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2つの質問ですいません
個人的会見で結構です。(短的)にお願いします。

Q1.大阪の陣にて家康は真田幸村に本陣を突かれ、記録には(致命的な傷を負い命からがな逃げ、馬は家康の血で真っ赤に染まっていた)らしいのですが(実はこれで死んでいたのでは??)

Q2.伊達政宗は兄をうち、奥羽の当主となりましたが実際は(夜密かに逃がし出家する事を約束に逃がした、その後は高野山にて出家した?)

Q3.金沢100万石を捨てた最強の剣士(前田慶次)の行く末の歴史は?
(どこで何をして実際像は?)

上記は本当でしょうか?又、個人的好みの意見でもかまいません。

A 回答 (5件)

2について・・・


政宗に兄はいません。
当時嫡男というのと長男というのは違います。正室の長子が嫡男で、ただ単に長子、長男というのは、庶流(側室、または妾の男子)も含めた長男となります。
有名なのは織田信長で、彼は次男(三男説あり)ですが、兄は側室の子ですので、嫡男です。長男ではないが嫡男であるの典型的な例ですね。

政宗の場合は、長男でもあって、かつ嫡男(正室義姫の長子)でもあったので、はじめから伊達家を継ぐことがほぼ決定している人です。よって政宗の「兄」というのはいません。なので質問自体が成り立っていないというのが実際のところです。

なお、nacamさんが言っているのは、政宗の子供の話、つまり一世代次の話です。なお、政宗の嫡男は伊達忠宗です。長子は秀宗です。

また、政宗は弟の小次郎を切っていますが、そのあたりがどうもnekodon339さんの中でごっちゃになっているのではないでしょうか?嫡男と長男の違いがわかっていないとなおさらごっちゃになりますので・・・
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます
>確かに(兄と弟が混乱していたようです)すいません
しかし
これだけ色々歴史を詳しいのも好きこそでしょうね?
ありがとうございました

お礼日時:2005/12/26 21:53

歴史を専門に勉強した40歳のオバサンです。



Q1.について
家康は入れ替わり説がありますから、そこから捉えるならば4~5回死んでいますね。
その中の1つが「大阪夏の陣で真田幸村に討ち取られる。」ですが、逆に、nekodon339さんがQ1.で「死んだのでは?」としている『徳川家康』は、本当に『徳川家康』だったのでしょうか。

Q2.について
> 伊達政宗は兄をうち、奥羽の当主となりましたが
#1さんのおっしゃるとおりですが?
伊達政宗に「兄」が居たという説は聞いたことがありません。
政宗の父・輝宗の子供は、正室の義姫(最上義守の娘・のちの保春院)との間に生まれた政宗(幼名:梵天丸 通称:藤次郎(1567-1636))、政道(幼名:竺丸 通称:小次郎(1568?-1590))のほかは、夭折した千子姫ともう1人の娘の計4人が記録されています。
母の義姫は、政道を家督に据えたかったらしく、何度も政宗の暗殺を謀っていますが、1590年の小田原参陣の前にも毒殺されかけ、危うく命が助かった政宗は、これに激怒して政道を惨殺し、母の義姫を兄の最上義光のもとに戻した-と言われています。
「討った」というならば、「弟」は討っていますが、別に政宗が「弟を討って奥羽の当主になった」訳ではありません。
それ以前、1584年に父・輝宗から譲りを受けて家督を相続しています。

#3さんがおっしゃっているのは、政宗の子供の話ですね。
政宗の第1子は、新造の方(飯坂氏)という側室が生んだ秀宗(1591-1658)ですが、嫡男とされたのは、正室・愛姫(田村氏 のちの陽徳院)が生んだ忠宗(1599-1658)です。
なお、秀宗は宇和島藩主となっており、こちらは「兄」ですが、討たれはしていません。

