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私は無知です(一般教養なし、新聞テレビ欄だけ)でも生きてく上で困る事はありません。
それに身の回りに起こる事件を解決する方法やモラルは持ちあせています。自分の人生体験だけで対処できます。政治、経済、歴史、世界情勢は語れませんが。幸せ感じて生きてけるならいいです。

というような友達がいます。人望もあるので確かに幸せな一生送る気します。でも私には手の平の上の孫悟空に見えてしまいます。私は無知は罪のような気がするしでも幸せならいいかとも思いますし・・。

私自身も無知なので分かりやすく説いて下さい。

A 回答 (11件中1~10件)

その友達は本当に無知なのでしょうか?無知なら人望がないのでは?


どんなに知識や教養があっても失敗もします。それを真摯に受け止め、日ごろから腰を低くして暮らし、知識や教養を表に出さない。そんな人の可能性もあるのでは?

無知は罪?
誰にも迷惑をかけなければ罪ではないでしょう。少なくとも悪いことばかりするキャリアや政治家よりはマシでは?。

日本人は江戸時代に比べて知識や教養は身に付いたけど、大切なものを失ったような気がします。いさぎよさとか、言ったことに対する責任とか・・・。

幸せな一生を送れればいいと言うのであれば、知識や教養はその妨げになると思います。昔、「走れメロス」を読んだ時、そう感じました。

その頃から私は、知識・教養があり、かつメロスのように人を信じれる人間を目指して生きてきたように感じます。
そう思ったことを今思い出しました。

取り留めのない話ですみません。
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もう一個思いついたんで書きます。


ラーメンを蓮華だけで食べようとする者を愚者と言い、蓮華と箸と、最後は器を使って全部食べ切るものを知者といいます。
愚者はスープしか飲めないので、ラーメンとスープを取り違えます。今の科学者は蓮華だけでラーメンを食べようとしています。しかし、彼らのほとんどは、蓮華だけでラーメンが食べれるとは思っていません。それで、愚者というには知りすぎています。哲学版的に言うと、蓮華を知るものが、言語ゲームの存在を知るものです。彼らは、蓮華を知るので、箸も知ることが出来ます。ただ、彼らが食べるのはのびた麺です。箸を使った事がないものには、箸を覚えるのには時間がかかるのです。子どもは早く覚え、大人はなかなか覚えず、その内の弱い人は挫折します。
メニューはたくさん用意されています。
 
 ラーメンの具に、うどんのだしがかかっています。愚者は、ラーメン屋でそれを食べるとラーメンだといい、うどん屋でそれを食べるとうどんだといいます。
愚者でない者は、ラーメン屋にいるということ、またはうどん屋にいるということを知っています。哲学版的に言うと、言語ゲームを知っている者はそういう者です。愚者というには知りすぎています。しかし、知者というものは、家にいても、ラーメン屋にいても、うどん屋にいても、コンビニの前でも、デリバリーでも、「それを食べる」のです。知者の住む町は広く細かいからです。知者はそこで好きなものを食べます。
 愚者は好きなものを食べれない事がわかります。だから、愚者は満足できません。愚者とは無知の人です。
 しかし、知者も町の外は知りません。そのことで、上には上の、知者がいるのです。知る事で始まりはしますが、すべてではないのです。知ることは、世界で始めるということです。知者は「そこを生きる」ということを知っています。

 ここからは少し違う事を書きます。概念というさびで、動かなくなった車というのは、あなた自身や「僕」といったようなものです。車を動かすにはカギと運転手がいるのです。動いている車は錆付きません。さびがついていることを知るものは、愚というには知りすぎています。愚である時間がたてばたつほど、錆もより多くつき、鈍くなっていきます。カギと運転手は所与であり、あなた自身や僕は、それぞれの通りに、走るのです。マウンテンバイクにはそれの、モーターボートにはそれの、救急車にはそれの「走り」があるのです。それが、「生き様を生きる」ということです。しかし、自分の車を運転しながら、人の飛行機の操縦を考えるなど、事故のもとです。しかし、それらが全体としてどの様に走っているのかを考えるのは悪くないです。あなたや「僕」の活躍がわかります。レースする物はレースを考え、海難救助隊はそれを考えるのです。それらは、自己を知った次の事です。
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仏教の用語で「知」は単なる知識を、「智」は知識を消化し自分のものにしたものを言うそうです。

