保科正之は大老ですか?
子供の頃、保科正之は大老と習った記憶があり、また「風雲児たち」という漫画でも「大老」と書かれているのですが、本屋で見た歴史資料集の歴代大老の名前を見ますと載っていません。なぜでしょうか?
回答(4件)
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No.4ベストアンサー20pt
保科正之は、徳川二代将軍・秀忠の子供であって、三代将軍・家光とは異母兄弟に当ります。
その三代将軍・家光から非常に可愛がられ、高遠藩3万石の藩主を務め、その後、山形藩20万石、会津藩23万石で大身のの大名となりましたが、大老にはなっていません。
家光が死に臨んで徳川宗家を頼むとの言葉を正之にのこした。正之はこの言葉を忠実に守り、「会津家訓十五箇条」を作成し、会津家は幕末の松平容保に至るまで徳川家への忠誠を貫く事になったのです。
正之は江戸とのかかわりが大きい。
玉川上水、上野広小路、振そで火事の後の救済活動、芝・浅草開発・神田川の拡張、江戸城天守閣再建反対等など。62歳で三田にて死を迎えたそうです。
この回答へのお礼
ありがとうございます。なぜか大老だと思っていました。
No.3ベストアンサー10pt
保科正之は家光の異母弟でありながら終始影の人として将軍家に接し徳川将軍家の存続に尽力しました。
従って幕政の正面に出ることなく、老中、大老などの職に就くことなく補佐役に徹しました。
彼が残した「会津家訓15ケ条」にも将軍家に背かざる事と定め、幕末まで守られました。
殉死を禁じ、間引きという乳児殺しを禁じ、高齢者に手当を設けるなど今日に通じる諸制度の改革が有名な名君ですがただ一つ朱子学に傾倒して朱子学以外の学問に干渉して、熊沢蕃山や山鹿素行の登用を妨げた事は瑕瑾といえましょう。
この回答へのお礼
ありがとうございます。どこかで勘違いがあったようです。
大老ではありません。
保科正之の同時代での大老は、土井利勝、酒井忠勝です。
家光の死後、遺言により4代将軍家綱の補佐役となっており、実質的には副将軍でした。家光の実弟という立場から、大老というわけではありません。
官位も辞退したことがあります。
この回答へのお礼
ありがとうございます。保科でなく別の人物と勘違いしたのかもしれません。
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