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源頼朝が征夷大将軍になり武家政治が行われたとき、律令政治はなくなったのですか?
武家政治が日本全国に及ぶようになったとき律令政治はどうなったのでしょうか。
朝廷は政治に関れなかったのですか?
武家政治と律令政治は役割が単に違うだけなのですか?わからなくなったのでおしえてください。

A 回答 (4件)

「律令制度」は戸籍をもとに人民一人一人に租税・労役・兵役を義務づけ、それを管理する末端まで伸びた官僚組織で運営されていました。

大宝律令(701年)~延喜式(967年)が日本の律令格式が制度として機能していた時期にあたります。

武家の台頭する以前に、すでに桓武天皇の「新制」によって「令外の官(蔵人・検非違使etc)」が置かれ、その後度重なる格式の制定が行われていますが、制度としては徐々に崩壊していきます。このあたりになると律令と言うより公家の慣習法的な部分が多くなりますので「公家法」とした方が良いかもしれません。

「律令制度」の崩壊は、班田収授制と言う公田を有資格者に貸して租税を徴収し、有資格者の死と共に収用する制度が、743年に制定された墾田永年私財法によって、機能しなくなったことが原因だと思われています。

武家が武力を背景に荘園を横領していく鎌倉時代以降は、「貞永式目」などの「武家法」が地頭や守護を通して実効性を伸ばしていきますが、天皇支配下の荘園や有力貴族寺社の支配下の荘園において「公家法」は生きていました。官僚制を伴わない請負支配の為に「律令制度」とは全く異なるものでしたが。

律令政治を律令制度として見るならば、平安時代の後期に既に崩壊しています。

律令政治を公家政治と言う意味で捉えるなら、室町時代の前半まで、公家の支配は武家に押されながらも、膨大な天皇の荘園領を背景に実効性を保っていました。

また、一部の律令は法律として明治維新にいたるまで実効性をもっていたようです。
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いわゆる「律令政治」の律令は、基本的に中国の唐の制度を受け入れたものです。

しかし、その当時貴族の地位とか、宗教のあり方とか、支配の現実が中国と大和政権のあいだではかなりの違いがありました。
そのため、平安時代既に律令は元の姿を失い、数々の令によって別の実体があった、といったほうがいいでしょう。
そういうことで律令そのものは廃止されることなく明治まで続く、といってもいいのですが、ただ実効ある法体系としての姿は武家政治に至る前に既に失われていたと思います。
実際にあったのは宗教的な支配力でしょう。もとは神によるものなのですが、奈良時代あたりにその力は次第に弱まり、かわりに仏教(とりわけ天台・真言の2代密教)が支配の鍵になります。鎌倉幕府ごろまではなおそういうものが残っていて、実質2重政権的な要素がありました。
しかし南北朝あたりから実質的な権威が武家政権側にうつります(ただし、権威付けに天皇の存在をなお使っているのですが)。それとともに天皇による政治、というものが最終的に形式のみになり、律令は完全に死文と化するわけです。
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鎌倉幕府のもと、最初の武家法である「貞永式目」を執権北条泰時が定めたとき、だいたい以下のようにいっています。


「この法は武士のためのもので、朝廷・公家の法である律令は少しも変わるものではない」要するに、鎌倉時代は武家は武家、公家は公家でやってたわけです。

時とともに武士の力が強くなって、律令政治(公家・朝廷勢力)は次第に現実的なな力を失ってはいきますが、律令政治の基本法である大宝律令(701年)および養老律令(718年)は、形式的には明治の内閣制度発足(1885年)や、大日本帝国憲法制定(1889年)まで存続します。

江戸幕府の長である将軍(正式には征夷大将軍)や、時代劇で有名な大岡越前守や水戸中納言光圀のように、越前守や中納言のような官職も、形式上は幕府の承認のもとで天皇(朝廷)によって任命され続けます。その他の官職も、実権はないにせよ(形式上は)任命されます。

つまり、律令政治のトップは天皇ですが、天皇自らが政治のトップとして君臨することはまれで、その時々の実力者に政治の権限をまかせることが普通でした。たとえば公家(藤原氏の摂関政治)や武家(征夷大将軍の幕府政治)。だから落ち目の江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜は「政権を朝廷に返上する」=大政奉還をやったわけです。

いわば朝廷(律令)は形式的な権威・枠組み、幕府政治は現実的な権威・実効支配を使い分け、分担していたといえるでしょう。

その意味では、現在の象徴天皇制や、憲法と自衛隊のように理念と現実を使い分ける政治にみられるように、この使い分けのテクニックは日本(人)の伝統的手法といえるんじゃないでしょうか。
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源頼朝が鎌倉幕府を開いたときは、まだ武士を支配することと軍事・治安をつかさどっただけで、一般行政権は朝廷にありました。

ですからその頃はまだ武家政治と律令政治は並存していたと言えるでしょう。
それが承久の乱や蒙古襲来などを経て武家が朝廷の力を圧倒して全国的な支配権をもつようになりました。
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