ですから私個人は、後者の「智」がないという「無智」でなければよいと思っています。とりわけ人間は失敗からしか学べませんから、失敗を良い経験として変換できるなら、学歴も読書量も関係なく、良い人生を送ることができるでしょう。おかしな基準かもしれませんが、ある「智」を得るまでにかかる時間や金銭を投資効率として考えるならば、誰かに教えてもらったり、何か本を読んで理解するよりも、自分の経験から把握できる方がずっと効率的だし、自分のものになりやすいと思います。ただ、他人をひがむ気持ちで「無知」を肯定する人とは、私は友人にはなれませんけど。
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自分のしたいことがわかっていて、それを実現するのに十分な知識があれば、


ほかの知識はとりあえずなくてもよいのでは。
自分がしたいことがわからなければ、何を知っていても自分の役には立ちません。
自分のしたいことを知るための、自分の心の覗き方を知っていさえすれば、
あとは思うように知識を取捨選択すればよいのだと思います。

あなたのご友人は、あなたから見たら、もっと多くを人生に望んでしかるべき
人と映るのでしょう。
ご友人自身が自分の望みを知った上でそうなさっているのならそのままが
よいのでしょうし、自分の望みについて突き詰めて考えていらっしゃらない
のなら、もったいないことだと思います。
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自分が無知だとか無教養だと堂々と言える人は、知識人といわれる官僚や教授に別に魅力を感じていないからでしょう。



貴方の疑問はこれから色々知識を身につけようと思っているけれども、果たしてそれが将来の幸福に繋がるのかという事だと思いますが、僕も20歳前後にその疑問にぶつかりました。

僕は勉強するのを辞めて、海岸を散歩したりする日が何年も続きました。

今は幸福かどうか分かりません。
官僚や教授にはなれませんでしたが、散歩して風を感じる時間は今も好きですね。

無知の罪があるならば、知識を身につける罪もあるように思います。
知識は食べ物と同じで、ただ多量に食べても健康も美容も損なうだけです。
体を鍛えてシェイプアップするように、心を鍛えて知識を消化していくのも大切なのではないでしょうか。

ではここで一句。

無学とは、無という有を、学ぶものかな
(哲学は楽しい)
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僕にいえることは少ないですが、結婚式に礼服を着ていく。

これは知ではありません。賢い事ではありません。ただの慣習です。賢い者は、結婚式を挙げてやるものです。祝福するとはそういうことです。くどいですが、祝福されるとは、結婚式を挙げられることです。
又、こういうことがいえます。
一つの歯車を見ていても、時計は見えてきません。時計を見て、始めて歯車の意味を知ります。時計を見る者を知者といい、歯車のみを見る者を愚者といいます。 歯車のみを見る者というのは、世界を見て、問題が山積みなことを悲観するような者です。わかっていないことをわかっていないのです。
また、世界がぐるぐる回っている。それに気付いている人はいます。しかし、その人には何故世界がぐるぐる回っているのかわからない。わからないことをわかっているという事で、その人は愚者というには知りすぎています。
悲観する者は、慰められるのでまだいいですが、世界を見て、問題に気がついてかつかずか、自分が幸せならいいや、というものは、罪を犯しています。その人は、風の強い崖っぷちに向かって、逆立ちするような者です。その人は人から外されます。
 人が人である。そのところに、何故人なのかということもあります。そのところから、罪がどういうものかがわかります。
僕が間違った事を言っていると思う人は、正してください。
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なんとなくですが、


難しいことは他人に任せてしまえば自分だけは楽できるからいいや、てきな“幸せ”感に思えてしまいます。。
なにかあっても、騒ぐだけー。みたいな。。

「私は頭が悪い」とか「知らないことが多い」など、形容詞で言うのではなくて、「無知」って名詞で言うひとは、どこかに、もうそれで決定、私は努力しませんからだから「あなたか誰かよろしく。頼まなくても、誰かやってくれるでしょ?」という傲慢な魂胆があるように、聴こえてしまいます。(私もひとのことは言えないけど。。。)

