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少し似たような質問はあったのですが、少し違うので質問させてください。

奈良時代に、藤原広嗣の乱の後、その力から逃れるために、
恭仁京、紫香宮や難波宮と、何度も遷都を繰り返していますよね?
ですが、「都」として、定められていたところと、実際に天皇が
住んでいたところは違うと聞きました。
教科書には「740 恭仁京に遷都」、「745 平城京へ帰る」としかなく、よくわかりません。
下手な文章ですみませんが、ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。

A 回答 (2件)

#1さんのお答えで妥当かと思います。

具体的な動きをいかに略述します。
740年12月 東国(伊勢尾張など)への行幸ののち、恭仁京に到着、遷都の意思を表明
742年2月~ 紫香楽宮へたびたび行幸
743年10月 紫香楽宮で大仏造立の詔を発する=同年末には恭仁京造営の中止
744年 難波宮への遷都を思い立つ
744年2月 難波宮遷都の詔(但しこの直前には紫香楽宮に移っている)
745年正月 紫香楽宮を新京とする
745年5月 平城京に遷都
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この回答へのお礼

御礼が遅くなってしまってすみません。
詳しく教えてくださってありがとうございました!

お礼日時:2005/10/29 11:09

お答えします。

「都」とは天皇が遷都する(厳密には遷都の宣旨を出す)ことによって決まります。つまり遷都さえしてしまえば、たとえ何もない野っぱらでも(都)になります。遷都は常に都が完成してから出すわけではありませんので、遷都した段階で、まだ完成にいたってない場合、実際にそこにすまないということもあるわけです。特に、短期間で遷都を繰り返した聖武天皇の場合そうゆうこともあったのだと思います。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなってしまってすみません。
とてもよくわかりました!
何もない野っぱらでも都になるのですね!
ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/29 11:08

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