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宗教に興味があります。入りたいわけじゃなくて、どの宗がどういう考えでいるのかということなんですがが。自然界にはふつーに生まれてから死ぬまでって生き物の決まり?みたいなものがあるじゃないですか。数学にも公式があるしそれにのっとってなにかを解いていくことができますよね。宇宙の物理学とかもまた新しい法則を発見できたり研究していけばなにかをつかむことができますよね。宗教はそういうふうに研究していけばもっとも良いものがあるのではないかと思っているのですが、ありすぎてなにを見ながら基準にしたらいいかと悩んでしまいます。みなさんはどう考えていますか?ちなみに私は一般人で研究をしているわけではないです。

A 回答 (8件)

私も事情があって宗教には大きな興味を持っている者です。

素人ですが本はいろいろ集めてます。小さな図書館の宗教のコーナーが充実されられるくらいには、宗教関連の本も持ってます。

しかし私も、「何を基準に」など焦点は定まっていません。
また、定まるものでもない・・と感じています。
何故かを語ると長く長くなりますし・・ これは個々人で宗教の定義をさだめればよい話と思いますので省きます

とにかくいろんな視点からの本を多く読むのが良いと思います。
まず自分がどんなスタート地点にいるかを、おぼろげながらでも掴んでおくべきと思うので。
一般論として書いてあっても、著者自信が無意識にでも何らかの思想、宗教と無縁ではありません。そのあたりも押さえながら、出来る限り多様な思想について読んでみることだと思います。
そうやって、自分がどんな思想、感覚をもつ部類に属するのかがおぼろげに把握してから、ほかの宗教を掘り下げていくのが順序と思います。
完璧に客観的になんて絶対に無理ですけどね・・。しかしいままで無縁だった思想に触れるのに、自分の偏見はできるだけ捨てておきたいですからね。

私としては、どれかの思想が一番という順をつけるつもりでは読みません。どちらかといえば共通項を探すという読み方です。
どの宗教が優れているかどうかはわかりませんが、共通項はつまり誰もが同じように悩み感じてきたことのはずだからです。
その共通項に私ははまるかどうか?が興味のあるところです。

以上私の考え方です。参考になれば幸いです。

この回答への補足

とてもためになる考え方です。ありがとうございます。共通項のことにも注目して本を読んでみます。

補足日時:2005/09/11 11:36
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宗教というのは心の平安を求めるもの、


仏教は仏教観ですごくいいものもあると思う。またキリスト教にも同じことがいえます

ただ平安というものの見方が違うという感じじゃないかな。

やはり研究では何もないと思う。
実践あるのみでしょう。見ているだけでは何も変わらないと思う。座って禅をするのもよし、大きな声で
お経を読むのもよし、また教会にいって賛美するものよし、
頭で考えるのが宗教ではありませんので

この回答への補足

当たり前ながら宗教は実践するものなんですよね、まずは友人などに聞いてみながら、その実践で感じたものを聞いてみたいと思います。

補足日時:2005/09/11 11:53
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>宗教はそういうふうに研究していけばもっとも良いものがあるのではないかと思っているのです



あなた自身は「もっとも良いもの」を探し出せるかも知れませんね。

ですが、あなた自身が探し出した「もっとも良いもの」は、他の人にとっても「もっとも良いもの」であるとは限らないのです。
それは、人それぞれ、「理解し、腑に落とせること」が異なるからです。

そうですね。。。たとえば舞台を「教育」にしてお話ししてみましょうか。

たとえば、あなたは「もっとも良い先生」を探し出そうとしているとします。
そして、とうとう「もっとも良い先生」を探し出せたとします。
さて、あなたの評価する「もっとも良い先生」は、誰にとっても「もっとも良い先生」となるでしょうか?

