質問

ベンサムの有名な言葉に「最大多数の最大幸福」がありますが具体的にはどういう意味でしょうか?

私は大学入試のセンター試験で倫理を選択していた時にこの言葉を知りました。
この言葉が意味するところは少数の人が不幸になろうとも、
その行いで大半の人が幸福になるのであればそれが社会的
に一番いいと言っているのでしょうか?
しかしこの意味だとあまり「教育的」でないので教科書には載りにくいような…。

本当のところどういった意味なのでしょうか?

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回答 (8件)

直接の哲学回答で無いのですが、いまいち理解できない方もあるかと思いますので補足としてアドバイスさせて戴きたく考えます。

日本国内における朝鮮人の扱いに関する行政・教育指導は、”少数者保護政策”といっても良いと考えます。 それは戦後になってからのファシズムに対する否定と反省でもあり、近代日本化という同化政策にたいする批判を考慮した政策であったとも考える事ができます。

個人的な意見を申しますと、その内容には逆差別があり大衆(子供を含む)に対する権力機構が”事実逆転”をさせた宣伝・指導を行う事で、故に愚衆政策であると同時に、特に地方においては国内の習慣的な封建的権力統治の擁護に役立った政策であったと考えております。

朝鮮戦争以来の米国間接統治の意向は、国内(特に地方)の行政・教育機関にとって都合がよかったのです。 つまり大衆は愚かであるが由、自分達の行いは正当化されると考えました。 特に日教組にとっては大衆の愚かさと不純さを示す事は権力行使の荒れた適用を許容される口実になったのです。 ここで言う大衆の不純さとは、大衆とは多様性であるという現実を拒否し、嘗ての古い権力統治に慣らされた悪弊がある事を示す事によって、容易に権力側の不正が擁護されたのです。 一方でこの事は

最大多数にとって不幸とはならなかった

という現実があります。 ここでもそうですが”朝鮮人擁護”が当然の正義でありコレを否定した発言は「人種差別である」と考える日本人が実に多い訳です。 朝鮮人差別はあるかもしれませんが、これを「人種差別」にしたがるクセは米国人に「訴え易い」からでしょう。

であると同時に一部の日本人の「基本的な法的被害」に向かってツバを吐く道徳形勢が育成された事実もあるのです。 ”拉致問題”は顕著な問題でしょう。 あれは1980年代には出回っていた”根拠のあいまいなお話”でしかなかったのです。 あくまでも一部の人たちの不幸にして押し付けられた問題でした。

最大多数の最大幸福とは、近代科学の発展と人口増加にともなって発生した”最大の錯誤”であるが故、政治的口実として利用され易いのです。 日本人の”和”の精神もこの範囲でしょう。 そこには錯誤と虚偽があります。 最大多数の最大幸福という安易な口実に、我々は容易に載せられるべきではないのです。 政治・経済問題の具体的な矛盾を一部の人達に押し付けて済ませる精神が普及すればNO1さんの言われる様な共産主義体制の凶悪な権力の統治に加担協力する人達ばかりの世の中になり、ますます統治の悪辣さが加速します。

御質問者の適切な質問文に同調します。 日本語が上手でなくてすみません、御容赦下さい。

ベンサムは、人と人の間には利害の衝突があり、全ての人が幸福になることはありえないので、少数の犠牲があってもできるだけ多数の人が幸福になることが全体の幸福であると考えました。つまり、理想論としてではなく、現実問題としての幸福論を唱えたわけです。
しかし後に、少数者が多数者に抑圧される危険性や、少数者の犠牲者が被る不幸が大きい場合は全体の幸福が減少してしまうことに気付き、晩年になって定義をこのように変えました。

「その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全員の最大幸福。また、多数者のより大きな幸福のために少数者の幸福の一部を犠牲にすることが不可避であり、彼ら全員に等しい幸福を分け与えることが物理的に不可能な場合は、彼らのうちの最大多数の最大幸福。」

つまり、まず理想を掲げ、それが無理なら従来の「最大多数の最大幸福」がベターだよ、とすることで、より完全な定義にしたのです。

・・・という内容が、参考URLに書かれてありますので、詳しくはそちらをどうぞ。

立法者の任務は国家における幸福の総量を出来るだけ増加すること。
というふうにベンサムは考えました。
そもそも
Jeremy Bentham(1748-1832)
とは、18世紀の人で、道徳や法律ということを一生懸命考えたわけで、その
対極には、キリスト教や王政などの封建社会の価値観があったわけです。

とにかく、功利主義といわれるベンサムさんの基本は、
(1)何でも数値化しよう
(2)大きいことはいいことだ
(3)とりあえず個人は人数でとらえたほうが平等だ

ということで、
個人が享受する快楽の量×個人の数
=全体としての社会の快楽の総計
=「幸福」(happiness
と定義したのですね。
それだけの話で、それ以上でもありません。

>少数の人が不幸になろうとも、
>その行いで大半の人が幸福になるのであればそれが社会的
>に一番いいと言っているのでしょうか?