そのかたご自身が本当にお幸せであるならなにも言うことはありません。。。でも、なんとなくですが、わざわざ名詞で「無知」宣言するひとは、家族なり友人なりに、迷惑をかけていることをうすうす感じつつ、謝りたくない!自分が不利になりたくない!みたいな、計算、裏工作てきな嫌な感じを受けます。

それに、勉強(知らないことを知る)ってほんとに楽しいのに。。。もったいない気がします。
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プラグマティズムの観点からいえば、無知は罪ではありませんが損はします。

自分でビジネスするとしたら、法律から経済まで幅広く知っていないとならないし、それらの知識を動員して問題解決する知識~メタ知識も必要です。自分はビジネスとは関係ない、としても終身雇用が崩壊した今では、雇用状況が流動的でビジネス的になっています。つまり、多かれ少なかれ、知識を活用して生き延びなければならない時代になってきているのですね。

逆に言えば、無知でも幸せを感じる時代、というのは「古き良き時代」、であったのかもしれません。
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 一見すると、謙虚そうにも感ずるのですが、はなはだ傲慢さが伺えます。


 何でも知らないといえば、済まされる、許される、逃れられると思っておられるようです。
 本当の無知ならば、他の意見を素直に聞け、それにちゃんと従うことができる筈であります。それが、純真無垢な姿でしょう。
 そういった素養が見受けられず、ただ弁明として言っているようにしか思えません。
 よく「私は無宗教だ」という人がいますが、それならばと問いただせば、菩提寺があり、仏壇があり、お墓までちゃんとあり守られておられるのです。これを指して無宗教とは、認識の無さを痛感致すのみであります。
 これと同様に、無知という割には、ちゃんと社会生活等をおくってらっしゃるようで、嘘の上塗り、認識不足を感じ、憤りさえ感じます。
 何に対して無知なるかをただし、それを知る者に従うことが出来るかどうかでしょう。従えれば、それに対して無知という立証にもなると思います。
 「末法の世には、無知の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。」
とあるように、末法の世の中においては、無知の人とは皆のことです。信受出来ていなければ、無知なのであります。このことが分からないから、荒凡夫、愚者と申し、智者に従うのみなのであります。出来ないとなれば、荒凡夫の傲慢さが伺い知れるというものです。
 如何でしょうか?
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哲学上の無知についての解釈ですと、私なんかはどうしてもソクラテスの弁明における「無知の知」を思い出します。

彼は、「自分は賢い」と思い込んでいるどんな人間よりも、「自分は賢くない」ということを知っている点で勝っていると悟る。
これが、「無知の知」ですよね。でも、この倫理上の意味では「無知」というのは知らない事だけではなく、知らないからこそ、その「知」を探る探求心にもあるものと私は解します。

と、これはあくまでも哲学における「無知」の私なりの考えなんですが・・・。
どうも、こういった答えを求めているわけでもないように感じます。
もし、その友人の考えについての「無知」についての質問でしたら観点ずれててごめんなさい。しかし、それは個人、個人の価値観だと思います。
あなたは、「知」とは何をもって「知」とするのでしょうか。
政治、経済、歴史、世界情勢、あらゆることの知識を「知」としますか
それとも、子供にはこう接したほうが良い、こういう時にはこうした方が良いというのを「知」としますか。
彼女はそうした点で、本当に無知なのでしょうか。何も知らずに電車に乗れるのでしょうか?何も知らずに勤務できるのでしょうか?

ややこしくなってきましたが、この答えはいくつもあると思います。
その友人が、社会情勢などに対して「無関心」であったとし、それで構わないというならば、それも一つの考えであるし、否定はできません。
あなたが、そんなの間違っているとする考えもやはり正しいと思います。

私なりの考えですが、人間の価値観、考えは算数のように答えが一つとは限りませんよね。友人のそうした考えに、「確かにそうかも・・・でも何か違うような・・」と考えるあなたは、人に流される事なく自分の考えを持とうとするしっかりした人だと思います。
はたして何を持って「有知」とするのか、「無知」とするのかはあなたの中にある答えでなければ正解にならないのではないでしょうか。
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