日本はなぜ8月14日に降伏したのですか?
言い換えれば、ミッドウェー海戦で負けたとき、すでに敗色濃厚となったとき、ポツダム宣言が発表されたとき、等で何故降伏しなかったのか。
また、本土決戦、一億玉砕とか言われてたのにしなかったのはなぜかということです。
今のところ
首都東京に原爆を落とすと威嚇されたから
天皇の命と国体維持が保障されたから
のような話を聞いたことがありますが、実際のところはどうなんでしょう。
回答(8件)
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大本営はドイツの敗戦が濃厚となった1945年3月あたりから、ソ連を仲介者として連合国と和平、条件付き停戦を模索し始めました。
ところが、ヤルタ会談(1945年2月)でドイツの降伏後の2、3カ月後に対日参戦するという密約があったソ連は大使や外相が居留守を使って日本代表と会おうとはしませんでした。それどころか、4月には1946年4月に期限切れとなる日ソ中立条約の不延長を通告してきました。
それでも、執拗にソ連に仲介をしてもらおうとしましたが、1945年8月9日のソ連参戦で全てが崩れさったのです。
戦争も末期、負けるのは誰の目にも明らかでした。
ですが負けっぱなしのままでは不利なので、少しでも交渉を優位にしようと、本土決戦にせよ、何かしらこちらが勝ったかたちで講和に持ち込もうと、主に陸軍が降伏に反対したからのようです。
ポツダム宣言受諾を迫られていたときの御前会議では、国体が護持されるなら、いや、駄目だと、そんな話し合いが交わされていた状況でした。
そんななか、新型爆弾が落とされたときも、それが原爆だとはにわかに信じられませんでしたが、そうだと判明するにいたり、天皇の聖断で終戦を決めたのです。
むろん陸軍は、ご承知のように負けるぐらいなら一億玉砕し、大和民族はここで歴史を終えたほうが良いと主張しましたが、とうに弾薬すら尽き果てているのをご存じな天皇は、徹底抗戦を主張した陸軍大臣をたしなめたそうです。
原爆を東京に落とすという話は聞いたことがありません。
>ミッドウェー海戦で負けたとき
瑞鶴、翔鶴が健在で商船改造の隼鷹、飛鷹もあり
この段階では旧帝国海軍のほうが優勢だった。
>ポツダム宣言が発表されたとき
沖縄戦が終了したが次は九州戦が予想されていた。
想定外だったのはやはり原爆の存在でしょう。
これならば連合国は犠牲を出さずに勝利できることなるのでこれ以上やっても明確に無理が判明した。
と思います。
国体維持は相当米国民から異論がでたと思います。
GHQはどうして東京裁判を通じてそうなったのは
全くの不可思議ですが 既に敵は他国を想定していたのでは?
