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旧国名についての質問です。

越前・越中・越後や、上野・下野等、
旧国名は都の京都から近い順に、前・中・後、上・下と名づけられていると聞きました。
しかし、上総と下総の場合、下総の方が京都に近いと思うのですが、上総と下総の名前の由来について是非教えて下さい。

A 回答 (5件)

現在は通行容易ですが、中世には陸上交通が困難であった地域として、東京湾奥(旧利根川河口)と伊勢湾奥(木曽川、揖斐川、長良川河口)があります。

いずれも、大河の氾濫原で大雨ごとに河道が移動し、人が定住できない地域でした。

ですので、戦国時代末以降に治水工事が行われるまでは、

* 関東南部の東海道は、相模の三浦半島から海を渡って房総半島へ。上総・下総の国名の理由です。

* 関東地方の東山道は、信濃の軽井沢から上野に入り、内陸部を南下し、武蔵の西部(川越から西)を通って相模の鎌倉へ

* 伊勢湾付近の東海道は、伊勢の桑名から海を渡って尾張の熱田へ

と言うような具合でした。

現在では地価日本一の東京23区地域は、中世には多くの地域が無人の湿地か遠浅の海だったわけです。
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補足というか蛇足。



武蔵の国は、昔は東山道でした。
上野からの支線として武蔵があったわけです。
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昔の東海道は相模から海を渡って安房や上総に通じていたようです。


鎌倉時代、創生時の衣笠合戦に敗れた三浦氏は三浦半島から、石橋合戦に
敗れた頼朝は真鶴岬から、それぞれ阿波に渡っていますから、往年は
海上の行き来が安易だったのかも知れません。
私も利用しましたが、今でも三浦半島の久里浜から、対岸の千葉県金谷に
フェリーが運航されています。
ご存知でしょうが下総のどんじりは、江東区の両国で武蔵に接していた
訳ですよね。
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参考 URL にあります。


昔の武蔵野は湿地帯で通行しにくかったという話もあるようです。

参考URL:http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/lang …
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昔は街道があまり整備されておらず、陸路よりも海路の方が使いやすかったわけです。


まして、陸には潜むところが多く、野盗なども多かったわけですから、海路が重宝したのは想像に難くありません。
で、問題の上総下総ですが、東京湾は波も静かですし、三浦半島あたりから房総半島へ渡る方が移動しやすかったわけですね。それから、北へ南へ行くわけです。
だから、房総半島でも今の木更津辺りを上総としているわけです。
北方は下総で、南方は安房ですね。
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