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塾の先生学校の先生、いじめセクハラ、家庭内暴力など、おかしな事件がおきていますよね。いつ頃から、増えたのですか?昔は、マスコミなど表にでなかっただけですか?親やまわりの大人や公共相談機関がたよりにならない場合、子供だったあなたは、どうしましたか、今から思えばどうできましたか?愛のむちってやる側の都合のいい言い訳だと思いますか?

小学校中学校のとき、私自身はなにもできませんでした。理由は、周りの人の協力を得ることができなかったからです。今タイムマシーンがあって、その現場に心だけ戻る事ができたら、思った事を言えるか。周りを味方につけれるか、不安です。あなたならできますか?
理不尽な理由でビンタされる同級生、いじめにあう友達、給食を強要される子。小学校六年生女子の体重測定でパンツ一枚の姿を見てる男性教師。

子供の時だったら何を思ってどう行動しますか。今の年齢で目撃したり相談をうけたらどう対処しますか。

子供が親に叱られているのを見ると、特に街角で早くしなさいなどヒステリックに騒ぐ母親に対して、言いたくなるのですが、黙っています。なにか良い言い方があればアドバイスください。

A 回答 (5件)

>愛のむちってやる側の都合のいい言い訳だと思いますか?



 親以外のものが愛のムチを振るう場合、そうなってしまうことが多いように思います。

躾の本質はその相手がよい変化を遂げることが出来るよう矯正することです。

いくらムチを振るう側が「愛の」ムチだといっても、それによって相手に望ましい変化が(少なくともその兆しが)見られないようであるならば、それはやはり、「愛」では無かったと言えるのではないでしょうか。それは愛ではなく自己主張の変化形です。

躾というと、とかく「体罰」や「いって聞かせること」という部分ばかりがクローズアップされますが、本来それだけが躾ではないはず。子供は自分が愛され受け入れられていると感じられて初めて、安心感を抱くものです。愛されることによって、愛することを学ぶ、今の社会にとってもっとも必要な躾ですね。

子供たちは自分が本当に愛されていると得心しているならば、その相手から与えられる戒めをより受け入れやすくなります。しかし、残念ながらそのような、「まず心を開き聞く体制」が出来ていないところに「ムチ」がきたところで到底受け入れられるものではありません。

そう考えますと躾を与える点で親はもっともよい立場にあります。ですから親は子供を愛し躾けるという責任を安易に他人に任せるべきではありません。安易に任せることをしてしまったゆえに、結局任されたひとが知らぬ間に「躾けのあり方」で悩まれるわけです。また、大人の都合で「愛の」ムチを振るう人々を増やしてしまったのだと思います。

もちろん皆悪い動機で行ってわけではないと思います。しかし、自分がとる方法が果たして相手にとって本当に益となるのか、私自身を含め大人たちは謙虚になって自分の行動を分析すべきだと感じています。
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私は、体罰は必要だと思っています。



人間は、動物です。「口で言えばわかる」時代の前に、「体でわからせる」時代は不可欠です。

問答無用で、悪いものは悪い。それを痛みを持って体に教え込む。これが「躾」です。

ものごとは、理屈ではどのようにでも正当化できます。しかし、どう理屈づけしても、「盗むのは悪い」「殺すのは悪い」「嘘をつくのは悪い」のです。

私も悪いことをしたことはありますが、そのたびに無条件で心が拒否反応や拒絶反応を起こします。これは躾のおかげです。ちゃんとした躾を受けていない人は、理論で正当化さえ出来ればどんな悪いことでも平気でできるでしょう。それは怖いことです。


が、それはあくまで原則論。

今の(今に限ったことじゃないが)日本の大人に、子供をしつける能力が十分かというと疑問です。

子供の叩き方ひとつ知りゃしない。力加減や、怪我をしない叩き方というのはあるのです。

また、「叱る」と「怒る」については、他の方とほぼ同意見です。「なぜ叱るか」「どう叱るか」「どれくらい叱るか」は大人の適切な判断が必要です。

むやみに「体罰反対」では躾不可能になります。
しかし、質問者のいうように、理不尽な暴力が子供に振るわれてよいというのでは決してありません。

いま、一番大切なのは子供の躾ではなく、大人への教育と社会通念の再構築だと思っています。
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いったい何なんでしょうね・・・



