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どういう場合に「その人の意志は自由だ」と言えるのでしょうか?
例えば、麻薬中毒者が麻薬を服用する場合、それは中毒者の自由な意志と言えますか?「止めたいと思っているけど依存症なので手を出さずにはいられない人」と「止めようとは思わないし、むしろ中毒者でいたいと思っている人」の違いとか・・・。意見をお願いします。

A 回答 (6件)

一般人なので専門的な意見じゃないですけどいいですか?



自由意志とは、本人が正常な判断力があるとみなされる状態で、法律内で行う洗濯であると思うのですがいかがでしょう?それだけ制約があれば自由ではないと言われるかも知れませんが、社会生活に置いては、何事も法律の枠内であることを前提にしないと、社会自体が成り立たないような気がするので・・・。

上記例にあるようなばあい、薬物により正常な判断力が奪われており、法律にもひっかかると思うので、自由意志ではないと思われます。やめたいけど依存症の人は言わずもがなですし、やめようとは思わないという、一見意志的な決定のように思えますが、違法の、しかも判断力を失っていると思われる条件下での決定は、意味がないように思えます。
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 「自由意志」とは、選択が、何の拘束もなくできることでしょう。


 本人が、洗脳、薬中、催眠等で正常に思考が出来なくても、本人の意志ならば、自由選択がなされたということでしょ。
 本人の思考状態にまでは、立ち入れませんし、立ち入れば、「自由意志」でなくなります。
 破滅するも、治癒するも、正常になるのも、本人が決めたことです。
 選択を強制すれば、規制していることになります。本人の意志というよりも、拘束していますね。
 如何でしょうか?
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「その人の意志は自由だ」といえるのは


二者択一、もしくはそれ以上の選択肢があり
どれを選択したとしても、選択段階において
犯罪行為、もしくは社会や他人に大きな負担をかける行為にならないと判断できる場合だと思います。

例えば、どの服を買おうか、どういう部屋に住もうかなど。身近すぎる例ですが。

あなたが提示した例は、麻薬を服用するという時点で犯罪行為ですので
「その人の意志は自由だ」ということにはならないと思います。

最近は「個人の自由」という意味を勝手に解釈しいて
簡単に犯罪を犯す人が多すぎます。
麻薬、売春、買春、交通違反など
「自分のことで、自分の意志でやってるんだからいいでしょ?」
っていうのは「その人の意志は自由だ」ということにはなりません。
それでは世の中が成り立たないからです。
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「自由」とは、事物に囚われない状態ではないでしょうか。


yuya-chanの麻薬の例をとれば、最初に麻薬を吸う人は、法律や社会から自由であり、自分の自由意志と言えるでしょう。依存症の人は、すでに麻薬にとらわれていて、自由とは言えないでしょう。
問題は、中毒患者でいたい人、又は依存症になる以前?の複数回の麻薬利用者が自由な意思かどうかです。
これは本人にしかわからないし、本当にやめようと思っていないのか、本当に中毒患者でいたいのか本人にもわかっていない場合もあるのではないでしょうか。
自由とは客観的な概念であり、個別の主観に接近するには限界があるのではと考えています。
たとえば、私は「やさしい」小父さんなので回答していますが、他の回答者の中にも「やさしい」小父さんがいるかもしれませんが、決して同じ「やさしい」人ではないと思います。
遅ればせながら、自分の考えを整理するために回答させてもらいました。
念のため、社会から自由な人間はいないと信じています。
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諸々の選択肢に惑わされず、選ぶべきことを知っている時、自由意志が実現できるといえるのではないでしょうか。