おそらく、ならないでしょう。

あなたの知力(理解力)では、「もっとも良い先生」であっても、小学生とか幼稚園児にとっては「難し過ぎることを言う先生」と感じてしまったり、全く理解不能だったりするのではないでしょうか。

つまり、個々の知力(理解力)の違いによって、「もっとも良い先生」と評価している(されている)人物が異なるのです。

これと同じ様なことが宗教にも当てはめられるのです。
個々の宗教的理解力の違いによって、「もっとも良い宗教」と評価している宗教宗派が異なるのです。

ですので、少なくともこうした「宗教的理解力の違いによって、『もっとも良い宗教』としている観点が異なっている」という視点で見られる様になってからでなければ、(宗教的理解力という基準で)その宗教が幼稚園児向きであるとか、大学院生向きであるとかも、見極めたり、理解して行けるものではない、と思うのです。

もちろん、大学院生向きというのは「高度」ということに間違いはなく、そうした高度な内容の教育が出来る先生は素晴らしいですが、幼稚園児に対してカラダを張って一生懸命教えている先生もいるのですから、どちらの先生が優れているのか?と問われたならば、甲乙付け難くはならないでしょうか?

ですので私は、各宗教宗派の「教え」に高低は存在すると思っていますし、それを論じることがあっても良いとは思いますが、「先生」には高低を付けたりして評価すべきではないと考えています。

この回答への補足

ということは生徒側がいかに深い(それはうまくはいえないのですが)ものを求めているかによって、それは簡単な教義の宗教であるかもっと深く突き詰めたと思われるような宗教か、が、少しは見えてくるのではないかと考えさせられました。スナック菓子があれば何十年もかかって極めた巨匠の一品というふうに何に満足するかでというのもあるかもしれないかなと思いました。んー…宗教というより人の方の見解になってしまいましたが(^^;)

補足日時:2005/09/11 11:46
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キリスト教の基本的な考え方は以下の通りです。



1.人間はもともと神様によって造られた素晴らしい存在
2.しかしアダムによって、全人類に罪が入り込んだ
3.罪の結果、死ななければならなくなった
4.すべての人間は罪の中に生まれ、罪を持つ存在
5.罪を神様は容認されず、最後に裁かれる(永遠の死)
6.しかし全人類の罪をゆるすために、イエス・キリストが生まれた
7.イエス・キリストは全人類の罪の刑罰を身代わりに受けて
  十字架で死んでくださり、3日目によみがえられた。
8.イエス・キリストが私の罪の身代わりになって死んでくださったことを
  信じ、罪を悔い改めるとき、そのゆるしを受け取ることができる
9.ゆるされた人には、永遠の命が与えられ、死んだ後天国で永遠に生きる

聖書のローマ人への手紙の3章から10章までをお読みになると、
だいたいわかると思います。

聖書の言葉
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙 3章23~24節

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために
死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに
しておられます。
ローマ人への手紙5章8節

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
ローマ人への手紙8章1節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節
(ひとり子=イエス・キリスト、御子=イエス・キリスト)

以上です。

この回答への補足

キリスト教は漠然とアダムとイヴのことしか知らなかったのですが基本的なポイントを押さえることが出来ました。図書館でもっと深く知ってみようと思います。

補足日時:2005/09/11 11:43
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私は学生時代カトリックの学校に行き、自然と洗礼受けました。

何十年と信者をしていて、その間悩みも多く仏教の本もよく読みました。宗教はどれも行き着くところ同じと思います。今の私はただ「カトリックに呼ばれた」と思っています。昨日聖書の講和で「キリスト教の原点は新約聖書マルコ1章「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて復員を信じなさい」これがエッセンスだと教えを受けて納得しました。つまり人間はすべて自己中心的であるゆえ、心の軸を神を中心にしてまわりなさいとのメッセージだそうです。
私は仏教も同じと思いますが、参考にカトリック新聞のURLを入れておきますね。私は所詮カトリックで道を探している者ですから。
信じれると少し心の安らぎが他の方よりあるとおもいます。
仏教で命のことをお坊さんが「銀行の貯金とおなじ預かりものでっせ」というのがこころに響いています。

参考URL:http://www.cwjpn.com/

この回答への補足

何かに属していてもほかのものの考え方を知っていくことは大切なんですね、何を軸にするのかでその人の特性が生かせたり日々を良いものにしていけるかが変わるのかなぁと思いました。

補足日時:2005/09/11 11:39
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僕の個人的な基準を申し上げますと・・・



