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こんにちは、私は家族で天理教の信仰をしているものです。私は、布教所長さんから、「恋愛結婚はくっつき結婚であり、それゆえ、「苦」がついて回るからだめだよ」といわれてしまいます。更に、「布教所長に言われた人と結婚しないと幸せになれない。恋愛とは、色情因縁であり、その後の運命は良くならない。」とも、いわれました。私は、天理教は嫌いではないのですが、これだけはなんだか納得がいきません。これは、「恋愛、人間関係」のカテゴリーで質問すべきかどうか迷ったのですが、宗教関係の相談がここに多かったのでここにしました。これは、うちの布教所、分教会だけなのでしょうか、他の布教所、分教会に所属している人の回答がほしいです。よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

お礼ありがとうございます。



>「生みの親よりも育ての親、育ての親よりも理の親」と教えられております。
私は、両親が理の親だと思っています。親もそう言います。産まれたときから天理教なので、この家に産まれなければ天理教を信仰していないと思うからです。

>この本には縁談は、「本人同士、親々、家」の順で考えるのが好ましいと書いてありましたよ。
これもびっくりです。僕の布教所で言われていることと180度違う答えです。僕の布教所では「所長様、家、親、本人同士」の順になります。まったく逆ですね。
「本人同士、親々、家」の順というのは、はこの本に限らず、青年会から出されている本や、おさしづの要約が書かれている本にも書いてありましたよ。

役員さんの講話の話びっくりしました。
皆の前で、今の妻と結婚するのは正直嫌だったと言うなんて…
『この布教所で所長様のお世話で結婚した人のなかで、この人と結婚したいと思って結婚した人はほとんどいないと思います。好きでない人と結婚して好きになる努力をするのです。これがお道の結婚なんです。』
そうですか…そんな結婚しか許されない天理教なら私は辞めたいですね…
そんな話初めて聞きました。

いくら好きな人と結婚しても、相手の嫌な所は必ずあります。でも、それをお互い許しあって、たすけあって、夫婦円満でいられる努力をすればいいのであって、無理に好きじゃない人と結婚して、好きになる努力をする必要まではないと思いますけどね…

でも、前生のいんねんあるものを寄せて結びつけると言われるので、そうゆう形で結婚されたのならそれもまた因縁なのでしょう…

私は、数ある教会のなかで自分が所属している教会というのはやはり因縁が同じものが集まっているのではないかと思っています。
そう考えると、そちらの布教所で言われる色情因縁や、結婚観なども他の教会と少し違うと思いますが、ちゃんと意味があるのでしょう。

この本は、天理図書館の閲覧室にあったと思います。貸し出し禁止だったと思いますが…
辞典なので色々載ってておもしろいです。
ぜひ、夫婦の所も読んでください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
お礼が遅くなってごめんなさい。
僕は天理教における恋愛や結婚に対する色々な考え方を聞くことができてとてもよかったです。
しかも僕の所属している布教所はともかく、天理教全体の教えとして、恋愛自体を否定していないことが分かり、少し安心しました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/11/14 00:20

こんにちは。

たびたび登場です。
別件で、「天理教辞典 天理大学おやさと研究所編」というものを見る機会があり、そこに載っている「結婚観」というところの抜粋を載せますね。
全文は無理なので、hisanoriさんが気になるところだけです!

~人間は、恋愛や見合いや、どんな仕方で結婚しようが、実は、それぞれの前生の「いんねん」あるものをよせて、親神の守護によって結びつけられるものであるといわれる。これをしっかり理解するところに夫婦の末代の治まりがあり、幸いがあると示される。
「おさしづ」において、結婚、縁談について考えられるところは、その方法に重点があるようにはうかがえない。一般には、見合結婚、あるいは恋愛結婚の呼び方でなされるのが普通であるが、いずれでなければならぬという規定はない。~

と書いてあります。この本は家にある1977年の初版本で古いですが、いろんな先生方が集まって作られたもののようで、天理図書館にも置いてあると思います。
お手元になければ、天理へ帰られた時でもぜひ全文読んでいただきたいです!!

