始めとする司令部員や海軍上層部は、こうすることで自分への責任を回避しようと考えたのです。実際の特攻隊員の選別は、飛行長などからの指名が主でしたが、それを隠す為、「命を投げうとうとする彼らの気迫に負けた。私は涙ながらに彼らを見送ったのだった」などと白々しく著書に記し、特攻隊員の美談を強調したのです。
要するに、特攻を作り出し、送り出した人間の責任がうやむやになるので、特攻を賛美することは出来ないのです。

しかし、特攻隊員の気持ちは純粋です。たとえ指名されたとしても、命よりも名誉を重んじる日本古来の武士道精神で散華されたのだと思います。
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ちょっとしたものを貼り付けておきます。


私は感動しましたね、この話は・・・

参考URL:http://www.geocities.jp/m_murakata/sinzitu.swf
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特攻作戦は、簡単に善し悪しが言えるものではありません。



昭和19年に川西の研究所が中心となって戦果と損害率の計算を行いました。その結果は300機投入しても帰還1機、戦果ゼロになるというものでした。当時の搭乗員の腕では敵艦上空にすら辿り付けず全滅してしまうという状況だったのです。無論、燃料は有限です。
マリアナ海戦・台湾沖航空戦の状況を見れば一目瞭然です。
また、搭乗員教育も充分ではなく、急降下攻撃が出来るような搭乗員はほとんどおりませんでした。そこで考え出されたのが低空で敵のレーダー網を掻い潜り、攻撃するという方法です。ですが、これも搭乗員の腕がそこそこ要求されますし、新米にはどだい無理な話しでした。最後に考え出されたのが敵艦1mまで爆弾を持っていくという方法です。この作戦に切り替えた結果、命中率が0%から10%になっています。

人間の命を粗末にしたという点では批判されるべきだと思います。ですが、一方で戦果もなく犬死させるより1/10に賭けて、命を賭してもらうしかない状況もあったということです。

神風攻撃は、あくまでも科学的に計算された攻撃方法です。ただ搭乗員に対して「お前らは下手糞だから飛行機ごと突っ込め」と言えない。「神州一億玉砕の先兵となれ」と嘘を言ったのです。

現在の自爆テロは特攻とは似て非なるものです。思想のために自爆攻撃するものであって、喜んでやっています。日本の神風攻撃はせざるを得ないという状況で行ったものです。
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これは回答ではありません



私の父は神風ではありませんが、海軍で特攻の順番待ちの間に終戦になりました。あと一ヶ月終戦が伸びていれば、私がこうして、ここに書いていることも無かったでしょう。

私が知っている話は、大部分、祖母や叔母から聞いたものです。父はそれ以前の戦歴について何度も語ってくれましたが、特攻について(回天なのか震洋なのかは話してくれませんでした)は、結局一度だけ語ってくれたときに、「戦争には、死にに行ったんじゃないんだ」と言っていました。
戦争に死はつきものであるにしても、死を求めて戦場に赴くのではないということではないかと私は思います。とすれば、死が確実な特攻に対し、父は批判的だったのではないかと思います。そういう意味では、少なくとも、命じた者に対する憤りは確実に持っていたのでしょう。まあ、特攻だけではなく、無意味な戦闘全般に対してかも知れません。というか、戦争自体に対する批判かな。

もう、父は鬼籍に入りました。特攻隊にいたことを誇ったことはありませんが、恥じていたこともないはずです。戦後、組合運動や平和運動に献身したことも特攻隊にいたことと無関係ではないと思います。

私は、特攻を誇ることは間違いだと思っています。
誹ることもありませんが、特攻するくらいなら負けを認めればいいじゃないかと平和ボケした頭で思います。負けるなら、上手く負けるというのも戦争のやりかたです。特攻まで行ってしまったというのはやはり間違いでしょう。

平和な今なら、何でも言えますよね。
明日死ぬことを覚悟した人間に「自爆バカ」というのも自由です。自由っていいですよね。
なんか、この時期は戦争に対してナーバスになりますね。
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まず体当たり攻撃は日本だけのものではありません。