Q3.について
『前田慶次』というのは、前田利家の義理の甥のことですね?
本名は、前田利益(まえだ とします)、利太(とします・としたか)、利卓(とします)、利治(としはる)、利貞(としさだ)などという説があります(この後は、私が最初に知った「利益」で進めさせていただきます)。
利益の通称は、慶次郎、慶二郎といい、ここから「慶次」が出てきたようです。
前田利益の正室について、名前は伝わっていませんが、義父・利久の弟安勝の娘ですから義理の従姉妹ですね。
彼女が産んだ子供かどうかは分かりませんが、「正虎」という息子と「花」(有賀左京および大聖寺藩士山本弥右衛門室)いう娘、ほかに名前の伝わっていない娘が2人いたようです。
「正虎」は、義従兄弟にあたる加賀金沢藩三代藩主・前田利常に仕えたようです。
私が持っている史料は、慶長10年(1605年)没となっていますが、これも諸説あります(だいたいは、1605年あるいは1612年没説です)。
前田家出奔後は、上杉景勝とその重臣直江兼続の知遇を得て、1598年(景勝が会津120万石に移封された年)から、1600年(関ヶ原の合戦の年)まで上杉家に仕官し、直江兼続の与力として1000石を受けたとあります。
関ヶ原の合戦では、長谷堂の戦い(上杉景勝VS最上義光)で戦ったようです。
関が原の合戦後は、上杉氏が米沢に移封されてもこれに従って米沢藩に仕えた、再び京都に戻って浪人になった、金沢へ戻り二代藩主・前田利長に仕えた、などの諸説があります。
利益には、『前田慶次道中日記』という著書があり、米沢図書館が所蔵しています(米沢市指定文化財)。
本人が詠んだ俳句・和歌なども挿入されており、古今典籍に通じた人物でもあったようですね。
ご存知かもしれませんが、『前田慶次道中日記』に関するサイトをご紹介しておきます
http://keiji-yz.hp.infoseek.co.jp/Nikki/title.html
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この回答へのお礼

凄く解り易く詳しくお答え頂きありがとうございました
(本来目的の個人的意見も頂きまして)
歴史は不可解と予測を追い求めても正解はないかも知れませんしね~
あるがとうございました

お礼日時:2005/12/26 21:57

1番


伝説としてはありますが、実際の事は分かりません。

2番
正宗の長子秀宗は、正妻の子でなかったため、嫡男とはされませんでした。
後に家康が、正宗に与える約束をしていた領土を与えない代わりに、秀宗に宇和島10万石が与えられ、宇和島伊達家の祖となります。
宇和島伊達家は、高野山を菩提寺としましたので、その辺からおかしな話が生まれたのではないでしょうか。

3番
上杉家に仕えています。
最後はわかりません。
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この回答へのお礼

>>秀宗は、正妻の子でなかったため、嫡男とはされませんでした
他意見の方と逆なのですが?

お答え頂きありがとうございました

お礼日時:2005/12/26 11:48

3番目の実際の姿を書いていませんでしたね・・・


剣に優れた歌舞伎者であったと伝わっています。また文芸にも精通いたようです。彼の歌舞伎者ぶりはかなりのものだったようで、1587年の前田家出奔時は利家を真冬の水風呂に入れて逃げたり、1598年の上杉仕官にあたって条件が「俸禄は関係ないので、自由に働かせてほしい」であったりと、そういう人物だったようです(上杉仕官時に名乗った穀蔵院瓢戸(ひょっと)斎は有名)。
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1 真相は不明です。

討たれたという説は、上方、今の大阪などで広まっていたものと思われます。よく2人の家康などという題材ででてきますが、おそらく真田信仰などが生んだ伝説だと思われます。江戸に入ると、家康は賛美の対象となったので、記録が家康側に偏っていることも、この伝説が生まれる要因なのかと思います。一応歴史の通説では家康は1616年に鯛の天ぷらに中って死亡ということになっています。

2 伊達政宗は最上氏より入った義姫の長男であり、伊達輝宗の長男で、かつ嫡男でもありますので、兄を討ったという事実事態がないと思います。

3 慶次はその後上杉家に1000石で仕官し、関が原合戦では東北の関が原といわれた最上氏との戦いに参戦し、その撤退戦で上杉方の殿を勤めてこれを果たしています。その後は諸説ありますが、他国からの仕官に乗らず上杉家で500石を受け1612年没の説が最有力、前田利家の子である前田利長に幽閉され1605年没という説、信長の野望がとっている上杉出奔後1614年没説などがあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
>>伊達輝宗の長男で、かつ嫡男
の部分が他のお答えのかたと違うのですが?
政宗の(兄は輝宗の嫡男)て事ですよね?

お礼日時:2005/12/26 11:45

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