一人の先生が書かれたものだと、その先生のかたよった解釈があるかもしれないと思い、この前は抜粋載せませんでしたが、これなら布教所長さんに見てもらってもいいんじゃないでしょうか?
ここにはこう書いてあるけれども、どうしてだめなのか私もぜひ聞いてみたいです。

前回、昔は教祖さまが言われた人と結婚していたかも…と書きましたが、教祖伝をパラパラと見てみると、教祖さまの娘さんは、別のかたの仲人でお嫁に行っておられるようです。(またうろ覚え…)

>教会や布教所に伏せこむことによって、悪い因縁をすりかえることができる。すなわち、教会に伏せこむのは悪い因縁から逃れるため、というのがあります。

>また、所長様、会長様の言うことを素直に信じきってとおるのが、一番助かる道である。と教えられています。

このことは、そのとおりだと思います。でも、産みの親はここに入らないんですか?
この本には縁談は、「本人同士、親々、家」の順で考えるのが好ましいと書いてありましたよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
上記の本によれば、恋愛であろうと、お見合いであろうと自分の因縁どおりの人と神様が引き合わせるということですよね。確かにこの考え方であれば納得できます。僕も多分自分の因縁や自分が持っている徳に合った人と一緒になるものと考えています。したがって、今までに振られた女の人は、自分の因縁の人ではなかったと思っています。

>このことは、そのとおりだと思います。でも、産みの親はここに入らないんですか?
私の布教所では、「生みの親よりも育ての親、育ての親よりも理の親」と教えられております。
>この本には縁談は、「本人同士、親々、家」の順で考えるのが好ましいと書いてありましたよ。
これもびっくりです。僕の布教所で言われていることと180度違う答えです。僕の布教所では「所長様、家、親、本人同士」の順になります。まったく逆ですね。
少し前に、僕の布教所の役員の講話があり、それによれば、「僕は、最初は今の妻と結婚するのは、あまり気が進みませんでした。正直言っていやでした。この布教所で所長様のお世話で結婚した人のなかで、この人と結婚したいと思って結婚した人はほとんどいないと思います。好きでない人と結婚して好きになる努力をするのです。これがお道の結婚なんです。お道の人はこのように結婚して幸せになっていくのです。」僕はこのような結婚の仕方はちょっと納得できません。他の教会でもこのようなやり方をしているのであろうかと疑問に思っていましたがどうやら違うようですね。僕の布教所が特殊な例であるような気がしてきました。
 僕は、所長様に勧められた人との結婚もひとつの選択肢であると思いますが、その場合であっても、(その人と結婚するかしないかは)私及びその相手双方がお互いにこの相手なら結婚したいと思わない限り、ちょっと無理なのではないかと思います。たとえ僕が気に入った相手であっても、相手が嫌がっており、そして、所長様に言われたからしょうがなく一緒になったとしたら、僕はあまり良い気持ちがしませんし、こんな結婚をしてうまくいくのであろうかと疑問に思ってしまいます。
 なんとか回答者様の引用された本を手に入れて、またはどこかで借りてその部分を読んでみようと思います。また、ほかの部分ももしかしたらこれからの信仰のあり方を教えてくれるかも知れませんね。
 ありがとうございました。
 

お礼日時:2005/11/03 22:23

こんばんは。


kamuycikapです。
またまた、長文ですすみません。

hisanoriさんのお礼・・・とても重く私に響きました。
同じ教理をひながたとさせて頂いている私たちの受け取り方により、いろいろな考え方があるようです。
だからこそ、これが正解となる物をずっと探し続けるのかもしれません。

>「信仰を離れ、伏せこみを怠ると因縁どおりの悪い運命になる。だから、教会に伏せ込みなさい。」
>といったことをいわれます。ですので、信仰を離れることなんで、怖くてできません。
>お道のこころが離れることによって、恐ろしいことが起こるのではないかと思ってしまうのです。

信仰を離れると因縁どおりの悪い運命になる・・・・・
これには色々な意味が含まれていると感じます。
色々な意味とは、教理をお手本としたときに、人によっては全くかみ合わない解釈をすると言う事です。

まず、言える事は私の信仰とhisanoriさんの信仰の意味合いが全く違っていると言う事です。
そして、その違いが、今のhisanoriさんの心にひっかかり、疑問に思い、その疑問が膨れ上がることで掲示板への
書き込みに踏み切ったのですね。
「他の教会でも同じなのだろうか??」
そんな疑問を持ったのですね。

