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なんだか憲法9条を廃止しようと言う動きが少し筒大きくなってきているように感じます。
9条が無くなるということは、結果的に人が亡くなると言う事に、つながると思います。
人が亡くなる=死=悪い
自分の頭の中でもこの等式が出来ていますが、なぜ人が死ぬのが悪いのでしょうか?

昔から周りの人に駄目といわれ続けてきたからから?
宗教でだめと言われているから?

同様に、人を殺すのもだめですよね。

なぜ、死=悪い と言う等式が生まれたのでしょうか
そして、これは間違っているのでしょうか?
あなたのご意見を参考にして考えたいので、教えてください。

A 回答 (9件)

 誤解なさっているようですが、「死=悪い」などという考えはこの世に存在しません。

人間が「死」に対して持っているのは自分がこの世から消えてなくなるという「恐怖」と「不安」であり、だからこそ他者の「死」を二度と会えない「消滅」と捉えて「悲しみ」を抱いたり、自分の結末と重ね合わせて忌み嫌います。つまり、「人が亡くなる=死=悪い」ではなく、「人がなくなる=死=消滅=恐怖と悲しみ」になります。もちろん一般的に「死」は忌み嫌われていますが、それは「悪い」からではなく先述した「恐怖」や「不安」から「死」を不吉なものとして遠ざけようという意識があるからです。

 そもそも、いかなる宗教や思想、政治や哲学も「死=悪い」とは言っていません。なぜなら「死」はすべての人間に等しく訪れるものであり、誰も「死」から逃れることはできないからです。つまり「死」は自然現象であって善悪の対象ではありません。宗教や思想、政治や哲学で「悪」とされているのは、「死」ではなく自殺や他殺といった「死の原因」についてです。文面から推測する限り、akamotookiさんは「死」と「死の原因」を混同していらっしゃると思います。

 以上の理由から、ご質問である「なぜ、死=悪い と言う等式が生まれたのでしょうか」の答えは「そのような等式は存在しない」であり、「これは間違っているのでしょうか」には「間違いというよりも“死”と“死の原因”を混同しています」という答えになります。むしろ質問としては「どうして自殺はいけないのでしょうか」「どうして人を殺してはいけないのでしょうか」になるのではないでしょうか。

 なお蛇足ですが、冒頭の「9条が無くなるということは、結果的に人が亡くなると言う事に、つながると思います。」は大げさではないでしょうか。そもそも9条を改正しようという動きはあっても「憲法9条を廃止しようと言う動き」など聞いたことがありませんし(どこかの政党が主張しているのでしょうか)、仮に9条が廃止されたとしてもそれで戦争が起こって人が死ぬかどうかはわかりません。因果関係が明確でないものを持ち出すのは意味がないと思います。
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この回答へのお礼

すみません。
一応、死は恐怖であると言うことは、分かっておりますが、他人が死んだときには、恐怖ではなく「悲しい」や「つらい」と言った気持ちが全面的に出てしまいます。
「自分」の場合には、恐怖にあたりますけれど。

今回、この質問を書かせていだいたのは、無二の親友が死んでしまったからで、それで自分が死ぬと言う事よりも、「他人が死ぬ」と言う立場で書かせてもらいました。
だから、今回、「死ぬ」ではなく「死なれる」とう事のほうが強くなっています。すみません。

あと、9条の廃止と書かせてもらいましたが、それは間違ってましたね。
正しくは、軍の保有と書くべきでしたね。
軍を持つと言うことは、これから先戦争が起こるかどうかはわかりませんが、今までの人間の動き方を見れば、私には悪い方向に向かっているようにしか見えません。

お礼日時:2005/09/07 04:41

あえて死と悪を結び付けて考えるとすると。


人は皆いづれ死ぬ。
この現実を受け入れないのが悪意(煩悩)です。

したがって本来ならあなたの本心ではないはずです。
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限りなく死に近い痛みや、死の直前等の状況下に陥った場合、精神を保護するために


脳内に快楽のホルモンが分泌されると聞いた事があります。
万が一蘇生した場合の為だとも聞きました。

死の直前、又は死の瞬間に射精するのは種の保存といった本能なのだそうです。
疲労困憊したときや眠くなったときに勃起するのと同じだと聞きました。
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 哲学の答えっぽくないかもしれません。


 思いつきで答えさせていただく無礼を許していただけるのであれば…、こうも考えられるのではないでしょうか。

 仮に、“死が悪い”ということをみなが考えているのであれば、それは国家ができあがってから明確に考えられ始めたことではないでしょうか。
 死を賛美し、奨励する国家があるとすれば、その国は自国にとってマイナスの結果しか生みません。
 経済的な打撃などがまず挙げられます。
 現在の少子高齢化社会が問題になっているのは、労働人口の減少による経済的打撃が将来的に深刻になるからではないでしょうか(いや、その前に年金負担者が減るからでしょうか)。
 ですから、法律で自殺未遂を罪とし(たしか)、国を挙げて自殺を抑制しているのだと思います。

 もうひとつは、周りに解消不可能な悲しみを与えるからではないでしょうか。
 すでに死んだ人が、死=悪いと考えられるわけないですから(死後の世界があるのなら別ですけど)、死を悪いものとするのは、生ける者が生ける者へ向けて発信する「死なないで、生きてて」という願望の表れではないかと思います。
 
 繰り返し申し上げますが、以上はあくまで思い付きです。
 こんな考えもあるのではないかと思ってご回答申し上げました。
 
“死=悪い”は、周囲の者が忌避するものであると同時に、国レベルでもマイナスのことなので、そのように考えられるようになったのではないでしょうか。

 まあ、積極的に死にたいなんて私は思いませんけどね^_^!
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この回答へのお礼