どれにしよっかなぁ~と迷っている状態は、自由意志は働いてないでしょう。バッターに打たれて、普通なら余裕でホームランでしょ!?というようなボールが、突如ぐいんと向きを変え、ピッチャーの頭に落ちてくる。ホームランボールと、ホームランになるはずだったのにピッチャーの頭に落ちるボールと、どちらが自由意志を象徴的にあらわしているかといえば、後者でしょう。
自由意志のところに、しかるべきということがあります。ホームランボールは、実はダサダサのキャッチャーフライでも、しかるべきならホームランにできます。ホームランボールに見える球も、しかるべきならピッチャーフライでアウトになりえます。でも、しかるべきとは結果を見てからいうものではありません。もちろん予測でもありません。ホームランになっても、しかるべきでないなら、それは惰性によるホームランです。当然の事で、誰もほめてくれません。しかも、しかるべきホームランボールが、ピッチャーフライのアウトになる。これが多くの人間です。アウトになるわ、かっこ悪いわ、ほめられんわ、です。
 満塁。外角高めストレートを4番のパワーバッターがミートした。そしてそれはキャッチャーフライで倒れるのです。それは、しかるべくしてアウトになったのです。それが「偉大なボール」、です。なるはずのないことがなるのです。自由意志と、しかるべきの関係はそういう関係です。
ここで自由意志とは何かに戻ります。先ほどの偉大なボールが、自由意志を持たねばホームランになっていたのは明確です。自分で動けないですから。。自由意志をもたない者というのは、他者の意志のまま、周辺環境のまま、惰性で動く者です。ピッチャーゴロになればピッチャーゴロで終わってしまうのが自由意志を発揮しない人です。
 自由意志とは、しかるべきを実現させるためのものです。そして、自由意志は、しかるべきものならどんな境遇でもそれを実現できます。刀がもとのさやに収まるのが当たり前の様にです。
 いいでしょうか、ホームランボールでもしかるべきならキャッチャーフライでアウトになれるのです。ピッチャーゴロでもしかるべきなら、ホームランになれるのです。サード正面でも、アウトになるべきならアウトになればいいのです。そのときエラーはありません。そこには野球のルールの他に、しかるべきというルールがあるからです。
 わかってらっしゃると思いますが、アウトが悪く、かっこ悪いとかということじゃないのです。味方にしたら、守備にも、攻撃にもファインプレーはあるのです。このように敵・味方と言いたくありませんが、敵の打球として、アウトになると、味方は喜ぶのです。僕が野球で示した事の意味を汲んでいただけたでしょうか。
しかし、間違いのないように言葉を借ります。
「隣人をあなた自身のように大事にしなさい」
スポーツマンシップを忘れてはいけません。哲学という竹筒から、見え隠れする世界を感じていただければいいですね。
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なぜ意志をするのでしょうか。


意志をしようとしたから、でしょうか。
ではまた、なぜ意志しようとしたのでしょうか?

自由とは何にも縛られていないことをいいます。
しかし、すでに「人」として縛られている。

その前提の上での自由意志。でもなぜ自分にこの意志なのでしょうか?
他を選ぶ自由もありながら、なぜそれを選んだのでしょう?

自由に意志できる、と言いながら実は自由ではないのではないかとも思います。
一見は自分で自由に選んだように思えますが、でもそれは偶然的必然ではないか、と思います。
何かに縛られていると思います。その縛りが何かまではわかりません。
その「縛り」がある何かを好むようにし、それを自ら意志したように偶然的に見せて実は必然だった。
でも、それはすなわち不自由、ということではありませんが。
別にある誰か限定に起きる何かの「声」、ということではありません。

自由意志を人に表明し、求めるのは大抵行動をするときです。でも行動するのは当然縛られます。他にも人がいるからです。
ですから行動を前提とした自由意志は意志までは勝手にできても、自由には行動できません。

この世は何を行動するのも自由は自由です。
でも自由に意志して人に多大な迷惑をかけるような行動をしても一切捕まらない、一切怒られない、一切人から嫌われない等々という保証までは「自由」には付いていません。
自由には責任が伴う、の謂ですね。

しかも麻薬の場合は自分自身を縛る結果となる。おそらく自由が嫌になったから麻薬をしたのではないでしょうか?後者の「止めようとは思わないし、むしろ中毒者でいたいと思っている人」などまさに。
前者は麻薬が何だかも知らなかったのかもしれません。病院に行き、麻薬解脱療法、治療プログラムを受けましょう。

とにかくその自由を行動的な部分、大抵は自分勝手なことで他人に自分の自由意志を求めれば求めるほど、つまり行動すればするほど自分の首をしめるということになります。どこが自由なのでしょうか?
そういう人が増えれば増えるほど法律も当然増えますね。
自分勝手な自由を求める人は本当の自由が何だかを知らないのかもしれません。結果、自分のみならず、ときに他人の首までをもしめることとなるくらいですから。その場合またもう一度、つまり二度も自分の首をしめることとなります。
ほとほと自分の自由が嫌なのかもしれません。

いずれにしろ、「身体」と言う縛りのある「人」というものとして生まれた限り、自由意志とはすなわち自分自身の表れでもあると言えるでしょう。
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