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鎌倉幕府などは承久の乱などがあって朝廷を警戒していたのに、なぜいつも天皇を残しておいたのですか?
朝廷を壊滅させればこのようなことはないと思います。
またそのころの公家などの生活費は独自に年貢を納めさせていたのですか?

A 回答 (3件)

幕府も天皇制度あってのものですから。


将軍職は天皇から権限を与えられた役職に過ぎず、天皇がいなくなると自らの正当性もなくなるわけです。
たしかに武力が強ければ朝廷を壊滅させても日本国のボスにはなれると思います。
しかし単に力で抑えているだけで、正当性はないので、もし力が弱まったり、他にもっと強い勢力が現れた場合、今度は自分がやられてしまうかもしれないという恐れがあるわけです。
しかも新たなライバルから「過去に朝廷を壊滅させた」という汚名を着せられれば、味方になる者も増えないでしょうし。
こういうことを考えると朝廷を壊滅させるより朝廷の権威を利用したほうが得、ということになるのでしょう。

なお公家などはもともと自分で領地を持っていました。
しかし鎌倉幕府ができて地頭にどんどん侵略されていったようです。
ということで、生活費は独自に年貢を納めさせたいたと言えると思います。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/14 10:13

支配者の権威の問題です。


そもそも源氏の権威というものの淵源が天皇の子孫である事です。
これは北条氏にしてももともと平氏ですから、同様。
平安末期から直接暴力によって支配する傾向が高まってきたのは事実ですが、中世以前の支配というものはヨーロッパにしても神などの超自然的権威を一方の背景に、そして直接的暴力を一方の背景に成立するものです。日本の場合これが天皇を通じて行われる、という体制が平安期には完成していましたから、必要なのは天皇制の打倒ではなく、その有効利用でした。かつての継体天皇のように、5世の孫(本当かどうか、というのはさておき)でも天皇になれる(ただしこの時代天皇という称号は存在していませんが)時代とは違って、奈良・平安あわせて500年の権威というものはやはり大きかったようです。
朝廷を壊滅、ですか?それやったら朝敵扱いで反対勢力に大きな理由を与える事になりますが。
実際それをやれる可能性があったのは応仁の乱から戦国時代あたりに、だれかが暴走していれば、ってあたりしか思いつきません。南北朝にしても足利氏というのはつまり源氏でもとは天皇の子孫である、というのが権威の根源ですし、それでも足りないので北朝、つまり天皇家内部の内紛につけこんだ、というやりかたです。
国民性というより権威付けの仕方の問題でしょうね。
ヨーロッパの場合キリスト教の神をもちだせばいいところが、日本では仏教も宗派に別れて全国的権威にはなりませんでしたし、(しようとしたひとは何人かいましたが)またむしろ積極的に天皇の権威と習合していましたから。したがってこういう超越的な権威(マジカルな権威)として天皇制が一貫して機能した、ということでしょう。
中国については文書化された記録(事実かどうかは別)が多くあり、特に東周戦国時代に王朝交代の論理が完成してしまいます。このため革命・禅譲などが王朝交代の形式として存在しているわけで、これも一応「古代の制度に戻る」という権威づけで行うものです。
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鎌倉幕府の成立当初はまだ全面的に日本原告を支配するだけの力はなく朝廷から警察権を委託されているというだけの形であり、東国はともかく西国にはまだ完全な支配権は及んでいませんでした。


その後、承久の乱や蒙古襲来で鎌倉幕府の支配権は全国に及ぶことになりましたが、この時点での支配者の北条氏は幕府の権力者ではありましたが、幕府の長ではなく補佐役でしかありませんからまずは幕府を倒して取って代わらなければならずそうすると抵抗が激しいし実験さえ握っていればよいと言う考え方だったのでしょう。
他の国では前王朝を壊滅させて新王朝ができるのが普通ですが、日本ではそういうことがなかったのは国民性かもわかりません。
公家は自分の家領をもっており、独自に年貢を収納させていましたが、地頭に横領されたりしてだんだん少なくなってゆきましたが、戦国まではなんとか保っていました。
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