もし、はずしていたらごめんなさい。
私にはそのように感じました。

>恋愛だって同じです、今僕は、恋と言えるほどではありませんが好意がある女の人はいます。しかも、僕はもてな
>い男ですが、今まで好きになった女の人は、何人かいます。
>したがって、このようなことをしていると、このことが原因となって悪い因縁が出るのではないかと怖くなるのです。
>ただ本当にそうなのか疑問に思ったのでこのコーナーで質問させていただきました。

やはり、事の発端はhisanoriさんの女性への気持ちの表れだったのですね。
hisanoriさんとのたった数回のメッセージですが、hisanoriさんの疑問の原因と想いが少しずつ伝わってきました。

>そうですね、多分認められないと思います。
>認められるためには、相手も天理教を信仰することを約束しなければならなくなると思います。そのことを相手が拒否したら
>結婚は多分できません。

これについては、同じような方が沢山いらっしゃると思います。
ただし、やはり信仰の意味合いを考えなければなりません。

>これはたぶん困難であると思います。その理由は、回答に書きました。しかも、最近、父の体調が思わしくなく、ここで、信仰
>を離れてしまうと、そのことによって父が出直してしまうのではないかと思うと怖くてできません。
>もし、そのようになってしまうと、僕が父を死なせてしまった形になってしまいます。
>父には絶対に助かってもらいたいので、今は無理です。
>僕は、お父さんは助かってほしいと思っているのに、一部は納得できないなんていってると、なんて現金なんだろうと思ってしま
>います。こういうときこそ、神様にすがらないといけないのですけどね。

信仰から離れることでお父さんがなくなる可能性があることを考えているのですね。
そして、それが起こってしまった時、hisanoriさんは自分の責任・原因であると考えるのですね。
天理教の教理として布教所長さんから伝えられていることを全面的に信用できない状況が自分に発生し、それが葛藤となって
いる・・・

1.信仰を離れると、伏せこみを怠ると因縁どおりの悪い運命になる。だから、教会に伏せ込む必要がある。
2.恋愛が原因となって悪い因縁が出るのではないかと怖くなる。
3.交際相手・結婚相手も天理教を信仰することを約束しなければならなくなる。
4.信仰から離れることで父親の病状が悪化し亡くなってしまうかもしれない。

あえて、私は上記の4点を書きました。
なぜならば、hisanoriさんが疑問に感じている事が上記の内容についてだと思うからです。
上記の内容がはたして正しいことなのかどうか・・・・

私が書き込むたびに伝えることなのですが、ここから書くことはあくまでも私の主観であることを伝えておきます。
私の書き込みはhisanoriさんの信仰感を変えてしまうかもしれません。
しかし、私のような考え方もある事を知ることで、hisanoriさんの心の葛藤の解決になればと思います。

3番については、私も分かる気がします。
家族ぐるみで信仰していて、結婚するならば信仰をする必要があるでしょう。
少なくとも、信仰を嫌いではない事が条件になりますね。
ただし・・・信仰の意味合いが大きく関係すると思います。

人に感謝する気持ちを忘れてはいけない。
必要以上に欲しがったり、人をやたらに憎んだり恨んだり、高慢になってはいけない。
常に謙虚な気持ちを持つことを大切にしなければいけない。
血のつながってない人であっても、大切にする気持ちを持つ事・・・

などなど・・そんな当たり前の事を意味深く伝えてくれるのが教理であり、ひながた「お手本」であると教えられ、
そのお手本を信じ、忘れずに実行することを「信仰」と私は思っています。

奇跡を信じて教会に通うのではなく、辛かった事や苦しかった時のことを忘れないために教会に足を運びます。
奇跡を信じることが悪いのではありません、しかし、私は奇跡を得るために信仰をしているわけではありません。

信仰から離れたら、家族に不幸が訪れるのでしょうか?
信仰をやめるから悪い因縁になるのでしょうか?
信仰とは悪い因縁から逃げるための方法なのでしょうか?
奇跡とは、毎日の幸せを大きく感じさせてくれる神様からのプレゼントだと思っています。

父親の病気が良くなって欲しい。だから信仰を一生懸命にしよう。
この考えは決して間違ってはいません。
が・・しかし、その信仰とはどのように行うのでしょうか?