ソ連もモスクワ攻防戦で行っています。

日本が特別攻撃隊を編成したのは、当時、すでに通常攻撃で生還がほとんど望めない状況になっていたためです。通常攻撃では不確実な戦果しか望めず、それで戦死させるくらいなら確実に戦果を納めさせてやろうとの配慮から行われたのです。
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靖国神社にある遊就館に行く事をお薦めします。


今年は終わってしまいましたが、みたま祭りというのがあります。
表では18,9の若者が楽しそうに振舞っていますが、彼らと同じ年代の特攻隊員が、お国の為にと尽くしました。枡酒を特攻の前に呑むのですが、怖気ないように中に覚せい剤が入っていたとも聞きます。別れの前に、妻や子に送った手紙なども展示されています。他にも人間魚雷というのもあります。竹やりに爆弾を付けて船底を付くのです。
戦争自体、恥や馬鹿と言う人もいるのでなんとも言えませんが、死ぬのは前線の下の人や周りの人なんですよね、そこに居た元日本兵のお爺さんも「ワシは下っ端で言われるがままガダルカナル島に居た、外から集中砲火を浴びて、震えながら生き延びた・・・戦争が良かったのか悪かったのかは分からないが、君みたいな若者がこうしてワシ達の事を知ってくれるだけで・・・それだけで・・・」と涙を浮かべて語るのですよね・・・
そんな話を聞けるのも残り少ないでしょう。真実を知って自分自身で見極めて下さい。

参考URL:http://www.yasukuni.or.jp/
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”自爆バカ”発現の趣旨はこの自殺攻撃がもたらしたその後の影響についてです。


けして”個々の隊員”に対する評価ではありません。
「生命・人権・自由」の為に交戦している方からすれば”間行為”と思えた筈。
「コンナ想像を絶した連中(間)だから怖くて原爆落としました。仕方なかったんです。」と言われたりろくな事はありません。
今でも米製映画の日本兵の描かれかたは大概”基地外”扱いなので困ります。

良い評価→精密誘導兵器の嚆矢(かもしれない?)
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軍人としての気持ちを考えれば、


簡単な事です。

「自爆行為をしなければならない状況」
に陥った事が恥。

しかし、
それすらも受け入れて、
「日本国の為に尽くす方々がいた事」
は誇りです。
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マリアナ沖海戦以後、日本政府内部では本格的に終戦に向けて動き出しましたが、その際問題となったのは、国内での共産主義革命や、国民や軍部の徹底抗戦派によるクーデターなどによる内戦の勃発の恐れがあることでした。


これを避けるには、国民の抗戦意欲を物心両面から無くさせる必要があり、軍部で主流だった一撃講和論の観点からもどこかで決戦をして戦果をあげる必要がありました。そのため、レイテ沖海戦、フィリピン戦、沖縄戦が行われることとなります。
特攻作戦が採られるようになるのはこの頃ですが、政府や軍部が講和を考えるようになったことから分かる通り、もはや戦力的に普通に戦って勝利を得ることは不可能に近いということを認識していました。
当初、特攻作戦は米空母の飛行甲板を破壊することで、レイテへ突入する海軍への航空攻撃を減らすことを目的としていました。対空防御とは敵機を攻撃位置につかせないことであるのに対し、特攻作戦を撃退するには敵機を撃墜しなければならないため、この任務に関して見ると成功率の高い作戦でした。
これが期待通りの戦果を挙げたために、その後の軍首脳部は同じ目標に何機も突入させれば大きな被害を与えられるという結論に達して、そのためのシステムを作り、作戦を実行したのです。
結果的に、講和のための戦果をあげることはできませんでしたが、国民は継戦に疑問を感じ、米軍指導部は士気の低下を恐れて特攻による被害のピークが過ぎるまで報道しませんでした。日米双方の継戦意欲を削いだことは、混乱の無いスムーズな終戦に向けて一定の効果を与えたことになります。
しかし、確かに敗戦が不可避という現実から、自棄になったような作戦であり、戦死者の数に対してそれだけの戦果と政治効果しかなかったのかと思われるでしょうが、だからこそ戦争の悲惨さ、難しさが分かるのであり、ただ馬鹿にするだけでは、その人が当時の軍首脳部と同じような状況になった時、同じまたはそれ以上の失敗をするでしょう。戦死者を弔い、このことから何を学ぶかが大事だと思います。
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