降伏と言うことは日本の存続を否定するものだという意識があったのではないでしょうか。226以後は軍部の台頭で政治的な駆け引きに対する意識が消滅していたように思えます。
原爆を落とされやっと降伏と続行の意見が割れ、天皇の「御聖断」を仰ぐことになり天皇が降伏を決定しました。当時、天皇の決定権は意見がまっぷたつに割れどちらも妥協しないような自体にのみ有効であったのです。
手元に本がないので、めちゃくちゃ大雑把な内容になりますが、大本営参謀・関東軍参謀と、当時、日本のど真ん中に居た瀬島龍三さんの著書によりますと、当時、瀬島氏がソ連に行ったときに、ドイツから引き返してきたソ連軍の動向を察知して、ソ連の大東亜戦争への参戦を予測したのだそうです、そして8月ごろには終戦を決しないといけないと、帰国後に進言したのだそうです。
もちろん、その以前から終戦の時期については議論されたいたのだそうですが、瀬島氏の進言も影響したということを、後に偉い人が公の場で話していたのだそうです。
当時の模様は自伝「幾山河」にも書かれています。
いろいろな見解に触れるという意味でも一読をお勧めします。
この回答へのお礼
ありがとうございます。読んでみようと思います。
No.3ベストアンサー20pt
私見ですが、数点あげさせていただきます。
まず「ミッドウェー海戦で負けたとき」は、講和するにしても日本が不利になりますから、おそらく困難だったでしょう。シンガポール、マニラを落とした時であれば「日本有利」な条件で講和に持ち込むことができたかもしれませんが。(ただ、戦後の資料が示しているように、アメリカの意思は、「日本を徹底的に壊滅させる」ですから、どの時点であれ講和には応じなかった、と思います)
その他、日本側の問題点として
1)軍指導者に良識的戦争指導(合理的判断)のできる者がいなかった。
開戦する以上は、いつ・どのような条件で・どのようにして講和に持ち込むか、明確な見通しを持っていなかった。すなわち「干戈をおさめる」発想を持たなかった。特に、日米生産力比から、2年を超える戦争継続は「ジリ貧」になるとわかっていながら開戦する以上は、限界をしっかり確認しておくことが絶対必要でしょう。(その点で「日中戦争」(支那事変)の泥沼化が全く教訓化されていない)
2)敗色濃厚になってからも、軍人として降伏を口にすること(合理的判断)はタブーであったと思います。国民に対しては「勝った勝った」で誤魔化してるわけですから、突然「降伏」といっても、国民の方が納得しなかった可能性もあります。敗戦必死の良識派や、天皇周辺からすれば、陸軍強硬派によるクーデタ=2・26事件再現への恐れも影響したかと思います。
3)最終的には、天皇の地位・天皇制の護持、が最大の理由であったと思います。第一次世界大戦で敗北したドイツ帝国では、帝政が崩壊し共和政に移行しました。一部指導者の間では、このことを日本で再現させてはならない、というのは至上課題でした。〔8月14日の御前会議での昭和天皇の「自分の身はどうなろうとも・・・」という言葉は、この間の事情を物語っています〕
実際、「ポツダム宣言が発表されたとき」、宣言の中には天皇・国体については条項がありませんでした。(アメリカ内部では、天皇・国体は維持する、意見もあったみたいです)したがって、日本は「黙殺」するわけですが、英訳では「拒否」とみなされます。
>本土決戦、一億玉砕とか言われてたのにしなかったのはなぜかということです。
上述した「天皇の聖断」によって、実際は行われませんでした。しかし、軍の一部には「「玉音放送阻止」などクーデタの動きもあり、阿南陸軍大臣は最後まで抵抗し、最後は割腹自殺します。(このあたりの流れは、邦画『日本の一番長い日』に詳しいですね)
ほかは他の回答者の方たちのご意見を伺いたいと思います。
この回答へのお礼
ありがとうございます。どういう流れで降伏になったのかよくわかりました。しかし、そんな理由で尊い命がたくさん奪われてしまったのかと思うと、釈然としないものも感じます。
No.2ベストアンサー10pt
「日本はなぜ8月14日に降伏したのですか?」
の答えは、下記リンク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84% …
の中の
「8月6日に広島、3日後8月9日には長崎へと原爆が投下され、同日日ソ中立条約を結んでいたソ連が突如満州に侵攻したことに衝撃を受けた日本政府は、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、10日に連合国に伝達した。翌日返答したアメリカは、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」「降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する(subject to)」と宣言の内容を繰り返してきた。"subject to"の訳について「制限の下におかれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があったが、国体がどうなるか曖昧なまま、日本は14日の御前会議であらためて宣言受諾を決定した。」
が通説です。
ポツダム宣言が発表された時に、直ちに受諾して降伏を宣言すれば、広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦による惨禍を防ぐことができたということは想像がつきますが、残念ながらそうはなりませんでした。その点についても、上記リンクで詳述されています。
この回答へのお礼
ありがとうございます。英文解釈で悩んだとは、歴史はおもしろい(不謹慎かな)ですね。
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