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孝明天皇は公武合体論者だそうですが、公武合体をすることによって朝廷は何の利益があったのでしょうか。尊号一件などがあったのに、なぜ公武合体なのでしょうか。

また明治天皇は「討幕の密勅」を出していますが、公武合体論者ではなかったということでしょうか。

ご存知の方よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

孝明天皇の公武合体論は朝廷のメリットやデメリットを考えてというよりも公武が仲良くやるべきだという理念から来たもので、それまで朝廷は一切政治にかかわらせないようになっていましたので、それほど政治的思考はなかったでしょう。


明治天皇はその頃まだちいさい子供で「倒幕の密勅」は自分の意思ではなく、尊王攘夷派の公家が勝手に出したものです。(天皇の許可を得ていない偽勅といわれています。)
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当時、幕府に逆らっているのは長州藩のみで、


お世辞にも、幕府に代わって国務を遂行出来るとは言い難く、
最も適切なのは、現在の政局を乗り切れる人材や政治基盤、財政、軍事力を持つ組織に委託するのが良く、
幕府に頼る他考えられなかったのです。

この頃、攘夷を唱えるが、倒幕など考えていた人間は少なく、幕府主体で、いかに政局を乗り切るのか、
こう言う、現実的な解決方法を模索していました。

薩摩藩が幕府側から長州側に付いて薩長同盟を組み、新政府の基盤が見え始めた時点で倒幕の行動を起こします。

大政奉還の後も、旧幕府に政治の予算を出させるなど、旧幕府側の不満と言うより、金は頼るがもういいよ。と言う仕打ちが多く、
新政府に慶喜の名前が無い時点で不満は爆発します。

明治政府になった時点でも、政府軍の持つ動員出来る軍隊は1000名程度。予算は風前のともし火でした。
ここから、新税制で基盤を確保します。
廃刀令は西郷の実力でもって武士の反乱を抑え、戦争は武士の仕事と大反対する武士を抑えて万民に徴兵制度を施行します。
基盤がほぼ安定した頃西郷が引退します。
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孝明天皇の時代、政治の実権は天皇側にはなく、なにをするにも幕府の承認が必要な時代でした。


孝明帝は熱心な攘夷論者でしたがそれを実行するにも武力は皆無で幕府や諸藩に頼るしかなく天皇に出来る事と言えば神に祈る位でした。

従って実質的に公武合体論に立たざるを得なかったのです。

明治帝は孝明帝の急死を受けて擁立されたのですが幼少の為まだ政治の表には出る事は出来ず、この頃は周辺の公家のいうままに行動させられていたというものです。
明治帝が自我を発揮できるようになったのは東京に遷都後明治新政府が基礎を確立した明治10年以降でしょう。
帝国憲法を制定し天皇統治を確立してから始めてその意志が明確に反映されるようになったのです。
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