私ならば父親が幸せな気持ちになるように、楽しくなるように心を運びます。
父親に暖かく幸せな気持ちになってくれることに全力を注ぎます。
なぜならば、それが天理教の教理であり信仰であると自信を持っているからです。
神様にすがり、必死に願うことで病気が治るのでしょうか?
信仰とは神様にすがり必死に回復を願うことでは無いはずです。
困ったときに、さらに神にすがる気持ちもわからないでもないですが、信仰とは違う
はずだと思っています。

私は思います。(もちろん信仰をしている一人の人間として)
信仰をしていても、していなくても、交通事故にもなります。
交通事故は色情因縁が原因だとは思っていません。
肉親が亡くなることもあるでしょう。
自分自身が・・もしかしたら、明日の朝に命を失うこともあるでしょう。
その原因が信仰を行わず、教会に伏せこむことをしなかったせいだとは思いません。

起こるべき事は神のみぞ知ることですから、運命というものがあるとするならば、それまでどんな事をしていても
死ぬときは死に、不幸が訪れると思っています。
では、信仰のメリットとは???
私は、運命と呼ばれる物を全うする時に、どれだけ幸せを感じ、どれほどの幸せを分けてあげられるか・・・
信仰を忘れない事で、幸せをさらに感じることが出来る。それを実感して喜べる事です。

そのような観点から、恋愛についてもやはりこのように思います。
出会いや別れ、時に失敗して人を巻き込んだり、情けない結果になったりすることもあります。
成功するよりも失敗するほうが多いです。
しかし、その中にも人を憎むことを思わず、結果から自分自身を悟らせていただく気持ちを忘れず、
信仰を通じて心の精進を考えさせていただく。
人との出会いを、恋愛が理由として悪い因縁の原因とは絶対に思いません。

私が書いた内容はhisanoriさんにとって・・・非常に否定的な内容であり、今までの信仰感を覆す物かもしれま
せん。
今、心のよりどころとして信じているものを破壊してしまうかもしれません。
しかし、私は伝えたいのです。
信仰とは誰かの意見に屈服することではなく、お手本として自らが考え悩み導き出すもので、教会とはその手助け
をする場所であり、幸せを分けてくれる場所であり、教会に帰るとは、自らが苦しみ悩んだ時の気持ちと、解決し
た時の感謝の気持ちを忘れないために足を運ぶ場所であると。

今回は、私の思いをわがままに伝えました。
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この回答へのお礼

再度回答を頂き本当にありがとうございました。
 しかも、ここまで真剣に回答を頂いたことに感謝しています。
 私の教会では、基本的な部分においてはほぼ共通した教えです(たとえば、人に感謝する気持ちを忘れてはいけない。必要以上に欲しがったり、人をやたらに憎んだり恨んだり、高慢になってはいけない。常に謙虚な気持ちを持つことを大切にしなければいけない。血のつながってない人であっても、大切にする気持ちを持つ事・・・等)。
 ただ、私の布教所では、
 教会や布教所に伏せこむことによって、悪い因縁をすりかえることができる。すなわち、教会に伏せこむのは悪い因縁から逃れるため、というのがあります。
ですので、
>信仰から離れたら、家族に不幸が訪れるのでしょうか?
>信仰をやめるから悪い因縁になるのでしょうか?
>信仰とは悪い因縁から逃げるための方法なのでしょうか?

そのとおりである。としかいえません。

 また、所長様、会長様の言うことを素直に信じきってとおるのが、一番助かる道である。と教えられています。
 したがって、所長様の言うことを信じきっていないということは、いいかげんな信仰をしているということになります。したがって所長さまのいうことを信じきっていないということは助かるものも助からない理になってしまうのではないかと思ってしまいます。都合のいいことは聞けて都合の悪いことは聞けないというのはだめだそうです。また、天理教は理屈ではない。頭で信仰してはいけないとも言われます。
私は、天理教のすべての教会が恋愛を否定しるわけではなく、天理教自体が恋愛を否定していないことがわかり、少し安心しています。また色情因縁という言葉自体も当教会独自の考え方であることも分かりました。
 これらについては、自分で天理教の勉強をして、自分なりの答えを見つけていきたいとおもいます。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/10/31 16:00

縁談については、おさしづに書かれているようです。


私が読んだものは、うちの上級の初代さんが要約されたものですが…
布教所長さんが言われたようには書かれていないと思いますが、これも受取り方によって変わってくるかもしれないので、やはり自分で読まれるのが良いかと思います。おさしづだけ読んでも良くわかりません…

