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江戸時代も後半に入って藩領の実際の石高も増えてきたのに村の石高を改めなかったのはなぜですか?藩の表高を増やすと幕府からの賦役が怖かったのですか?

A 回答 (2件)

表高というのはあくまでも藩の格式をあらわすものでもともと実際の収穫高や検地高とは違いました。


たとうば、薩摩の70万石や水戸の25万石というのはかなり水増しされており、実際の収穫高はこんなにありませんでした。そのため特に水戸などは表高に応じた体面維持に苦労していました。
これに対して長州藩は表高は36万石ですが、江戸時代初期でも実際はこの1.5倍以上ありましたが、関が原で敵対した毛利家の格式はこの程度がふさわしいということでこの表高になったということです。
藩の内部では村高などは変更することは可能でしたが、新田でも開発したときはともかく、藩権力の強い藩でないととしいなかなか改めて新たに検地はできず、また年貢率を改めることも難しかったので、江戸中期までに確定した村高のまま、生産性が上がっても変更できないままに江戸後期もそのままとなったものです。
ですから天領や多くの藩では実際の年貢負担率は江戸時代前期に比べると半分から1/3まで低下していたといわれます。
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この回答へのお礼

なかなか簡単には行かないという事ですね、ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/28 16:41

各藩では村の石高について、はかり方を変えたり、石高を改めたりしています。



最近の研究では、幕府からの締め付けよりは、農民自身の納得を得ることにかなり注意を払ったという議論が多いです。
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この回答へのお礼

改めてますか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2005/08/28 16:39

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