確かに、その点は一理ありますね。
経済から見れば一夜にして、10000人も死なれたら困りますものね。
ですが、中国のような出生を制限している国でも死を抑制しているのは、それとは違いますね。
それは、二つ目と言うことでしょうか。


ちょっとやばめな話なんで、気をつけてください。
出来れば、子供は見ないでほしいです。
規約に引っかかるかも知れないので、伏字にします。


死○囚が○殺される時、男性自身から○液を出している囚人がいると聞きます。
これは、死が快感をもたらすものだと言う事の象徴なのでしょうか?
それとも、快感によるものでは無く、人間の生きている価値を私たちに伝えようとしているのでしょうか?
子孫を残して繁栄しなさいと言う。
これについて、どう思うかを書いていただけたらうれしいかな。

お礼日時:2005/09/07 04:59

 死=良い


 という考えはむしろ宗教でたびたび目にします。
 生贄が人である場合、神の御許に行くとされ、羨望と幸福の象徴でした。
 日本の仏教でも即身仏という言葉を聞いた事がありませんか? 断食して死ぬ事は仏になれる良い死でした。
 また、マヤ文明の女神は首を吊って死んだ巫女を祝福するとされていたようです。

 ここからは想像が混じりますが…
 文明が病院を生み出した時点で「死」は身内のモノのみが感じるモノとなり、よくよく学ぶ機会のなくなった「死」は未知のモノ、不気味なモノへと変質していったのではないでしょうか。
 そして末期を看取るのは医者、死体を扱うのは葬儀屋、墓を管理するのは寺といった具合に分解され、親しい人の「死」でさえ人任せの部分が大半を占めるようになった時、「死」とは「手紙や電話に乗ってやって来て、知っている人をもう会えない人に変えてしまうもの」=「自分の敵」となったのではないでしょうか。
 医者など、ごく一部の死と戦う職能を持つ人を除いて、死と戦う患者の姿を見る事は「死」を「奪ったモノ」ではなく「勝ったモノ」とみて患者を戦いで負けさせた事については患者も良く戦った事を知っている分「自分が抵抗もできないうちに知り人を奪っていく不気味なもの」とまでは感じていなかったのかと。「死」に触れなくとも良くなった事が死を忌避する感情の温床となったと考えています。
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「人が亡くなる=死=悪い」って、はじめて聞きました。


僕は全然悪いことだとは思っていません。死は誰にだって訪れるものであり、いたって自然なことだと思ってます。むしろ、死があるからこそ、生は感動的で美しいとすら思います。

そんな素晴らしい人生を、暴力で奪う行為、つまり人を殺すことは悪いことだと強く思います。人生の素晴らしさを知っているからこそ、余計に殺人事件を痛く思います。

「死=悪い」という等式があるとすれば、それは現代のヒューマニズムな教育が生んだ結果かもしれません。生きることに執着するのは、僕はなんだかあまり関心しません。つまり、死に執着している人も魅力感じません。
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死が悪かどうかはわかりませんが、ふだん死を遠ざけているというのはいえると思います。

遠ざける事に関しては少なくとも二通り考えられます。ひとつはそれが醜いものであるから。もうひとつはそれが神聖なものであるから。実はこの二つは同じことともいえるのですが。つまり、醜い=神聖、という図式になると思います。死に関してもこの二つが入り混じっているような気もします。醜い(悪)、神聖(善)といえるかどうか、これも疑問ですが。
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この回答へのお礼

とても不思議な解釈ですね。
まあ死について解釈しようとしたら、必然的にこうなるのかもしれません。
「醜い」「神聖」と言うのは、この場合では視覚ではなく、「第六感」と言うことですよね。
いったいいつから、死が神聖という概念?が生まれたんでしょうね。
少し気になります。
こうやって考えてみると、死について考えることが愚問のようにも思えてきました。
もっとおおらかに、死をむかえてもいいなじゃないかと。

お礼日時:2005/09/07 04:46

 これは基本的に命題としては意味をなさないと個人的には思います。

なぜなら、答えがないに決まっているからです。

 死=悪というのは、確かに歴史的に生み出されたものといってもいいでしょう。つまり、死=悪という図式は、人間の本質的な感覚である以上に、社会的に生み出され、洗練されたものである、ということです。

 どういうことでしょう。つまり、誰よりも国民国家が社会を平静に保ち、管理するために、死を悪として教え込んでいるということです。教育を通してです。これは再生産されるものであり、すでに文化的に浸透しています。

 しかし、死=悪の図式は、いまだ極めて実態的には陳腐なものです。それは所詮、人間の感情に左右されるものです。アメリカで911テロは多くの犠牲を生みましたが、アメリカはさらなる犠牲を許容しました。これは死=悪の図式が極めて曖昧であることを示しています。

 ですから、死=悪の図式は今、人々の普遍的な図式というよりも、
国民国家の管理図式に近いものです。それは経済発展や、秩序を維持するための装置です。

 一方で平和などの美しい言説が存在しながらも、他方でこういう国家の管理図式として機能しているというアイロニカルなものとなっていると思います。
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死とは全ての終わりだからです。


死んでしまえばそこでその人間の全ては終わりです。
夢も、希望も、喜びも、悲しみも、愛する人との係わりも、全て終わりです。

憲法の事はよくわかりませんが、僕にとって「死」=「無」です。
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