もし、時間が許すのであれば検定講習会にいかれてはどうでしょうか?それとも、もう行かれましたか?
講師の先生は本部の先生や、大教会長さんです。その先生がたに質問すれば良い答えを頂けると思います。
答えもいろいろかもしれません。

と言う私も去年病気をきっかけに行きました。
修養科とはまた違ってとてもいいお話をたくさん
聞かせていただきました。
私はまだ前期のみですが、後期ではおさしづの勉強もするようですよ。

布教所長さんの言うことが納得がいかない=天理教が嫌いにならないでくださいね。

hsanoriさんは好きな人がいるのでしょうか?
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だいたいどちらの教会かわかりました。


修養科中、仲良くなろうとして飴を差し出しましたが「ダメなんです」と断られました!当たりですか?

そちらでは恋愛結婚ダメなんですか?
天理教では聞きませんね。でもよく考えたら真柱さまはお見合ですね。

それに、教祖さまが生きておられた(とりあえずこの表現で)ときは教祖さまが言われた人と結婚していたのではなかったかと記憶しています。(勉強不足でごめんなさい)

でも、本部員先生方は恋愛結婚の方もおられたと思いますのでダメってことはないですよね。

ちなみに、うちの両親(恋愛)直属会長様(多分恋愛)その長男(出会いは見合い。でも恋愛と言ってます)次男(未信者さんと恋愛)です。
天理教が禁止ということはないですよ!

天理教って、同じ宗教でありながら所属教会によって考え方の違いがあるなぁと感じます。人間一人一人考え方に違いがあるように会長さんによっても違うのでしょうね。
それが天理教の特徴でもあるのかなと思ったりもしています。

hisanoriさんが布教所長さんの言われること納得できるのであればその通りにすればいいと思います。
納得できないのであれば、天理教がどうゆう宗教か自分で勉強されてはいかがでしょう?
それで自分の答えを出してください。
結婚相手については、自分で選ぼうが、他人が選ぼうが幸せになれるかは自分次第だと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答をいただきありがとうございます。

>だいたいどちらの教会かわかりました。
修養科中、仲良くなろうとして飴を差し出しましたが「ダメなんです」と断られました!当たりですか?

多分、当たりだと思います。
私の教会では、修養科中は詰所の食事やお供え物、本部大食堂の食事、及びお茶所にあるお茶以外は、口にしてはいけないといわれていました。個人的に買い食いをすることも禁止でした。ですので、ほぼ当たりでしょう。
 しかも、私の教会では、特に修養科中の恋愛は命がない理だといわれていました。
 これは、修養科以外でも同じで、基本的には恋愛はNGです。
>それに、教祖さまが生きておられた(とりあえずこの表現で)ときは教祖さまが言われた人と結婚していたのではなかったかと記憶しています。(勉強不足でごめんなさい)
もしそれが本当だったら、教祖(おやさま)の教えを忠実に守っているということなのでしょうか?
 ただ、天理教自体が恋愛をNGにしているわけではないことが分かってとてもよかったです。

お礼日時:2005/10/24 01:23

質問がありましたので、「色情因縁」についての解答をさせていただきます。


教会関係者以外の方もごらんになっていると思われますので出来るだけ簡潔
にしようと努力したのですが、長文になってしまいました。

内容についてはあくまでも次のことを理解してください。
1・私自身が他の教会の教え方について詳しくない
2・私の書き込む内容は教会長である父親の話を聴いた私の主観である

しかし、ほとんどの教会での意見は私と一致すると思われます。

色情因縁と言う言葉は、私の教会ではほとんど聞いたことがありません。
「因縁」という言葉に集約されているのかもしれませんが、色情因縁と言う
言葉は教会の中では聞いたことがありません。
つまり・・・・天理教以外の場所(宗教)で聴いた事があるという事です。

質問者の方のような「色情因縁」の教えは全く知りません。
>恋愛とは、色情因縁であり、その後の運命は良くならない。
>布教所長に言われた人と結婚しないと幸せになれない。

正直に、上記の文章を見てびっくりした次第です。^^;
私の教会では、ほとんど逆の事を言っております。

恋愛とはすばらしい物であり、結婚は自由です。
それが原因で、後ほど不幸が訪れたり問題が発生したりした時に、それを
「因縁」として考えさせていただくことで自分自身(相手がいる場合は相手
も含めて)が前を見て一歩進むための材料となるはずです。