ま、少子化対策なんて不可能でしょうから、
頼れるのは自分のみって思っています。

昔は普通にあった体罰を否定するようになって20年も経ってないでしょうから、それがよかったかどうかわかってくるのはこれからです。愛の鞭が有ったか無かったかもそのときにようやくわかるはずです。
そもそも、体罰を是とするから愛の鞭は成立するのであって、体罰を否とした時点で成り立たない。

戦後約60年ですがこれって明治+大正と同じ長さです。
明治維新を因として第二次世界大戦を果とするなら、
因を終戦とすると現在は未だ渦中であり、将来どのような果に収束していくのか・・・。

個人的にはいろんな事件について共通のキーワードが潜んでいると思ってます。それにみんなが気付くのは行くとこまで行ってからでしょう。

バカ親に言う為の言葉は探してもありません。
宗教も思想も無い今の日本人には不可能です。
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30代男です。


私の子供の頃は、悪い事(他人に迷惑をかける事)をしたら親からゲンコツとか、教師から平手って結構当たり前でした。今でもそれは正しいと思ってます。
大体、物事の善し悪しの判断なんて子供のウチに覚えさせておかないと、今の受験エリート達(高級官僚等)の様に、他人の事など一切関係ないって姿勢の人間になるだけだと思ってます。

それをふまえて、nakanakanakaさんの質問内容の一部を私なりに考えてみました。

愛のむちってやる側の都合のいい言い訳だと思いますか?>いいえ。やられた側の受け取り方です。やった側の都合は関係ないと思いますし、全て結果論だと思います。

子供が親に叱られているのを見ると、特に街角で早くしなさいなどヒステリックに騒ぐ母親に対して、言いたくなる…>私もなりますが、過度の体罰等でない限り「可愛そうだけど、その家庭各々の問題だし…」って思って何もしません。
ただ、母親にどんなに虐待を受けた子供でも、いざ施設とかで保護しようとすると子供が母親と離れたがらないってしまうケースが多いと聞きます。その現実を虐待をしている母親はどう受け止めるのか、聞いてみたいと思いますね。

この回答への補足

自分が嫌な事を言われてる時、やられてる時、なにが悲しいかというと、味方になってくれる人がいなかったからなのです。自分がその子の立場や気持ちは、そうなんじゃあないかな?と思うのです。公共の場で起きてる事柄ですし、私が口を挟んでもいいかなと思うのですが、うまい言葉が見つかりません。
やられた側が納得ずみならば、最近の鬼嫁のように、そういうのもありなのかな?と思います。私自身、いじめや暴力行為を目の前や耳にしても当事者同士の問題ですし、相談されたわけでもないですし、私よりも近い力になる関係があるだろうし、私が行動したら悪い結果になると思い、傍観者を貫いてきました。しかし、心の中ではそれでよかったのかと、今もくすぶっています。子供や女性など立場の弱い存在に、躾、愛の鞭などの言い方をして自分の暴力行為を正当化してはいませんか。というような意味で問いたいのです。

補足日時:2005/12/24 21:01
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愛のむちと虐待が混合してきた時代とは


叱ると怒るの区別ができなくなった時代。
つまり古くは高度経済成長後からだと思います。
それが水面下のまま時代が過ぎ、平成を迎えたあたり
つまりバブル崩壊後からそれが表面化してきたのではないでしょうか。

ただそんな理不尽な愛のむちが罷り通っていた
時代だったからこそ、いまのニッポンが成長してきた根底なのではないでしょうか。また、社会は思い通りにならない。そういう事を体で教えることもできますし
幼い内から指導するという意味合いも今思えばあったではないかと思います。

ドラえもんに頼んでタイムマシンで過去に行けたとしたら、
必ずジャイアン(ガキ大将)や神成おじさん(近所の人)に相談するでしょう。

でも今の子供達はどうですか?
行政や学校が門戸を開いてはいるものの
ガキ大将や近所の頑固爺なんて存在は皆無に等しい。

もし現在の私が目撃したり相談したら
全力でその子のことを知ろうと思います。
話そうと思います。信頼を築こうと思います。
そして・・・ドラえもんの様に幇助してあげたいと
思っています。

愛のむちと虐待。あれは【怒る】と【叱る】
の違いではないでしょうか。

当然、神成おじさんの如く後者をして
あげたいものです。
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