そういう意味でなくて、全員に快楽を与えるのは不可能だと経験知から推測
しているにすぎません。
この言葉は。道徳のテーゼではなく
「立法の精神」を語っていることを忘れてはいけません。
つまり、法律のA案B案C案があって、それが施行されたとき、最も多くの
人が幸福になる法律が「正しい法律」だと彼は言いきったということです。
もちろんD案があってそれがより多くの人を幸福にするならそっちがいい。

きわめてあたりまえのことを言っています。
それまでは、王様利益のために法律は作られていたわけで、国で生み出された
最も美しい陶器は国王に謙譲されるべきだ。
なんてのが、それまでの常識だったわけです。
国王の宮殿に富が集約されていたら国家の富は安全にまもられている。
それを知って国民は幸福に思えよ。
こういう社会だったわけです。
でも、幸福なのが王侯貴族では不十分で国民が1人でも多く幸福になるのが
法律の役目だと言ったのは、これは偉い。画期的なことなのです。


彼は快楽の種類を30種類くらい細かく分類していますが、これは当時の
デカルトが情念を幾何学的に分類したり、ロックは、複合観念を単純観念に
分割し分類するという企てを試行していた。ベンサムはそれらを更に推し進めて、
個々の感覚を数量化しようとしたわけです。
微積分の世界ですね。

功利主義の3大原則があります。

1 全ての個人を平等に一単位として扱う。
「何人も一人と数え、一人以上とは数えない。」
全体の快楽の総量の増加=善
2 立法者の任務は国家における幸福の総量を出来るだけ増加すること。
「最大多数の最大幸福( the greatest happiness of the greatest number)」=「功利性の原理( the principle of utility)」
3 快楽そのものを与えることは出来ないから、快楽そのものではなく、快楽の手段(=貨幣)を人々に与えること。
「貨幣は苦痛や快楽の量を測る手段である。」

これは経済学や法学の黎明期の理論というか仮説にすぎないわけで、功利主義はさまざまな
批判を受けているわけです。批判のなかから社会主義も生まれてくるわけで
これは民主主義の黎明期のテーゼにすぎません。
実際その後のパレート効率性や有名なナッシュ均衡などの理論によって集団の幸福論には
さまざまな制約と法則性があることがわかってきます。

私も詳しくは知らないのですが、別に悪い意味で使ってるわけではないのですよ。
ベンサムさんがいた前の時代は、人間が幸福になるためにはむしろ、国民は自分の権力を一部引渡し、王様などが政治で国を統治していくことで、結果としてけんかが起きず、全体の平和につながると言う考えだったわけです。
でも、産業革命やフランス革命、アメリカ独立などでだんだんそういうことを考えなくても幸せに生きられるような社会になってきたわけです。一部の人が(貴族とか)裕福な暮らしをして政治で国民を統制していかなくても、皆に財産などを法の下に公平に分配をすればうまくいく時代に変わってきたわけです。しかし、それをいきなり前面に押し出せば、今までの考えを根拠無しにひっくり返すことになりかねません。そこでベンサムさんがきちんとした理論に基づいて、「皆が自分の利益を追求して傷つけ合うよりは、なるべくたくさんの人が幸福になるような経済の分配などを、法の下に行なえば、一番皆が幸せになるはずだ」と言う意味で作った理論なわけです。確かに質問者さんがいうような問題が起こる危険をこの理論は秘めていますが、その当時は画期的な理論だったわけです。これで幸せだと感じられる人間が増えたはずですから。
それに今だって結構この理論は使えると思いますよ?そんなに人のことばっかり気遣ってもうっとうしがられるような世の中ですから。皆十分に幸せな世の中になったのですから、もう少し自分の幸福だけ考えていても罰は当たらないし、逆に自分から人に幸福を渡してしまったら、逆に不幸な人が増えるだけかもしれませんしね。物事は本当に一面だけで捉えられませんから。

この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
bo-sukeさんのご意見はもっともだとは思いますが、彼は「最大幸福」と言っていますよね?
「最大」の幸福を求めるとは軋轢を生むことにはならないのでしょうか?

ちょっと補足というか蛇足というか覚え書き。

#3の方の意見は「ロールズの正義律」として知られていて、すでに可成りの研究が進んでいます。
参考に↓にwikiのページを張っておきます。

この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
補足もありがたいのですが、私はベンサムが真にどういう意味でこの言葉を残したのかがしりたいです。

ベンサムという人は知りませんが、どんな偉い人の言葉でも常に正しいことばかりではありません。
ベンサムさんの意図していることが私には不明なので、あくまでこの言葉から受ける印象に基づいた私見を少々。

「最大多数の最大幸福」によって、「少数の不幸」が発生し、それが「最大多数の幸福」を徐々に幻想に近づけていることは今のパレスチナやイラク情勢によって明らかです。
そもそも他人を犠牲にしてまで【最大の】幸福を求めること自体が根本的な誤りです。

「最大多数の【そこそこ】幸福」を目指すべきであって、「最小少数の最大不幸」が生じないような叡智に目覚めることこそ、真の意味での「最大多数の最大幸福」につながるのだという単純な原理を理解できないほど、今の人類は病んでいる(あるいは進化が停滞している)ようです。

この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> この言葉が意味するところは少数の人が不幸になろうとも、
> その行いで大半の人が幸福になるのであればそれが社会的
> に一番いいと言っているのでしょうか?

その通りです。
もう少し言うと、この少数の人に補償を行うことで全体の効用を上げることができると考えています。

この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、少数の人に補償を行うのであれば有用の考えですね。

北朝鮮の政治体制と日本の政治体制を比較すると「最大多数の最大幸福」の意味がわかるでしょう。どちらが客観的に幸福といえるかですね。
「最大多数の最大幸福」とはそのような意味です。

この回答へのお礼

回答ありがとうございます

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