教会で過ごしてきた私の因縁の意味合いですが、
因縁とは

「起こるべくして起きてしまった結果」
(未来のことは神様しかわからない)

であると受け取っています。
そして因縁について大切なことは、因縁(結果)に対する考え方にあると思います。
その考え方を簡単に申しますと、

「起こってしまった現状の事実(事件・悩み・結果)に対する第三者的な
目を持って考え、肯定的な心の運び方(反省)を行うための一つの方法」

と認識しております。

簡単な例をあげますと、
<因縁(結果)> 風を引いてしまった
<考察(反省)> 夜更かししてないか?
         食事は?
         規則正しい生活は?
<心運び   > 風邪を引いてしまったことに対して、自分が至らなかっ
         た点や自分の問題点を素直に反省し、因縁(結果)から
         勉強させて頂く 
と言う感じのイメージですね。

ただし、これに当てはまらない場合も多々あります。
例えば、生まれながらにして障害を持っておられる方に対して前世からの
因縁であるとかどうとか話をされる人を見たことがありますが、どうしよ
うも無い事に対して反省もへったくれもありません。

「現在の因縁(事実)に対して悲観的(諦め)にならず、もしも前世からの
 因縁が存在するなら、次の未来のために、陽気に暮らす努力(自分に出来
 る他人に喜んでもらう方法)を考えさせて頂こう」

なかなか出来ることではありませんが、究極的にはこのような考え方が因縁
の考え方だと思っております。

>また、「互い助け合い」の話しですが、私の布教所では、所長様にお世話
>になった相手と夫婦になって、互いに助け合ってとおりなさいと教えられ
>ています。 

最後にこの「互い助け合い」についてですが、これも私の教会とは全く違い
ます。

私の持っている互い助け合いの意味ですが、
「見返りを求めない相手を思いやる奉仕の気持ち」
だと今は理解しております。

そもそも「互い助け合い」は夫婦間だけではなく、世の中の全ての人に対す
る教えだと教えられています。
「互い助け合い」を一番身近に感じることが出来るのは夫婦であったり家族
であると教えられていますし、それが陽気暮らしの第一歩だとも教えられて
おります。

hisanoriさんの教会では「色情」(恋愛事情)について色んな意味で重きを
置いているのではないかと感じます。
私の教会での色情については、世間一般の教育レベル・常識のレベルのお話
です。(やっていい事・いけない事)

最終的に判断されるのはhisanoriさんの気持ちを最優先されて良いのではな
いかと考えます。
もしも、hisanoriさんが無宗教の人や他宗教の人を好きになった時にどうす
るのでしょうか?
雰囲気としては絶対に認められそうにないような気がします。

ご家族で信仰されていると言うことなので、簡単な問題では無い事は容易に
想像できるのですが、所属されている分教会の教えとして恋愛を制限されて
いる事に疑問を感じ、納得がいかないのであれば、離れてみるのも一つの
手法であると考えます。

信仰とは誰かに強要されて行うものでは無いと私は教えられています。
教理とは自分自身や周囲の人にに降りかかってきた事実や結果に対する解決
方法を自らが納得する形で導き出すための辞書でしかありません。
ある人はそれがイエスキリストであったり、アラーであったりするわけです。
無宗教の人たちのお手本の代表は、ご両親であったり恩師であったりするわけ
ですよね。

私たちは、たまたま、その方法として天理教と呼ばれる宗教の教理をお手本と
させていただいております。

因縁(現実)を考えれば、必ず天理教を信仰するようになっていたとの考え方
ですが、先々の因縁(未来)はhisanoriさんが作るものです。
未来を作ることが出来るから、その為に「徳を積む(陽気暮らし)」を行う事
に意味が生まれるはずです。
なぜならば、今の因縁(現実)は昔の因縁(過去)の集大成なのは間違いない
からです。

色情についても私は同じだと思います。
いろいろな恋愛を経験し、沢山の失敗を繰り返しながら徳を積み、自らが成功
したと感じる時にはじめて因縁(結果)を感じることが出来るのだと思い
ます。
 

