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19世紀末20世紀初めの日露関係について教えてください!!

A 回答 (3件)

ロシアは、19世紀中期に中国から沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク港という念願の不凍港を獲得していました。

19世紀末には、ロシアはさらに南下して遼東半島(旅順・大連など)の獲得、を目指していました。
それに対して日本は、朝鮮半島の利権をめぐって日清戦争を行い勝利、中国の朝鮮半島における宗主権を排除し、遼東半島などを中国から獲得しました。
この両者の行動が、両国の権益・外交政策を刺激したのです。特に遼東半島は、ロシア主導による三国干渉で、日本は渋々中国へ返還…。その直後ロシアは遼東半島を中国から租借したものだから、両国の関係は険悪そのものでした。
しかし日露戦争後(20世紀初め)、世界が三国協商と三国同盟の二大陣営に分かれていく中で、日露協約が結ばれ、極東アジアにおける日露の対立は、ひとまず収束しました。
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この回答へのお礼

教えて頂き、ありがとうございました。
上記の事に付け加えて、また質問なのですが、三国協商と三国同盟の二大陣営に分かれていく中で、日露協約が結ばれたその背景には、日本とロシアの、どのような意図があったのでしょうか?またjk7さん自身、この頃の2国の関係をどう思われますか?

お礼日時:2006/01/07 20:39

当時のロシアが南下しようとした地域は、3つありましたよね。

極東アジア、西アジア(イラン周辺)、バルカン方面です。
世界が二大陣営に分かれていく過程の中で、ロシアはドイツ・オーストリアとの対立を深めていきました。その焦点となったのが、バルカン方面とイラン方面です。
ロシアにとっては、極東アジアよりも西アジア、さらにはバルカン方面の方が重要性は大きかったはずです。その西アジアでは、ロシアとともにイギリスもドイツの3B政策に脅威を抱いていました(インド防衛を考えて)。スエズ運河防衛を考えてもイギリスにとって、バルカンへのドイツ・オーストリアの勢力拡大は好ましくありません。そのイギリスは、日本と日英同盟を結んでいましたよね。
これらの要因から、従来の険悪な日露関係が好転してきたわけです。
こんなところでよろしいでしょうか?
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あまりにも漠然としすぎていて答えにくいのですが、中国東北部や朝鮮半島への覇権をめぐって緊張が高まり、その結果として日露戦争が起こりました。

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