人が集団生活(社会)を営む上で、どの宗教が最も社会の秩序を保ちうるのか、というところに重点を置いて考えます。
宗教ではないですが今主流の民主主義を例に挙げますと、私たちは民主主義が社会の秩序を保つ上で最も適した考えだ、と思っているからこそこの民主主義が今日主流の考え方になっているのであり、それが本当に良いという絶対的な答えはありません。人は機械ではない以上、法規からの「ずれ」によって理想の実現が阻まれるのが常ですから、民主主義なんかよりも整理された主義もしくは宗教的な考え方があるかもしれません。
今日何かとアブナイとされるイスラム教も、他にテロなどを仕掛ける為にできたのでは勿論なくて、理想とする社会の形や個人の生き方を目指す為に宗教ができたのです。誰も好んで、もしくは無目的に他に危害を加えたりはしません。

どの宗教が集団生活を成り立たせる上で最も矛盾を含まないか、ということに基準を置いてみる方法もあります。

この回答への補足

>どの宗教が集団生活を成り立たせる上で最も矛盾を含まないか、ということに基準を置いてみる方法もあります。

本当に私は何も考えていないなと思いました。このような基準に立つ考え方も良いなと思わせられました。人に聞く前にまず自分の知識や見方を深めて、人と話し合っていきたいと思います(^^)

補足日時:2005/09/11 11:56
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基本的には本を読んだ方がいいと思います。


一般論としておさえることが重要です。

 しかし、宗教の難しいのは宗派の存在です。私はキリスト教に属しますが、本にはせいぜい10かそこらしか宗派がありませんが、現実には一節には3000ともいわれています。それらの考え方は同じともいえますが、違うともいえます。それを前提として少しお話します。
 宗教の原則は科学の原則とは異なります。現在、科学は真理は存在しないというのが基本論理です。正確には世界は多元であり、それを容認することが重要であると考えています。
 宗教は多くの場合、ほとんど1つの真理、キリスト教は聖書に基づく神の教えをその唯一の原則とします。われわれの道徳、考え方、生活規範など、あらゆる源泉はこの聖書であり、それこそが絶対です。
 
 難しいのは次の問題です。

 科学の原則によれば、宗教は科学の一部の研究対象と位置づけられますが、ここでの宗教とは、あなたがいわれるように研究すれば明確になるものと考えています。一部の神学者や聖書学者、歴史学者も基本的にこの考えに染まっています。
 ところが、宗教の原則、少なくともキリスト教は、そういった研究に必ずしも基づかないとしているのです。それは例えば、啓示と呼ばれています。啓示は、文字通りの勉強ではなく、わたしたちの敬虔なクリスチャン生活のなかで獲得されうるものとされています。
 ですから、この点のずれがあることはご了解ください。

 いずれにしても、宗教に優劣はつけることは不可能です。なぜなら、妥当な基準が存在しないからです。その意味で科学が多元を包括するということで、宗教の自由や共存という帰結に世界が向かっているわけです。

 社会科学では、宗教の研究というのは厳密にはやっておらず、正確には宗教が個人や社会に与えるインパクト
(影響)に注目します。分かりやすく言えば、文化などとどう結びついているかということです。

 ですから、一般的な宗教は『世界の宗教』といった類の本で学ぶのがいいでしょう。ほかには『宗教社会学入門』など。

 
 

 


 

この回答への補足

回答ありがとうございます。
確かに価値観はそれぞれでみながいろいろな宗教に属しているんですよね、社会科学での宗教についてのとらえ方ははじめて知りました。インパクトに注目するんですね。本を読んでみたいと思います。

補足日時:2005/09/11 11:32
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物理の法則などは客観的に観測されるデータを元に検証が可能です。


しかし、人間の幸せや生き方の価値観のような主観的なものは
客観的な検証が不可能です。
従って、物理のように
 目に見える事象を検討→全てを説明できる仮説を作成→データを元に検証
という手順は踏めません。

そもそも「優れている」という観点自体が非常に主観的であり、
「何をもって優れているか?」
という指標値自体が人それぞれのため決められないでしょう。
逆に万人を納得させるだけの指標値を出せたとしたら、
その時点で一つの宗教が完成だと思います。

この回答への補足

そうですね、何が優れているのかというところが主観的でした。考えさせられます…ありがとうございます!

補足日時:2005/09/11 11:29
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