この回答への補足

お礼の欄に書ききれなかったのでここで、述べさせていただきます。

>もしも、hisanoriさんが無宗教の人や他宗教の人を好きになった時にどうするのでしょうか?
雰囲気としては絶対に認められそうにないような気がします。

そうですね、多分認められないと思います。
 認められるためには、相手も天理教を信仰することを約束しなければならなくなると思います。そのことを相手が拒否したら、結婚は多分できません。

また、
>ご家族で信仰されていると言うことなので、簡単な問題では無い事は容易に
想像できるのですが、所属されている分教会の教えとして恋愛を制限されている事に疑問を感じ、納得がいかないのであれば、離れてみるのも一つの手法であると考えます。
これはたぶん困難であると思います。その理由は、回答に書きました。しかも、最近、父の体調が思わしくなく、ここで、信仰を離れてしまうと、そのことによって父が出直してしまうのではないかと思うと怖くてできません。
もし、そのようになってしまうと、僕が父を死なせてしまった形になってしまいます。
父には絶対に助かってもらいたいので、今は無理です。
 僕は、お父さんは助かってほしいと思っているのに、一部は納得できないなんていってると、なんて現金なんだろうと思ってしまいます。こういうときこそ、神様にすがらないといけないのですけどね。

補足日時:2005/10/24 01:36
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この回答へのお礼

明確な回答を頂きましてありがとうございました。
正直言って色情因縁という言葉を聞いたことがないなんてびっくりしました。ただ、
>簡単な例をあげますと、
<因縁(結果)> 風を引いてしまった
<考察(反省)> 夜更かししてないか?
         食事は?
         規則正しい生活は?
<心運び   > 風邪を引いてしまったことに対して、自分が至らなかった点や自分の問題点を素直に反省し、因縁(結果)から勉強させて頂くと言う感じのイメージですね。
確かに、教えとしては同じようなことを所長様はおっしゃいます。
ただ、私の布教所では
<因縁(結果)> 風を引いてしまった
考察(反省)> 夜更かししてないか?
         食事は?
         規則正しい生活は?
         
<心運び   > 風邪を引いてしまったことに対して、自分が至らなかった点・・・色情間違いはないか?
             好きな人がいるのではないか? 
 といった感じになります。ここでは、風邪を引いたことについて述べましたが、私の布教所では、色情因縁を諭される理として交通事故があります。

 この説明だと悪い因縁の原因となる恋愛はNGになってしまいます。


また、
>信仰とは誰かに強要されて行うものでは無いと私は教えられています。
教理とは自分自身や周囲の人にに降りかかってきた事実や結果に対する解決方法を自らが納得する形で導き出すための辞書でしかありません。

ここは、私の布教所とはかなり違うように思います。

「信仰を離れると、伏せこみを怠ると因縁どおりの悪い運命になる。だから、教会に伏せ込みなさい。」
といったことをいわれます。ですので、信仰を離れることなんで、怖くてできません。
 お道のこころが離れることによって、恐ろしいことが起こるのではないかと思ってしまうのです。
恋愛だって同じです、今僕は、恋と言えるほどではありませんが好意がある女の人はいます。しかも、僕はもてない男ですが、今まで好きになった女の人は、何人かいます。
したがって、このようなことをしていると、このことが原因となって悪い因縁が出るのではないかと怖くなるのです。ただ本当にそうなのか疑問に思ったのでこのコーナーで質問させていただきました。

お礼日時:2005/10/24 01:05

私は教会の長男で後継者です。


ちなみに、現在恋愛進行中です。
私の弟も恋愛進行中。

その布教所長様の言葉

>恋愛結婚はくっつき結婚であり、それゆえ、「苦」がついて回るからだめだ
>よ」といわれてしまいます。更に、「布教所長に言われた人と結婚しないと幸
>せになれない。恋愛とは、色情因縁であり、その後の運命は良くならない。」

これは・・・今まで聴いた事がありません。^^;
父親は現在、教会の会長を務めておりますが、このような事を説法している
状況を見たこともありません。

もちろん、私も全ての布教所および教会のお話を聞いたわけではありません
が、天理教においても恋愛は自由です。
※すくなくとも、私の知る限り制限はありません。

私の父親の過去の恋愛関係のお話なのですが、夫婦とは非常に大切な物で、
「互い助け合い」の精神を一番に感じる所であり、その姿を家族・親族
周囲の人々が見たときに「幸せになる」(陽気暮らし)暖かい物だと
話しておりました。

さらに、相手が以前にキリスト教だろうがイスラム教だろうが創価学会さん
であれ、また、無宗教であっても、恋愛・夫婦とはとても大切な物であり、
その中で訪れる「縁」とはとても大切な物で、一期一会の縁を大切にする事
を忘れてはいけない。

このようにも話していました。

天理教の教理の中で恋愛の制限や法律じみた内容を私は見たことがありま
せん。

hisanoriさんの考えるとおり、私はこの内容については納得できなくて
当然だと思います。
※これからの信仰を考えても一生なっとくなど出来ないでしょう。

hisanoriさんの愛する人、ちょっと古いですが「びびっ」と感じる人と
自由に恋愛されても問題は無いと思います。
それが自然な姿でしょう。
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この回答へのお礼

教会長の後継者の方から回答ありがとうございます。
ここで、私は思ったのですが、「色情因縁」の教えについては教会によってかなり違うように思いました。もしかしたら「色情因縁」という考え方自体がないところもあるのかな?ということを考えてしまいます。私の教会だけの特別な教えかもしれません。では、kamuycikapさんの教会では色情因縁についてどのように教えているのでしょうか?または色情因縁の考え方自体がほとんどないのでしょうか?このことはどうしても知りたいので、できれば、教えていただきますよう、どうかよろしくお願いします。

 ちなみに私の所属している分教会は名古屋市にあり、分教会であるにもかかわらず大教会に匹敵するくらいの規模があるところで、初代の会長様が生き神様と呼ばれるくらいの人でした。ここまでいえば、私が所属している教会がどこかは分かる人には分かると思います。

 また、「互い助け合い」の話しですが、私の布教所では、所長様にお世話になった相手と夫婦になって、互いに助け合ってとおりなさいと教えられています。 

お礼日時:2005/10/12 00:13

No.4です。



宗教のフランチャイズと考えれば納得いくのでは!?

トップが違うと考え方も違うし売り上げも違うし‥
hisanori さんの教会では所長さんが古い考え方の人で、恋愛禁止なのかもしれませんね。

ちなみに家の祖父、祖母(熱心な信者です)は「好きな人と結婚したらいい」とよく言ってました。信仰の自由なので‥天理教に拘らなくていいと‥

参考にならなくてすいません。
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母方の実家が天理教を(分教会)信仰していますが、その家の孫たちは3人とも恋愛結婚ですよ。



外孫の私も、兄弟二人も恋愛結婚です。

「布教所長に言われた人と結婚しないと幸せになれない。恋愛とは、色情因縁であり、その後の運命は良くならない。」

同じ信仰者同士だと、話が早いので勧めてるのでは?


所長さんによるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>同じ信仰者同士だと、話が早いので勧めてるのでは?
もしそうであるなら信者同士であれば恋愛してもよいはずですが、そんなことは私の布教所、分教会では絶対できません。もしそのことがばれたら、キツイ押し込みを受けることになり、双方の家に迷惑をかけてしまいます。
 色情因縁に対する考え方が教会によってこうも違うのは意外な感じです。同じ天理教なのにどうしてこうも違うのでしょうかね?
 では、他の教会では色情因縁については、どのように教えられているのでしょうか?
 それについても回答をいただけたらうれしいです。

お礼日時:2005/10/10 17:27

「恋愛とは、色情因縁であり、その後の運命は良くならない。


もし、布教所長の言ってることが正しいなら、あなたは、恋愛感情のない夫婦の間に生まれた子供って事になりますよね?自分の存在を否定されてるような意見に納得する事はないと思いますよ。
 宗教に興味がないので、乱暴な意見で、hisanoriさんの気分を害したなら、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 ちょっと補足が必要ですね。ごめんなさい、私の家族は、両親が入信したのは結婚した後になります。
 ですので確かにお見合い結婚でしたが、お互いが納得して結婚しています。
 だからよけいに納得がいかないのです。
 確かに恋愛結婚ではないけど、お互い好きになったから結婚したのではないかと思ってしまいます。
 また、他の信者さんでは、お互いに愛情のない状態で結婚した人が私の布教所では、ほとんどです。
 その人に聞くと幸せだといっています。僕としては本当に心からそう思っているのか、疑問です。

お礼日時:2005/10/10 01:38

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